葱と鴨。

文化系、ゲーム、映画、ジェンダー。https://twitter.com/cho_tsugai

『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』が傑作だった

家にいる時間が長くなったのをきっかけにディズニーデラックスに登録してマーベルシネマティックユニバース、通称MCUを最初から観ている。

アイアンマンでヒーロー像のアップデートに驚き、アベンジャーズで先進性にふるえ、そしてシビル・ウォーでスコセッシとコッポラの完敗を悟った。

 

この文章の想定読者は、MCUをシビル・ウォーまで観た人。

エンドゲームまで観た人にとって意味のある文章かどうかは正直わからない。それは1つは単純に観てないからで、もう1つはそのぐらいMCUっていうのは1作ごとにテーマと思想性が前進してるから。

アベンジャーズアイアンマン3、シビル・ウォーの展開は完全に想像を超えてきた。だからエンドゲーム完走者には「ほお君はいまその段階にいるわけだね」とニヤニヤしながら見てもらえたら嬉しい。



まず私はMCUを、トニー・スターク=アイアンマンとスティーブ・ロジャースキャプテン・アメリカの思想対立の話だと思っている。

進歩主義vs.保守主義、科学への信頼vs.科学への警戒、自由主義vs.民主主義、グローバリズムvs.ナショナリズム、……。トニーは民主党的であり、キャプテンは共和党的、と言っても大きくは外していないだろう。あらゆる価値観が2人の間で衝突する。

 

そしてMCUにはほぼすべての作品に「問題を解決するのは科学だ」という通奏低音が流れている。アイアンマン、ハルク、アントマンはまんま主人公が理系の技術者だし、他の作品にも科学者が重要なポジションで登場する。ヤンキー気質のマイティ・ソーでさえヒロインは宇宙学者だ。

なので、MCU全体としての主人公ポジションは、キャプテンというよりトニーである。世界は進歩する、21世紀の魔法の杖はサイエンスだ。

その世界で、古き佳きアメリカの象徴たるキャプテンの立ち位置は難しい。アベンジャーズ1でも状況を打開したのはトニーとバナーの自称マッドサイエンティスト2人組の科学への無限の欲望で、キャプテンの倫理観は善良だが旧弊に映る。

 

というのがシビル・ウォーまでの2人の位置関係だ。

シビル・ウォーは、アベンジャーズが世界中で自由に活動することに国際社会が難色を示すところから物語が始まる。

そして「国連の指揮下に入れ」という協定をトニーが受け入れキャプテンが拒否した時は声が出た。そんな逆転があるのか、と思った後に深く納得した。解説しよう。

 

シビル・ウォーの前まで、むしろ個人主義者に見えるのはトニーの方だ。キャプテンは出自が兵士ということもあり、組織の結束を重視する。アベンジャーズ1でも「小異を捨てて大同につけ」とトニーを説得して、「ポリシーに反する」とつっぱねられている。

しかし国連との関係では、アベンジャーズ内の結束をあれほど主張したキャプテンが提携を拒む。これはものすごくアメリカ的だ。しかも第2次世界大戦前の、キャプテンが生きていた時代のアメリカだ。

世界史に出てきたモンロー主義という言葉を覚えている人もいるかもしれないが、アメリカ外交は第2次大戦が終わるまで、孤立外交が基本だった。これは個人も同じで、国家は孤立外交、個人は銃と車で自衛して自己完結し、自分に関わる決定について一切誰の指図も受けないという自決精神がアメリカの骨法だ。それをキャプテンは体現している。第2次大戦のスーパーソルジャーであると同時に、1922年マンハッタン生まれで23年間その時代を生きた青年でもあることがキャラに染み込んでいるのだ。なんて重層的な人物造形だろう。ほとんどイーストウッドだ。

そしてアベンジャーズ1まで、キャプテンはアベンジャーズを家族にしようとしている。シビル・ウォーの冒頭でもまだその希望を持っている。しかしカーターを失って完全に孤独になった後に、アベンジャーズの結束と幼馴染のバッキーという二択を迫られ、彼の個人主義は幼馴染を優先するのだ。そこに論理はない。ビジョンもない。「俺はそうする」というだけだ。

 

シビル・ウォーの最後でキャプテンは「僕が信じているのは一人一人の個人だ(My faith is in people, I guess, indivisuals)」と言う。フェアネスや組織ではなく、1対1関係、自分の感覚を信じている。それしか信じていない。

ここで、MCUにおけるトニーとキャプテンの立ち位置が転倒する。個人主義に見えたスタークが巨大なルールを志向するグローバリストで、集団主義に見えたキャプテンは自己の信念だけを貫く孤立主義者であることが明らかになる。

 

別の言い方をすると、トニーは世界の人々のフェアネスを重視するグローバルエリートだ。の彼精神の同心円は自分<親しい人々<世界である。アメリカという国家への忠誠心は薄いが、世界を覆うフェアで巨大なルールを作ることの価値は疑わない。進歩主義だ。

しかしキャプテンの同心円は自分<親しい人々<<<アメリカ<<<世界である。

世界の都合よりはアメリカの都合を優先するが、アメリカの都合よりも圧倒的に自分の都合だ。そこに論理はない。親密度に基づく決断しかない。ある意味無敵だ。

それでもこの2人を、人間としての信頼感が繋いでいる。正義でもフェアネスでも価値観の一致でもなく、「あなただから信じる」という身勝手な理由だけが2人をつないでいる。そしてそれはキャプテンの土俵だ。

この瞬間、トニーとキャプテンの力関係もひっくり返る。キャプテンを説得する方法はなく、トニーを助けに現れるかどうかもキャプテンの方に決定権が移っているのだ。次作で2人の関係性がどう更新されるのか、どんな舞台設定がそれを導くのか気になって仕方がない。

 

シビル・ウォーが公開されたのは2016年5月6日、ドナルド・トランプが大統領選への立候補を表明する1カ月前だ。民主党共和党に引き裂かれるアメリカを目の前にして、双方の陣営の精神性を描き、アメリカが没落するとしたら外敵にやられる時ではなく内戦=シビル・ウォーによって崩壊した時だと警告する。(映画のパッケージでは、キャプテンが青く、トニーが赤く描かれている。青は民主党、赤は共和党の色なので反転が起こっている。そして青と赤が揃ってこそアメリカなのだ)

これはアメリカに友愛をもたらそうとしたディズニーの闘争だ。お気楽なだけのヒーロー映画ではない。

ほとんどが民主党支持者のハリウッドで、リベラルを奉じるディズニーが、ここまでフェアにトニーの弱点を描き、キャプテンを魅力的に描く映画を作ったことも感動的だ。紛れもない傑作だと思う。

2020年のお仕事一覧

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大塚食品 e3特設サイト>

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「推し」と「萌え」の違いは、選択可能性ではないか

「推す」という感覚についてしばらく考えていたところへ、シロクマ先生が「萌え」と「推し」の話をしていたので、長らく寝かせていた原稿をいったん形にしてみる。
昔は「好き」とか「ファン」とかという言葉で表現されていた行動様式が、いつからか「推す」という動詞で表現されるようになり、対象は「推し」と呼ばれるようになってきた。

AKBの活動スタートが2005年なので、この言葉が定着してから軽く10年は経っていることになる。

これが「推す」動詞であるところに、私は時代の空気を色濃く感じている。

 

「萌え」との比較でいうと、「推し」はより能動的な、自分が主役の言葉と言える。

「萌える」というのは主体的な行動というよりも、対象に「どうしようもなく萌えさせられてしまう」受け身な性質の強い言葉だ。焦るとか困るとか、そういう種類の言葉だ。なので、萌えるキャラのように対象の性質を表す形容詞として使われることも多かった。

 

対して「推す」は、推している自分に重点がある。応援者≒消費者としての自分こそが行動の起点であり、推すかどうか、誰を推すかは選択可能であるというニュアンスが強い。

「推せるor推せない」または「推さざるを得ない」という形で対象の属性にフォーカスする用法もあるがあくまでも変形であって、萌えるほど受け身度は高くない。

 

この、避けがたい運命ではなく自分が能動的に選べるものとして何かを好きな気持ちを扱う感性が拡大した背景の少なくとも1つの理由は「消費社会の徹底」だろう。

自己決定と自己責任が内面化された社会では、価値観は外部からではなく、自分の内面から調達する必要がある。つまり受け身でいることは悪であり、すべてを自分で決め、責任を引き受けなければならない。

すでに人気である誰か・何かが先に存在してそれを好きにさせられたのではなく、自分のセンスによって消費対象、信仰対象を選択したというストーリーに落とし込む必要がある。

となれば、「萌え」の受け身さはしっくりこない。

 

そのさらに下敷きとしては、「お前が何者であるか、簡潔にアイデンティファイせよ」という社会圧もある。

「自分は○○オタクである」「○○にハマっている」という語りで自分のキャラ、アイデンティティを提示することは1990年代には一般化していた。みうらじゅんが「マイブーム」という言葉をテレビで使って話題になったのは1994年の出来事だ。この国ではアイデンティティが値上がりしっぱなしである。

 

この消費社会と自分語り圧が悪魔合体したものが「推し」である、というのが私の仮説だ。

なので印象として、「推し」には「萌え」ほどの独りよがりな病的さは少ない。もっと地に足のついた、現実の社会性や市場原理に適応した言葉に見えるのだ。

「萌え」がはらむ対象との一体化、所有欲、降伏感といった雰囲気と比べれば、「推し」はどうしたって少し距離がある。その距離が心の安全につながるのか、逆に不完全燃焼感につながるのか、それがここから何十年のスパンで証明されていくのが楽しみである。

今さらオルフェンズがおもしろかった話

ガンダムオルフェンズの全50話をいまさら一気に観た。

周りから「2期がひどい」と聞いていたのだけど、個人的にはむしろ1期から2期に入って面白くなり、「いつ破綻するんだろう」と思っていたらどんどん魅力的になっていって完結した。

とても議論の全ては追いきれないのですでに誰かが言いつくしたことかもしれないけど、私なりの感想を置いておきたい。

 

オルフェンズの物語には、大きく分けて2つのレイヤーが存在している。

1つが蒔苗やクーデリア、初期マクギリスが所属する「政治的闘争≒価値観」のレイヤー。

もう1つが鉄華団テイワズが所属する「経済的闘争≒金を稼いで成り上がる」のレイヤー。

この2つのレイヤーが基本的に独立して進行し、戦争=武力決着の場面でのみ合流する。

 

オルフェンズの最大の特徴は、主人公である鉄華団の戦いを「政治的闘争」ではなく「経済的闘争」に設定したことにある(過去作をすべて観ているわけではないけれど近いのはGガンダムか)。

ガンダムシリーズは主人公がモビルスーツパイロット≒武力担当であるという物語の構造上、主人公が直接理想を掲げることは少ないが、それでもWのリリーナやターンエーのディアナ、00のシュヘンベルグのような「理想を語る主人公サイドの人物」が配置されていることが多かった。

しかし鉄華団に目指すべき社会像や理想はなく、戦いの理由は単純に資本主義の中で成り上がること、つまり金と権力だ。

 

ガンダムの歴史をこの視点で振り返ると、1979年のファーストからしばらく戦いの舞台は「政治的に思想のことなる複数の陣営の戦争」である。背景にはもちろん、真っ最中だったアメリカとソ連の冷戦がある。

その後も時代の変化に応じてテロや非戦をテーマに取り入れてきたが、ほとんどの作品の中心には「政治的闘争」があった。能動的に参加するにせよ、受動的に翻弄されるにせよ、少年たちが戦う理由はある種の価値観・理想だった。

しかし2015年時点で少年少女が巻き込まれている闘争は何かと現実社会を見渡せば、それは明らかに経済的闘争であったことだろう。格差論が定着し、自己啓発もそれへの批判も一周して、それでもどうやっても逃れられない資本主義こそが現代の戦場だ。

 

その中で、鉄華団は敵のいない終わりのない闘争に突入していく。理想は実現すれば終わるが、成り上がりに終わりはない。一度は設定した「上がり」に到達できたとしても、すぐにまた次の闘争は始まってしまう。否、自ら始めずにはいられない。それが資本主義の重力だ。

 

1期ではクーデリア・蒔苗、2期ではマクギリスという政治的闘争を戦うキャラクターと手を組むことで話のスケール自体を大きく見せてはいるが、鉄華団は最後まで政治的理想を掲げることはしない。彼らを動かすモチベーションは徹頭徹尾「成り上がりたい」だけである。

それでも1期は辛うじて鉄華団とクーデリア・蒔苗の間で最低限の価値観の一致が保たれているが、2期に入ってマクギリスがパートナーになるとそれも消える。

しかもクーデリアは黒い商人のノブリスやヤクザのテイワズと手を組むタイプの手段を問わない政治家であり、マクギリスとラスタルの争いも単純な権力闘争である。つまりオルフェンズには「理想に準じる人」が登場しない。

その中で自分が組んだ相手の成り上がりに賭け、権勢を手にすることだけがオルガの行動原理になる。彼がよくいう「一度手を組んだら裏切らない」というのは、パートナーの価値観の正邪を問わず思考停止するという意味だ。

 

思考停止といえば、登場人物間の信頼関係の根拠が示されないのもオルフェンズの特徴だろう。オルガと三日月を筆頭に、オルガと鉄華団メンバー、蒔苗と支持者、マクマードと名瀬、ラスタルジュリエッタラスタルとガランモッサ、イオク様と部下、カルタ様と部下など、「固い信頼関係があるらしいが理由が明示されない」ペアがあまりにも多い。信頼関係の根拠がまともに説明されたのはタービンズぐらいだ。

なので、普通に考えると裏切りフラグが揃っているような時でも(蒔苗は裏切られると思ったし、ガランモッサも裏切ると思った)、彼らは既存の人間関係の通りに行動する。そこにあるのは関係性の変わらなさ、思考停止だ。あらゆる勢力のあらゆる人物が、驚くくらいに思考停止している。

なまじ昭弘やガエリオなどサブキャラクターの周辺では人格の更新が起こる分、主要キャラクターの変わらなさ、成長しなさがさらに浮き彫りになっている。

この言い落としが意図するところを想像すると、こんな仮説が成り立つ。

「その人間が誰を信頼するかは偶然に属することで、意思決定や選択や、まして価値観の一致などというものではない」

そんな、シニカルで決定論的な世界観。正義の実行ではなく、ただの戦争、ただの闘争を描く。その意味で、オルフェンズはファーストの意志を継ぐ存在とも言えると思う。

人は理由なく簡単に死ぬし、全てを見通す英雄はいない。誰もが状況に翻弄されながら目の前の決断をする。それが集まって偶然的に悲喜劇が生み出される。

「ごろっと世界を提出して何を感じるかはお任せ」系の作品であるのは間違いないので読後感がクリアとは言い難いけれど、多くのものを引き出せる豊かな作品であると感じた。オルフェンズについてはもうしばらく考えてみたい。

「映像研には手を出すな!」 自己表現の時代に、誰かの言葉と身体を借りて語ること

「映像研には手を出すな!」最高です。

クールものを同時進行でみるのは本当にひさしぶりで、最後がたぶん真田丸なので3年ぶりに「来週が待ちきれない気分」を感じてます。

 

「映像研」はいいところだらけなんですが中でも個人的に好きポイントなのが、オリジナリティとクリエイティビティの感覚。

オリジナリティ=独創性=人と異なる自分だけの独創

クリエイティビティ=創造性=面白いものを作ること

いったんこんな感じで定義しましょう。オリジナリティは「人と違う」ことに重点があり、クリエイティビティは「結果として面白い」ことに重点があります。

で、「映像研」は「クリエイティビティの99%はオリジナリティじゃないんだよ」っていう感覚で作られています。それがものすごく好みでした

 

「映像研」は、高校にアニメ部を作ってアニメを作る女子高生3人が主人公で、この中の2人がアニメオタクです。

で、3人がアニメを作る時に次々とアイディアを出すんですけど、それがことごとく「アニメあるある」「ファンタジーあるある」なんです。

ジブリとか元ネタがわかりやすいのもあるし、もっと一般的なのもあるけど、そういう「あるある」をあっちからこっちから引っ張ってきて、つないで動かすとかっこいい! っていうのが「映像研」の快感を構成してます。

つまり何が言いたいかっていうと、主人公たちは「自分独自の、自分だけのアニメーション」を作ってるというよりは、「あの名作のあの場面みたいなやつやりたい!」「あの爆発、あの動きかっこいいよね」っていう模倣によってモチベートされている。

この感覚がなんとも古き良きオタクっぽいというか、表現者である以前にアニメを見るのが好きな消費者としてのアイデンティティが強い。

作者の大童澄瞳さんは26歳だそうですが、いい意味でまったく現代的じゃありません。80年代のオタクみたいな感覚です。



その特徴が一番色濃いのが浅草みどり、通称浅草氏。私の最推し。

3人の中でも一番重度なオタクで、一人称は「わし」、迷彩柄のハットに軍用リュック、口調は寅さんと昭和の落語家の合わせ技で、アニメ作りでは世界観と設定の作りこみに命をかけ、3人で喋ってるとき以外は極度のコミュ障で引っ込み思案という、こんな純粋培養の限界オタク2020年にはもういないだろうっていうぐらいのキャラクター。

彼女は常に映画や落語のセリフみたいな喋り方で、それはたぶん「照れ」です。自分の気持ちを自分の言葉でしゃべるとは真逆の、何かを演じたり名言やミームに乗せる形でしか思ってることを言葉にできないキャラクター。

いるじゃないですか、何の話でもガンダムに喩えたりスラムダンクの名言をひっぱってきたり、ジョジョやナルトでもいいんですけど、それをコミュニケーションの主な方法にしてる人。浅草氏はその極端な例です。

しかも参照元は古い日本映画や落語。たぶん「男はつらいよ」とか「仁義なき戦い」とかあの辺りの邦画と、古今亭志ん朝とか昭和の名人たち。

4話の追い詰められたあの場面、岡田麿里新海誠なら、絞りだすように訥々と「自分の言葉」を語りださせるでしょう。でも浅草氏は、そこでも「誰かの言葉」を借りて目に涙を浮かべて啖呵を切る。

この場面あまりにも愛しくないですか。切なくて、でも共感がやばい。

そして同時に、これもまた「内側から出てくるオリジナリティよりも、見たり聞いたりして蓄積した教養」という傾倒の1つなわけです。

 

2人いるアニメオタクのもう片方は人気読者モデルで、親からは俳優になれと言われているけれどアニメーターになりたいというキャラクターです。

自分の身体で演技をする役者ではなくて、アニメという絵を通じて何かを表現したい。それも、「自己をそのまま」表現することよりも、自己の技術で「かっこいいアニメーションを」作ることで表現したいという構造になっている。自分の身体のままで人気者になれるのに、アニメが好きで仕方ない。彼女もまた深いオタク性を身にまとっている。

 

自分の顔で自分の言葉でしゃべるYouTuber的感性が全盛のこの時代に、他者の言葉と他者の身体を借りることでしか何かを表現できないオタクたち。教養主義的ですらあるそのオタク的な感覚が、2020年に魅力的に描かれたのはすごいことだと思う。

6話が楽しみです

『パラサイト 半地下の家族』時計回りの絶望と、具体と抽象のジェットコースター

『パラサイト 半地下の家族』のネタバレを含みます。よければどうぞ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

たとえば、目の前で人が歩いているとする。

その事実を「よく知る」には、2つの方向性がある。

1つの方法は具体的に調べること。

その人はどんな外見か、速度はどのくらいか、肘はどれほど折れているか、目的地はどこか、何を考えているか……。ディティールを積み重ねて「目の前で人が歩いている」という事態の詳細を明らかにする。

もう1つは抽象的に考察すること。

目の前とはどこか、なぜ自分はその人に目を止めたか、人とはそもそも何か、歩くことは何のメタファーか……。その積み重ねが「目の前で人が歩いている」という事態が置かれた文脈を豊かにする。

人間の思考の癖も、だいたいこの2つに分けられる。カメラを寄るか、引くか。ディティールを詰めるか、抽象化するか、だ。

 

私は映画を見ると、基本的にまず抽象化方向で考えることにしている。のだけれど、時々それを映画の方から拒否されている感覚になることがある。ポン・ジュノはそういう映画を作る1人で、カンヌでパルムドールに輝いた『パラサイト』もまさにそういう映画だった。

1つ1つの出来事、人物、ギミックの解像度が高くて、生々しくて、緊張感が強くて、つまり具体性の重力が強すぎて、思考を抽象方向へ展開することが阻害される。

しかし同時に、『パラサイト』は極めて記号的・構図的な映画でもある。標高や水、においなど、様々なメタファーがかなり直截に示される。

韓国のソウルのたった3つの家族のディティールを叩きつけられたかと思えば、イソップ物語でも聞いているような寓話的手触りが急に顔を出す。

具体と抽象のジェットコースター。

そうやって過剰なまでの具体性の重力と露骨なまでの寓話性が合わさると、「いま何か重要な話を目撃したのではないか」という感覚はひしひしと感じるものの、「それは何の話だったか」が像を結ばない事態に陥る。この消化不全感、喉より奥、肺のあたりに何かが残っている感覚。

映画の内容やテーマは明解なはずなのに、そのテーマの全体像が掴みにくい。その意味で『パラサイト』は、映画でなければ、物語の形でなければ実現できない体験を作ることに成功している。

思考と感情を振り回す濃密な132分間をデザインしておいて、観客が受け身を取れない瞬間に寓話を叩き込む。暴力的な腕力と繊細な作りこみ。歴史的な傑作と言っていい。

 

『パラサイト』そのものへの感想はいろいろあるけれど、まだ誰かが書いているのを見ていない1点についてだけ。

現在Twitterにパラサイトと打つと、一緒に検索されているワードの予測で「時計回り」が出てくる。多くの場合笑えるネタとして言及されているけれど、私には全く笑えるネタに思えなかった。

キム家の息子は家族で食事をしながら「このあいだだって……」とキスという単語を飲み込む。半地下のこの家には、韓国の旧来のモラル、つまり性的な話を家族でしてはいけないという禁忌の感覚が強く残っている。

それに対して山の上のパク家に性の禁忌はない。どうしたら自分たちの快楽が増すかを追求することが衒いなく自然に肯定されている。所有者もわからない安物の下着さえ性的アクセントにしようとする貪欲さはもはやグロテスクだ。

ここでは、ローカリティや格差すらも記号として利用しながら資本主義を軽やかに飛び歩く人々と、地域固有の道徳や風習に縛られて地面にしがみついて生きる人々の分断が提示されている。

つまりパク家のグロテスクさは資本主義そのもののグロテスクさであり、キム家の切なさは資本主義にうまく対応できない人々の切なさである。

だから私には、「時計回り」のシークエンスはあまりにも絶望的に見えた。ここに解はない。現在私たちが生きる社会はこうなっている、という提示がなされるのみである。

『アナと雪の女王2』が解決した「1」の宿題と、ディズニーが扱えずにいるもう1つの問題。

ネタバレを含みます。よろしければどうぞ。

 

 

 

 

 

 

 

 






アナと雪の女王1(以下「1」)には、大きく分けて2つテーマがあった。

1つは「男女の性愛こそが最高の関係性であり、女性は受け身でそれを待つ存在である」という、いわゆるディズニープリンセス像を壊すこと。

もう1つは「社会規範に収まらない規格外の能力や意志を持った人間が社会とどう折り合いをつけるか」という、エルサはどう生きるのが幸せか問題。

 

ディズニープリンセス像については、「1」で綺麗に破壊してみせた。

真実の愛が氷を溶かすという前フリで「王子様のキス」的な男性との恋愛関係を想像させておいて、姉妹の愛こそが真実なのだという結末。もちろん活躍するのは男性より女性たち。クール、文句なし。

 

しかし「1」は、エルサがアレンデールの女王に就任して終わる。これはもやっとした。

「1」の盛り上がりのピークは間違いなく、エルサが城を抜け出して「Let it go」しながら氷の城を作って女王に変身する場面だ。

あの歌は、社会が期待するperfect girl(おとなしくて従順な女の子)を演じるのを止めたエルサが「私は自分の力を思う存分使って生きる。それで嵐になっても知ったことか、私は寒くないし」と開き直る歌だ。

つまり、社会規範に反旗を翻した場面が「1」のピークである。

なのに、その力の使い道が「女王になって王国の人たちのために氷を作るよ」みたいな保守的な形に落ち着いちゃっていいんだろうか、という疑問が残っていた。

 

だからアナと雪の女王2(以下「2」)が出ると聞いて、エルサの自己実現と社会規範の衝突・妥協点が探られることを期待した。

そしてその期待にディズニーはきっちり応えている。

エルサが女王の座をアナに譲って、魔法の集落のリーダーになる形は極めて納得的な結末だったと思う。(あれはたぶん、社会の中に居場所がない天才が、シリコンバレーで起業するイメージが重ねられている)

 

ただ、エルサを救うためにアナの描写が難しくなっていて、再び課題を持ち越したようにも感じてしまった。

 

「1」ではエルサとアナは「ベストパートナー」であることが強調されていたけれど、「2」では別の道を歩む対照的な人間であることが強調されている。

その理由はシンプルで、エルサを女王の座から解放するための選択肢は2つしかないからだ。

アナが継ぐか、王国であることをやめて民主化するか。

ポリティカリーコレクトで考えれば民主化すれば済むんだけど、ディズニーはそれをしない(理由は後ほど)。

 

「2」において、エルサは前作以上にパワーで全てを解決しようとする。旧来の役割分担で言えば、かなり男性的な行動原理だ。これも、2人の違いを強調するための仕掛けになっている。

火の精霊に躊躇なく氷ビームをぶっ放し、協力ではなく独力での解決を望み、ガニ股で氷を滑り、荒れ狂う海を力づくで走り、水の精霊(馬型)を凍らせて従わせようとする。項羽か。

 

そうやってエルサが革新的で解放的で自己決定的な存在になっていくほど、姉が手放した従来型の価値観をアナが吸収する必要が出てくる。

つまり、男性と結婚し、王国の世継ぎになる子供を生んで、魔法を使わず堅実に生きるという人生モデルを、アナが一手に引き受けることになっている。

 

もちろん、全ての人に「エルサのように自由に生きろ」ということは、一周まわってまったく自由じゃない。今と違う形の規範と抑圧が生まれるだけだ。

だからディズニーは複数の生き方を肯定しようとした。森で生きる革新的な姉と、国を守る保守的な妹を、どちらも肯定しようとした。

 

……のだけど、それがうまくいってる感じがどうにもしない。

もちろん、アナは性格・能力的に女王の役割に抵抗がなくて、人のケアもできて勇気を持って地道な次の1歩を選び続けられる人だから自己決定で女王になって万事OKと言えなくもない。

だけどそれって一歩間違えば「姉妹のどちらかに家を継がせる、姉が拒否したら妹に」というイエ制度と紙一重でしょう。

 

それもこれも原因は、ディズニーが王国という「王様が統治する体制」をロマンティックな舞台設定として維持しているからだ。

過去に女性像や有色人種像を大きく切り替えたように、王政という舞台設定を使うのをやめて民主化を目指す新たな自己破壊に向かうかどうかは今後気になるところだけど、ライオンキングから白雪姫まで、ディズニーは王様が登場する作品が多いのでこの判断のハードルは凄まじく高い。

ちなみにディズニーランドのキャッチコピーは「夢と魔法の王国」だ。王国。

 

ということで「2」は「1」が積み残した宿題には応えたけれど、さらに課題を残した形で終わった。

ただ総じて言えば、アナと雪の女王2はいい感じだったと思う。「1」の宿題に応えてくれたのが本当に嬉しかった。やっぱりエルサに女王さまは似合わないよ。

個人的には「1」の方が衝撃が大きかったけどそれは「1」が凄すぎただけで、フェミニズム的な理想は健在だし、女性をエンパワーするという最近のディズニーのミッションに忠実な作りになっている。

アナが保守的とは言っても、自己主張はあるし行動力も旺盛で意志も固い。怒りの感情もまっすぐ表明する。旧来のディズニープリンセスとは全く違う女性像だ。for girlsの映画として好感できる。

ディズニー文化圏が持つ「王政」をどうするかは次の宿題として残ったけど、明らかに視線はその問題を捉えているので何かしらの回答が出てきそうな楽しみもできた。



追記:

for girlsであることを優先した代償としてクリストフがかなり頭の悪い子になっていて、正直に言えばちょっとやりすぎかなぁと思った。

彼はずっとプロポーズの成否ばかり気にしていて、テーマ曲は80~90年代風の古いテイスト(バックストリート・ボーイズ? QUEEN?)、輝くのは「どうすればいい?」とアナに指示を仰いで行動する場面だけ。

アナ雪がfor girlsであるのは確かだけど、ここまでやる必要があったのかは判断がつかない。彼が男らしく振る舞おうとするマッチョな価値観の持ち主ならそれをくじかれる描写があっても納得だけど、そういうタイプでもない。

しかも結局プロポーズは男性からさせている。そこは守るのか。ここまでやるなら、2人のプロポーズの声が揃うとか、さんざん準備してたのにアナが先に言っちゃうぐらいのベタさでもよかった気がする。