葱と鴨。

文化系、ゲーム、映画、ジェンダー。

おひま

一週間ちょっと前からひまわりが2本家にいたのだけど、その片方が枯れた。

まぁゆえあって花屋さんで切り花状態で買ってきたのでそんなに長いこと元気でいられるわけじゃないのは知ってたのだけど、それでも一週間も水をかえたり茎を切ったりと世話していたら情がわいてきて、くてっとした姿を見たときはなんとも言えない気分になった。

錬金術ってあったなとか、花ってどのぐらいと等価交換なんだろう、みたいな。

「おひま」と呼んでいたその1本はもう1本と比べて体が弱かったのか花が大きかったせいか、自分の重みで一度折れてしまい大きく切ったので、それも時期を早めたのだと思う。手のかかる子ほどかわいいというか、もう1本は特に名前はついていない。

家の名前持ちは他にサボテンのおさぼとオリーブの木のオリーブちゃんがいて、ちょっと違うけど「ルンバ神」も一度のバッテリー交換を経て元気に走り回っている。

物を捨てるのは苦手じゃない方だったのになぁと思う一方で、愛着があるものを失った時のダメージが年々大きくなっていて、これはもう犬とか飼えないかもしれないと思っている。

という雑感

性差別を内包した文化の今後~女子校、相撲、男女別で競う100m走~

お茶の水女子大の「性自認が女性のトランスジェンダー学生は、戸籍上男性でも受け入れる」という発表について、前に相撲からスタートした思考実験を置いておく。

 

・たとえば相撲のような、根本に性差別を含む文化は今後も許容されるか

→許容される。

宝塚や歌舞伎のように、性差別を前提にした文化は山ほどある。何らかの限度はあるとしても、その世界に進むことや観客として足を運ぶことが個人の選択であるかぎり、1つの文化として存在しうる。

 

・性差別を含む文化を、補助金などの形で公に支持できるか

→本来的には難しい気がするけど、現実にはこれも数多く存在する。

現行の天皇制だと女性は天皇になる資格がないし、性差別を内包した文化を国家が支持することは普通に行われている。相撲協会公益法人だし、歌舞伎とかも補助金あるし。

ただ個人的には、義務教育課程で相撲や歌舞伎を扱うのは疑問。

原則は「性差別はいけません」で、「場合によってOK」というのはあくまでも例外だとすれば、それを納得的な形で説明できないならやめた方がいい。「昔から続いている伝統」ではさすがに足りなさそう。

 

・では、男子校・女子校はどうだろうか

→すくなくとも義務教育課程では相当怪しいのでは。

性別を男女の2つしか想定していないのが問題だし、「同性愛者お断り」が明らかにまずいとすれば、「男性お断り」「女性お断り」がOKなのはどうやって説明されるんだろう。

女子校には、女性に学ぶ機会が保障されていなかった時代の緊急避難として価値があった。その価値は今も残っている(理系やリーダーシップ問題)けど、あくまでも過渡期的な存在な気がする。

基本的な考え方は私立や高校大学でも同じでは。さすがに先行研究がありそう。知りたい。

 

・オリンピックの「男子100m」とかってあれどうよ。

→個人的には時代遅れになりつつあると思う。

たとえば100m走でファイナリストが黒人ばかりだからといって、「黒人100m」と「白人100m」を作るのはダメでしょと多くの人が思うはず。では男性と女性はなぜOKなのか。

性別は2つじゃないし、線引きが常に論争的になってしまう。いっそ「人類100m」でいいんじゃないだろうか。人間の範囲をどう確定するか、という古くて新しい問題はあるにせよ。

もちろん、「女子プロレス」のようなショービジネスが存在するのは宝塚や歌舞伎と同じでアリ。ただオリンピックが単なるショービジネスではないと自任するならば、「人類100m」の方が納得感があると思う。

空虚な中心としてのスポーツ~想田和弘『ザ・ビッグハウス』~

それをとりまく人々が熱狂し、陶酔し、一体化し、無視し、嫌悪し、大金を投じ、人生を賭ける。

周囲の注目と熱量が高まれば高まるほど、その真ん中にあるアメフトの「空虚な中心」性が浮き彫りになる――。

 

想田和弘最新作『ザ・ビッグハウス』は、巨大産業であるアメリカ大学スポーツの「ゲームの周辺」で起きることを観察するドキュメンタリー映画だ。

 

アメリカにおける大学スポーツの巨大さは、日本人にはなかなか想像しづらい。

数字を並べると、州立ミシガン大学の所有するアメフトスタジアムは収容人数が11万人で、これまでに観客数が10万人を割ったことは一度もない。そしてヘッドコーチの年俸は約10億円である。

日本のプロ野球が、東京ドームの収容人数5万5000人、高橋由伸監督の年俸が1億円ということを考えると文字通りケタが違う。

 

『ザ・ビッグハウス』には、大学アメフトに熱狂するファン、大スターである選手、一糸乱れぬマーチングバンドにチアガール、ゲームを中継するメディアといったスポーツビジネスの華々しい「表側」に加えて

11万人の食事を作るキッチン、警察犬やスナイパーまで動員した大がかりなセキュリティ、大学に寄付をする富裕層、スタジアム前で物乞いをするミュージシャン、チョコレートを売って小銭を得ようとする黒人の子供といった「裏側」も登場する。

 

そしてアメフトのゲームだけがほとんど登場しない。

ちょっと「桐島、部活やめるってよ」みたいでもある(少し脱線すると桐島は明らかに神≒キリストの比喩で、当初は桐下だったのではないかという説を個人的にずっと持っている)。

周囲の狂奔が過熱すればするほど、その中心にあるもの、今回で言えばアメフトの正体・価値がわからなくなってくる。

露悪的に言えば、熱狂の中心では「大学生がボールゲームをしているだけ」だ。

しかしそのボールゲームが膨大な金額を動かし、人の人生を変え、学校の経営を左右し、人口10万人の町を一色に染めている。この実態と影響のアンバランスさ。

 

そして『ザ・ビッグハウス』の美点は、すべてのスポーツビジネスが抱えるこのアンバランスさを良いものとも悪いものとも断定せずに両義性を維持している観察性にある。

 

大学アメフトを取り巻く熱狂は明らかに常軌を逸しており、人種差別、経済格差、排外主義を構成要素として内包している。

しかし一方でアメフトが経済を回し、貧しい学生の奨学金にもなる寄付金の集金装置としても機能している。

何より、アメフトに熱狂し一体感に陶酔する人々は幸せそうに見える。映画でも宗教や国家とスポーツを対比する場面が何度も登場し、アメリカ人の人生観を土台の部分で支える一部になっている。

 

なので映画は、綺麗な結論を伴わずに終わる。

アメリカという国でこそこの形でスポーツは発展し、そして成長したスポーツ産業が国家に影響を及ぼし返す。そのループの1箇所を取り上げて「だからいい」「だから悪い」と言うことは意味がない。

自分たちの社会を駆動している巨大な力学を丹念に観察し、その構造を把握する。

観察の仕事はそこまでだ。

 

ではどういう人にこの映画を勧めたいか、と考えてみる。

まずは社会を動かす価値観、構造に興味がある人。

そしてスポーツビジネスに関心がある人にも勧めたい。「スポーツの価値」を肯定するにせよ否定するにせよ、空虚な中心を扱うエンタメの作法は知っておいた方がいいと思う。

その意味で、この映画がサッカーW杯の時期に公開されていることには意味を感じてしまった。

 

映画『ザ・ビッグハウス』公式サイト|想田和弘監督 観察映画第8弾

『万引き家族』 この世界の複雑さを伝えるには言葉の数が足りなすぎる

万引き家族』がとてもよかった。

 

私はいつも映画を観たあとは、「これは○○についての映画だ」とまず一言にしてみることにしている。

そうすると、自分にとって映画のどこの部分が刺さって、何の文脈に乗せるかがいったん決まるから。

後から振り返って的外れだったなーと思うこともあれば、面白いところに目つけてたじゃん、と思うこともある。

 

で、『万引き家族』はどうしても一言にならなかった。

映画館の前のベンチでしばらく考えて整理がつかず、それから2日ぐらい経ってようやく、ああこれは「言葉にならなさ」についての映画だったんじゃないか、というところまで辿りついたので、その話。

 

その関係を何と呼ぶか。 

親子とか夫婦とか兄弟とか家族とか、

愛とか絆とか、

正しさとか犯罪とか

誰かや何かを言葉にした時に、本当は1人ずつ1つずつ違うはずのディティールが見えなくなってしまう、ということはよくある。

是枝作品の中では、たとえ1つの家族の中でも個人と個人の関係性は、強さ、濃さ、距離なんかが微妙に描きわけられていて、その関係を何と呼ぶかが頻繁に宙吊りにされる。

今作でも「相手をどう呼ぶか」は、主要な問題の1つとして登場する。

 

タイトルからして、このいびつな6人グループのことを是枝監督は「万引き家族」と名づけたわけだけど、確かに既存の言葉でこの6人組を表現するのは難しくて、新しい言葉が必要だったことは想像がつく。

「いま存在するどの言葉でもしっくり来ない現実」は、今作の大きなテーマの1つなんだと思う。

 

しかし困ったことに、『万引き家族』のような「言葉にしたときに消えてしまうもの」を詰め込んだ映画であっても、それを記憶したり誰かに伝えようとすると、言葉にする以外に方法がない。

もちろん「あの風景」や「あの表情」を言葉じゃない形で覚えておくことはできるけど、それを再現して誰かに見せることはできないし、言葉にしないで覚えておける量の限界は結構小さい。

 

だから仕方がないので、なんとか言葉にしようとすることになる。

そうすると「言葉にしたときに消えてしまうもの」を少しでも減らすために、言葉の種類が増えていく。

普段はまず使わない言い回しでも、その言葉でしか表現できないニュアンスがあるならそれを使う。

探してもなければ新しい言葉を作ることになる。それこそ「万引き家族」とか。

 

わかりやすさと正確さは逆方向 

逆に言うと、「誰でもわかる文章」で伝えられることにはやっぱり限界があるんだと思う。

「誰でも知ってる言葉で書かれた、誰にでもわかる文章」は称賛されることが多いけど、この世界のあり方を正確に伝えようと思えば思うほど、その形からは離れていく。

 

短くして、難しい言葉は言い換えて、漢字はひらがなにして

そういう要請を無視するわけにはいかないとしても、

 

より正確に、より詳細に、より多彩な文脈に乗せて

という逆向きの方向性も自分の中で持っておいて、そのジレンマは抱えておいた方がいいと思う。

複雑なものは複雑なまま、スッキリする形に整えてしまわずに覚えておいた方が多分いい。

映画1本ですら言葉にできないのに、世界を綺麗に言葉にできるわけがないのだ。

 

万引き家族』を数日反芻して、そんなことを考えた。

世界の複雑さ、筆舌に尽くしがたさ、言葉にならなさを突きつけるかっこいい映画だった。

ダンジョンメーカーに3日で30時間もってかれて考えたこと

 

ダンジョンメーカー、本当に危険です。

金曜の夕方に落として、いま月曜夕方時点ですでに30時間ぐらいやってる。

仕事は? とか聞かれても口ごもるレベル。これを書くためになんとかスマホから手を放しました。

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一度にできることが絞り込んであって、テンポが異常にいい


 

こんな風に時間を忘れるのは本当に久しぶりで、このゲームがどうしてこんなに止められないか考えました。

 

・挑戦→報酬サイクルが短い(1サイクル約1分)

・選択の回数は多いけど、3択だから悩むタイミングが少ない

・メインメニューではできることが限られていて、次へ行くしかない

・理想形やセオリーはあるけどモンスターも罠も入手がランダムなので、毎回の選択にアドリブ感があって、作業感がない

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次どうするかしか見えなくて、止めるか続けるかの選択肢が浮かばない

 


アドリブ感の時代

この「アドリブ感」という言葉は自分で勝手に言ってるだけなんだけど、メチャクチャ重要なワードだと思ってます。

大袈裟に言えば「むこう10年、流行るものはアドリブ感がマスト」ぐらいの感じで大事、だと思う。

 

どういうことかと言うと、

「練習した成果をそのまま出す」タイプのコンテンツは流行りづらいんじゃないか、ということです。

「練習した成果をそのまま出す」の反対は、「その場の瞬発力で対応する」です。

実例で考えるとわかりやすそう。たとえば、

 

音楽なら

クラシック→ロック・ポップス→ヒップホップ

お笑いなら

コント・漫才→テーマトーク→フリートーク

アートなら

絵画・彫刻→音楽・ダンス→体感型・演劇型

スポーツなら

陸上・採点競技→野球・アメフト→サッカー・バスケ

動画なら

テレビ→YouTube→生配信

 

右へ行けば行くほど「瞬間のひらめき」が大切に見えますよね。そしてどれも、右の方が現代的に見えません?

一見ひらめきに見えて、実は繰り返しの訓練で身に着けた型を応用してる場合も多いけど、その場で判断することが比較的多そうに見えるタイプです。

 

さらに文脈を1つ追加します。ここ10年ぐらいの日本では、練習と努力で身に着けた能力よりも、その人が生まれつき持っていたように見える能力(≒センス・才能)が評価されるようになってきました。

 

この文化ジャンルの流行の変化と、能力評価の流行の変化は、たぶんリンクしてます。共通するのは、努力と練習で身に付けたものよりも、 とっさで本質的で地頭的なものの方が価値が高い、という発想です。

 

そしてようやくゲームの話に戻ってくると、ゲームもアドリブ感がある方が流行るし、観戦対象としても人気がでやすい、と思ってます。

たとえばバトルロワイヤル系FPSが流行ったのも「運ゲーに見える」という理由が結構大きいし(だからプロシーンの人が「あれは運ゲーじゃない」って主張するのは、気持ちはわかるけど自分の首を絞めてると思う)、

そういう意味でダンジョンメーカーは、実際は知識とセオリーが超重要だとしても、その都度の選択にアドリブ感を偽装した設計として、最高によくできます。

 

「ぱっと見運ゲー、実は覚えゲー」という流行の1つの到達点たるダンジョンメーカー、1回騙される価値はあると思います。

すべてのジャングラーに幸あれ

 

「また変更か」と嘆くジャングラーのみなさん、お元気ですか。

LoLのジャングルと言えば、不遇なロールの代名詞です。

レーンが不利になれば責められ、スマイト勝負に負ければなじられ、TopとBotから同時に「gank plz」と要求される。

その手の理不尽を体験をしたことがないジャングラーは1人もいないでしょう。

 

しかもゲーム内にとどまらず、Riotまで集中的に変更を加えてきます。

ポップ時間が変わった、知らない蟹が登場した、謎の植物が生えた、ドラゴンやヘラルドに調整が入った……

と、明らかに他のロールよりも覚えることが多いです。不公平です。

 

そしてそんな不遇なジャングルは、私の一番好きなロールでもあります。

ではなんでジャングルばっかり変更されるのか、というのが今回の話。


ゲームバランスの調整はジャングルで

LoLは「5vs5のチームゲーム」と言われますが、個人プレーとチームプレーの割合はロールによって大きく違います。

個人プレーの割合が大きいロールと言えばTop。「孤島」の呼び名はダテじゃありません。4/0/0とか、逆に0/5/0なんてスコアでゲームが終わることもしょっちゅうです。

 

逆にチームプレーの割合が大きいロールの筆頭が、ジャングルです。 何をするにもレーナーとの相互作用が大事です。

 

さらにジャングルはいろんな意味で特徴的なロールで、LoLのゲームバランスを決めていると言っても過言ではない、便利な、もとい重要な役回りなのです。



ジャングルの調整で決まることその1

ゲームにおけるチームプレー成分の割合

ジャングルはチームの中でただ1人レーンに縛られていないので、マップの中で局所的に人数差を作る選択権を持っています。

ジャングルの周回速度やレベルアップ速度をいじると、レーンの戦いに介入できる回数や影響度が増減し、ひいてはチームプレーが起こる頻度も重要度も増えたり減ったりします。



ジャングルの調整で決まることその2

ゲームの複雑性

相手チームから基本的に姿が見えていないのも、ジャングルの特徴。

「どこにいるかわからない」ということは、あらゆる可能性に対応する必要があるということです。

たとえばジャングルの周回速度を早めると、ジャングラーが自由に使える時間が増えます。すると、レーナーが考慮すべき状況の可能性の数=ゲームの複雑性が増えます。

極端な話、たとえば調整が入って各レーンに1人、上ジャングルに1人、下ジャングルに1人が最適な環境になった場合、どこにいるかわからない相手が2人になるので、ゲームの複雑性は跳ね上がります。



ジャングルの調整によって決まることその3

ゲームスピード

レーナー同士は建前としては同じゴールド・経験値を得る権利があるので、そこに介入してくるジャングルが相対的に強ければ強いほど、ゲームが動くスピードは上がります。

ヘラルドやドラゴンの価値が上がっても、差がつきやすくなるので展開は速くなります。(スカトルでもたぶん多少速くなるはず)



中でもチームプレー成分と複雑性は、ジャングル以外で調整しようとしたらものすごく大がかりになります。

たとえば全チャンピオンの移動速度を倍にしたりすれば、チームプレー成分も複雑性も増えるでしょうが、それだと今のLoLのゲーム性は根底から崩れます。

 

要するにジャングルは、Riotにとってゲームバランスを変えるための重要な調整装置なんです。

そしてゲームの中でも、LJLで多くのチームがKRプレーヤーをジャングルに起用していることからも分かるように、ゲーム理解がとりわけ要求されるロールでもあります。

 

まぁそんな風に無理に褒めなくても、幾多の変更を乗り越えて今まで「Jg」とコールしつづけてきた人は、すでに森の住人の心を持っていることでしょう。

今回の変更でお気に入りチャンプが辛い状況に追い込まれた人も多いと思いますが(ラムスさん……)、懲りずにまた森でお会いしましょう。

極振りの誘惑


極振りというゲーム用語がある。

力や素早さのようなパラメータを自分で振り分けられるゲームで、どれか1つだけを集中的に伸ばすという意味だ。

 

メリットは力勝負、素早さ勝負みたいな特定の状況で必ず勝てること。

デメリットは、苦手な状況に対応できないこと。

 

このメリットの誘惑が強烈で、「もしここで1ポイント攻撃力を減らして、相手のHPが1残って負けたらどうするんだ」という考えが頭をよぎると、他のパラメータに割り振るのが怖くなる。

ちなみに私はだいたい何のゲームでも、素早さ極振りの盗賊系ジョブが好きです。

 

そしてこの「極振りの誘惑」は、リアル人生でもよく遭遇する。

「勉強も人間関係もぜんぶ捨ててゲームの練習をしたい」とか、

「文化祭の準備なんかに時間を取られて、受験に落ちたらどうするんだ」とか。

 

これは最近の教育も影響してて、「誰にも負けないものを1つ作れ」とかよく言うじゃないですか。あれ系の言葉は、生徒には極振りのススメに聞こえます。

 

極振りの落とし穴

で、極振りにはいくつか落とし穴があります。それも結構大きいやつが。

・まず単純な成長量で言うと効率が悪い。

何でも始めた最初はすごいスピードで伸びるけど、一通り学習した後はどうしてもスピードが鈍る。とても細かい努力を積み重ねて、やっと少しだけ伸びた実感が得られたりする。

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パワポスキルが皆無なのは許してほしい)

他のことに少し時間を割くだけで、効率よく伸びる部分を美味しいとこ取りできるケースは結構ある。

 

・あと、「〇〇は凄いけど、他のところがダメだから〇〇的にもダメ」となる可能性がある。素行が悪いとか、コミュニケーションに問題があるとか。これは単純にもったいない。

 

・極振りしたものが成功しなかったときに困る。

成功した時の収入が億を超える野球やサッカーですら、親は高校や大学へ行かせようとする。今のプロゲーマーならなおさらかもしれない。


極振りにはロマンがある

ただ、じゃあ極振りなんかやめればいいかというと、そうとも言い切れない。

極振りしないとたどり着けないレベルというのは確実にあって、各界のトップランナーにはそういうタイプの人も結構いる。将棋の羽生さんとか、かなり能力のバラつきが大きいけど極振りがハマって超一流になった人はいて、簡単には否定できない。

 

あと、やっぱり極振りにはロマンがある。

マンガでも、「全ての能力がハイレベルなキャラ」より「誰にも負けないものを1つだけ持ってるキャラ」のが魅力的じゃないですか。NARUTOロック・リーとか、ハイキューの山口とか、ヒロアカやワートリの登場人物たちとか。

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自分でも何の話かわからなくなってきたのでまとめますが、極振りにはロマンと可能性がある代わりに、リスクがあるということです。

0:100なのか、20:80なのか、10:10:10:10:60ぐらいなのか。

持ちポイントには限りがあるので、ステ振りはとても大事です。ご利用は計画的に。