葱と鴨。

文化系、ゲーム、映画、ジェンダー。https://twitter.com/cho_tsugai

LANパーティの立ち回り

 

少し前にこんなことを書いた。でもC4LANへ初めて行ってみて、ちょっと考えを改めた。

理由はLANパーティが思ったより社交の場で、立ち回りの難易度が想像以上に高い空間に見えたから。

ざっくり言って、LANパーティを満喫するためには次のような条件のどれかを満たす必要があると思う。

 

1.自分がプロゲーマー、配信者、何らかの有名人である

2.人目を惹く何かがある。たとえば腕前、ド派手なPC、コスチュームなど

3.ゲーマーという共通点を武器に人と仲良くなるコミュ力

4.知人と一緒に行く

 

要は、人と話す機会を確保しておいた方がいいということ。

このどれも持たずにPCとゲーム愛だけを握りしめて会場へ行った場合、運に恵まれない限りはツライ思いをする可能性が高いと思う。

 

私自身は会場に知り合いがいるのも分かってたし、仕事柄初対面の人に話しかけるのも苦じゃない方だ。それでも「これどうしたもんかな」という瞬間はあった。

あれがもし18歳の時の自分だったら、かなり早い段階でそっと帰るしかなかっただろう。

ということで声をかけてくれたり話し相手になってくれた方々、本当に助かりました、ありがとうございます。

 

誤解しないでほしいのは、最初のハードルさえ越えてしまえばLANパーティはとてもいい感じの空間だったということ。

一番実現しやすいのは知人と一緒に行くことだろうから、検討してる人はまずそれをおススメしたい。少なくとも「1時間くらい相手をしてくれる人」を2、3人確保して行くといいと思う。あと「一緒にごはん食べる人」もいた方がいい。

そのうえで、勇気を振り絞って誰かに話しかけられたら最高。たぶん話しかけられて嫌な顔をする人はほとんどいないので、そこは信頼していいと思う。自分がやってるゲームの話をしたくないゲーマーは少数派だ。

そういう意味でも、最初のハードルだけが関門のイベントだと思った。

Daraさんの引退に思うこと

Daraさんの引退やPENTAGRAMの在留カード問題についてあまり言及してこなかった人として、その理由といま思ってることをまとめてみます。



この問題に言及してこなかった理由はほぼ1つだけで、「何が起こったのかをわかっていないから」です。

LJLの発表、PGMの発表、BCの反論、Daraさんの当時および今回のツイートはもちろん全部見てますが、全体像がハッキリわかりません。

Daraさんが巨大な苦痛を受けたこと、引退に追い込まれたことだけが確かで、その経緯が正直全然わからない。

経緯を知っていれば何を言うか言わないかの線引きを考えることもできるでしょうけど、経緯を知らずに発言するにはあまりに重大な案件と考えました。

この考えは今も変わっていないので、問題そのものには言及しません。

 

ただ、その周囲の躊躇が状況の解明を滞らせた面はたしかにあって、もしかしたら自分のレベルでも最悪の結果を避ける方法が何かあったのでは? ということを感じています。

まずは何が起こったのかという事実を明らかにすることが最初で、全てはそれからです。適切な判断がなされることを願います。



あと、個人的に思っていることも書いておきます。

まず、いまコミュニティに渦巻いている「何も言わない人は日和見だ」という同調圧力に満ちた空気はさすがにやめませんか。

事情を知らない人が発言を控えるのは自然なことだし、まして事情を知り得る立場の人がそれを公表できるわけがありません。

 

そして、PGMが邪悪な組織であるという見方にも現時点では同意しません。

「無能で十分説明されることに悪意を見出すな」という格言に照らせば、今回の事件の中で何らかの不備や不足があったことは確かでも、現時点で悪意の存在を確信するのは勇み足だと思います。

金銭トラブルならともかく、PGMにとってメリットがあるように見えない行為の動機もどうにも思いつきません。

 

最後に、Daraさんの引退が本当に残念です。

LJLにとって特別な選手でしたし、私も何度も話をさせてもらった選手でした。

昇格を決めて「(LJLは)家みたいな、私が存在してるところ」、「Rokiと私は今から始まる」と話してくれたのを思い出しても、一番無念なのは本人のはずです。どんな形であっても、彼の今後が明るいものであることを祈ります。

PUBG、Fortniteが流行った理由を考える

日本でMOBAが流行らない理由という話が盛り上がっていたので、それはみんなに任せることにして、前から考えてた「世界でバトルロイヤルが流行った理由」についてまとめてみる。

 

私が知っているのはPUBGとFortniteで、特にバトロワの基本型に近いPUBGをイメージしてもらうとわかりやすいと思う。



それでは早速バトルロイヤルゲームのいいところ

 

1.覚えることが少ない(ように見える)

 

 最近のゲームは覚えることが多い。コンボとかフレームとかクールダウンとか効率とか。

FPSがもともとジャンルとして直感的なのに加えて、生き残るというルールのシンプルさもあってわかりやすい

実際は武器や乗り物のポップ場所とかあるんだけど、ほとんどのプレーヤーにとってそれは「覚えること」に入ってない。運と勘が勝負を分けるように見えることが参入のハードルを下げてる

 

2.負けてもイライラしない

 

そもそも100人に1人しか勝てないから負けがデフォルトで、負けてもイライラしない。でも勝った時はめちゃくちゃ嬉しい。

しかも負けた瞬間にゲームが終わるから、不利になりながら追い詰められる時間が存在しない。

LoLで敗色濃厚の15分は楽しくないし、味方がサレンダー通してくれなかったらもう最悪

負けそのものよりも、じりじり追い詰められる時間の方がストレスな人も多いはず

 

3.人間と戦ってる感じが薄い

 

LoLや格ゲーは同じ人としばらく向き合うから、「この人ゴリゴリくるな」みたいに相手の人間性を感じる場面がある。でもバトロワは遭遇したら撃ち合って死ぬから、それがあんまりない。

だから、(煽られない限り)人に負けた感じが薄い。

相手に負けたっていうより、自分が死んだっていう感じ。PvPだけど、感覚的にはPvEに近い

100人中何位でした、っていう結果の出方も勝ったor負けたよりも「自分の成績」に目がいくようになってる

 

4.味方の足を引っ張る罪悪感が薄い

 

自分が弱くてもやられるだけだし、LoLみたいに味方に怒られたりしない。だから友達と一緒にゲームしても険悪にならない。かっこ悪い死に方はむしろ笑ってもらえる

逆に連帯感はアイテムの共有とかでちゃんと感じるから、マルチプレーの楽しさも大きいし実力差があっても組みやすい

 

5.KDAもランクもそこまで意識されない

 

ゲームのデザインとして、相手の強さも見えないし自分の強さも見られない。客観的に自分の弱さを突き付けられる場面が少なくて、劣等感を感じるタイミングが少ない



総じて言うと、適当にも遊べて、ストレスになる要因が少なくて、負けても精神的なダメージにならない作りになっている。

これはRiotの齋藤さんも言ってたけど、短い動画にしてSNS映えするのも要素としては大きかった。

なんにせよパーティーゲームとしてとても良くできてて、流行ったのには理由があったと思う。

 

ただ逆に言うと成長とか発見を自然に感じるポイントが少なくて、自分で細かく課題とか修正点を見つけるタイプじゃないと飽きが来るのがはやいと思う

そしてそういうタイプにとっては、現状ではLoLや格ゲーの方が奥深く感じそうな気がする

PUBGの人口は結構減ったし、Fortniteがこの勢いをどこまで維持するかは気になるところ。

 

ということで、バトルロイヤル形式は本当に革新的な発明だった。

でも、出てきた瞬間の「すべてのゲームを過去にする!」みたいな高揚感はさすがに落ち着いてきて、いいところと物足りないところが見えてきた段階なんだと思う。

なんにせよ新しいジャンルが勃興する瞬間はテンション上がるから、また何かが来るのを楽しみにしていようと思う

人気とはwikiの長さである

プロ選手の人気って、「wikiの長さ」だと最近は思ってます。

そんなことを考えはじめたきっかけは、あるプロゲーマーの一言でした。

「なんであんなに僕の名前出るんですかね」

たしかにその人は、配信やSNSで名前が出ることが多い人です。

もちろん全部がポジティブな言葉ではないけど、プロゲーマーも人気商売な部分があるので、名前が出るのは基本的にイイことです。

 

で、なんでその人が言及されるかを考えてみたら、いろいろ理由があって

そもそも知名度が高いとか

キャラが立ってるとか

代名詞になる試合があるとか

キャリアが波乱万丈だとか

一言でいうと「エピソードが多い」人なんですよね。

 

エピソードが多いっていうことは、その人の存在が喚起する感情の量、思い出せるシーンの数が多いってことです。それが人の興味を惹きつけるし、存在感にもつながります。

それで、wikiが充実してる人は人気があるということなんじゃ、と思ったわけです。

 

で、気になってイチローさん、三浦知良さん、羽生善治さん、ウメハラさんみたいな人たちのwikipediaを見にいったら、やっぱりものすごく長いんですよ。

「それ載せる必要ある?」みたいなのも含めて、とにかくエピソードの数が多い。

人気があるからwikiが伸びるっていうのもあるけど、wikiに書きたくなるようなエピソードが多いから人気が出る、っていう方向も確実にあるよね、と思いました。

(私が他の人じゃなくてこの4人を見にいったのも、つまりそういうことです)

 

この話にはちょっと不都合なことがあって、wikiって1回増えたら減りません。

だから、1回頂点に立った人の人気・存在感を超えるのって死ぬほど難しいんです。

キャリアの曲線とか色んなことを無視して雑に言い切ってしまえば、成績で超えるだけじゃダメで、wikiの長さで超えないと逆転できません。

 

つまり何が言いたいかというと、プロチームやリーグを運営してる人にとって「それで選手のwikiが増えるか」っていう考え方がひとつ目安にならないかなー、ということです。

なんなら、自分たちでwikiを作って小さいエピソードでも追加してったら、「へぇ」ってなると思います。

羽生さんが子どものころ将棋大会に出る時に、本人は巨人ファンなのに見つけやすくするために親が広島の赤い帽子かぶらせてた、とか将棋とまったく関係ないけど最高に可愛いじゃないですか。

 

ここまで書いてきていまさらですけど、もちろんwikipediaっていうのはたとえ話で、要は「ファンの頭の中にある、その人について思い出せるエピソード」のリストを増やそうってことです。

SNSでもいいし、配信でもいいし、インタビューでもいいし、オフミーティングでもいいし。

ゲームがうまいうえに自分でアピールもできちゃうナチュラルボーンスターは、放っておいても人気がでます。

でもアピールは得意じゃないけど実はめっちゃ面白い人、って想像以上にいます。

 

そういう人のエピソードを1個でも多く知りたいし、知ったら人に喋りたい。

ファンとかファン予備軍っていうのは、そういうものだと思うんです。

人生のピークはいつですか?

 

ロックバンドQueenの有名な曲の1つに『Don’t Stop Me Now』がある。

最初に聴いたのはたぶん高校生の時で、当時は「アップテンポの楽しい曲だな」くらいにしか思わなかった。

ところがこの間、ふとしたきっかけで聴きなおして驚いた。全く、全く違う曲に聴こえたのだ。


 

 

サビの歌詞はこんな感じ

 

Don’t stop me now

I’m having such a good time

I’m having a ball

Don’t stop me now

If you wanna have a good time

Just give me a call

 

意訳すると

「オレを止めるんじゃねぇ、今のオレはまさに絶好調だ! 楽しいことがしたけりゃいつだって連絡してきな」

ぐらいの歌詞で、高校生の自分には確かにそういう風に聴こえたんだと思う。

 

でももし今の私がこれを訳すとすれば、全く違うものになる。

「頼むから今だけは止めないでくれ、オレの人生のピークは今なんだ、長く続かないのも破滅的なのもわかってる。でも今だけは、頼むから今だけは放っておいてくれないか」

たとえばこんな感じ。

 

もちろん曲は変わってないのだから、変わったのは自分の心境なわけだ。

 

高校生の私が実感を伴って理解できていなかった「人生の下り坂」というフェーズの存在を、残念ながら体感として理解してしまった、ということだろう。

 

大学を出て会社に入るときに「ああ自由な人生はこれで終わりなんだ」と悲観したのも束の間、

働きはじめてみたらみたで「なんだ人生のピークはまだまだ先じゃないか」とずっと思ってきたし、なんなら今だってそう思っているけれど、それでもなんだかんだ時間は積み重なるもので、

「今が人生の絶頂だ!」と叫ぶフレディ・マーキュリーに、そこはかとない儚さと悲痛な切なさを感じるぐらいには大人になったのだなと、改めて思ったわけだ。

 

今のあなたにはこの曲、どう聴こえますか?

イーストウッドと情報の取捨選択。『15時17分、パリ行き』感想

 

テロリストを、同じ列車に乗り合わせた3人の男が取り押さえた。

15時17分、パリ行き』は、一言でいえばそれだけの映画だ。

 

2015年に起きた高速鉄道のテロ事件を題材にしたクリント・イーストウッド監督のノンフィクション映画だが、映画の内容自体はいたってシンプル。

ではこの映画の何が論点かというと、「主役の3人を、実際にテロリストを取り押さえた本人たちが演じて(再現して)いる」という手法に尽きる。その手法は何を意味しているのだろう、という話をしてみたい。

 

世界の解像度を操作する

映像に限らず何かを人に伝える時は通常、2つの段階が存在する。

まず、世界の解像度をマックスまであげて、いかなる小さな凹凸も見逃さない手つきで世界を認識する。

そして、今度は解像度をぐっとさげて、ある視点(テーマ)から必要な部分と不要な部分を整理する。

 

世界の解像度をあげると、何が拾えるか。

たとえば、主人公は何歳? 身長・体重は? 何人? 顔は? 肌は? 声は? イントネーションは? 髪型は? 職業は? 好みのタイプは? 幼少期はどんな子? その日の朝食は? 好きな飲み物は? 飼ってる犬の名前は? 自分の部屋から見える空の広さは?

こんな風に、事実は無限に存在する。その日地球の裏側で何が起きていたか、だってもちろん含まれる。

 

その膨大な要素の中には、テロリストを取り押さえるという英雄的な行為とは全く無関係に見える要素もあるし、色濃く関係しているように見える要素もある。

だから普通は、選択したテーマに関係がある要素を選び、つなぎ、時に並べ替えて、クライマックスが劇的に伝わる形に整える。

それが編集とか、構成とか呼ばれる作業だ。

 

情報の取捨選択を、視聴者に委ねる

しかし近年のイーストウッドは明らかに、世界の解像度を上げるだけ上げて、そのまま観客に提示する傾向を強めている。

J・エドガー』、『ジャージー・ボーイズ』、『アメリカン・スナイパー』、『ハドソン川の奇跡』、そして今回の『15時17分、パリ行き』と、イーストウッドが監督した映画はこれで5本連続でノンフィクションとなった。

後の作品になるほど演出は控え目になり、本筋と関係があるのかないのか微妙な要素を大切に扱うようになっている。

 

つまり、制作者が要素を取捨選択することを避け、起こった事実をできるだけ精緻に再現しようとしているように見える。

その究極が、本人に本人を演じさせるという手法なわけだ。どんなに演技がうまい俳優だって、本人を再現する度合いは本人には届かない。

 

ではこの思想を突き詰めていくと、何にたどり着くか。

「何かが起きたときに、そこでGoProが回ってるのが理想」

当然こうなる。

それは言わば、ストーリーテリングの否定だ。現実をそのまま映しとることにこそ価値があり、誰かの視点を介在させることはノイズでしかない、という思想である。

 

ただ今作の注意点として、当事者たちから聞き取ったことを再現した結果、「自分に起きたことを物語的に理解して再構成した当事者」の視点がストーリーとして現実に再介入してくる、という興味深い現象もこの映画では発生している。(主人公の1人の父が牧師で、キリスト教的なストーリーにこの出来事を再構成している)

 

「誰かの意図」に対する拒否感

この「現実こそ最強」という発想はイーストウッドの発明ではなくて、すでにあらゆるジャンル・場面で進行している、「いまの流行」でもある。

 

音楽業界ではロックやポップスよりもヒップホップが優位になり、

情報の入手元はマスメディアからSNSにうつり、

演出過剰なテレビタレントよりも、素に“見える”Youtuberに人気が集まり、

映像編集が可能なYoutubeから生配信に人が流れている。

 

まとめれば

「誰かの意図・編集が入り込まない生の現実」を求める感覚が広がっている。

「誰かが意図を持って編集したストーリー」への拒否感が強まっている、ともいえる。

 

その状況でフィクションの映画を作ることは難しいし、ノンフィクションだとしても意図が透ける演出をすることは難しい。その流れにイーストウッドはいち早く乗った、ということだ。

 

映画界のど真ん中にいるにもかかわらず、イーストウッドの転進が早かった理由はいくつか想像がつく。

 

・「一般人が普通にわかること」を重視・信頼する保守主義者であり、編集された映像によって観客を啓蒙・啓発しようという意志が小さい

・普遍的に正しい価値判断などというものはない、という伝統派の思想

・年齢的にもキャリア的にも、今後映画の世界でお金を稼ぎ続ける必要性が低い

 

フィクション映画の限界を悟ったイーストウッドは『J・エドガー』以降ノンフィクションしか撮らなくなり、『15時17分、パリ行き』ではノンフィクションの限界すらも悟って俳優を起用しない段階へ進んだのだ。

 

映画として、というよりも

映画公式サイトのインタビューで、イーストウッドは「観客がどう思うかなんて予想できない」と話している。情報過多の世界を、情報過多のまま観客に提示しているのだから、このコメントには真実味がある。

山ほど伏線を張り、クライマックスでBGMを流し、スローモーションまで使って全力で「ここが泣くところですよ」と全力で伝える映像を作る人に「観た人が考えてくればいい」と言われても、さすがにそれを鵜呑みにはできない。

しかしイーストウッドが言うからこそ、「自分は世界を、人間の認識力を信頼している」という信念の言葉として響く。



総合して『15時17分、パリ行き』が「映画として傑作か」と聞かれると、これはなかなか難しい。

許されざる者』や『ミリオンダラーベイビー』、ノンフィクションでも『アメリカン・スナイパー』や『J・エドガー』と比べれば完成度は一歩ゆずる。

 

ただ映画という表現形式を問い直す契機としては、『15時17分、パリ行き』は大きな意味を持っているように見える。

特権的な監督=演出家=作家=プロデューサーによる編集・物語化を排除した先にどういうものができるかという実験作として、イーストウッドが何を試し、どんな成功を納め、どんな限界に制限されたか。時間がたった時に、改めて意味が付与される映画な気がする。

 

個人的な感想としては、映画という形式を取った時点で「なぜその人・その話なのか」という恣意性を引き受けざるをえないので、特権的な視点の排除は難しい方法だと思う。

たしかにストーリーテリングには、「この複雑で情報過多の世界を、私が見事に切り取ってみせましょう」という胡散臭さがどうしてもついて回る。

だとしてもその地点から、「観客に悟られない巧妙な編集」に行くか、「特権的な視点の徹底排除」に行くか、はたまた開き直って「視点の特権性を魅力に変えるか」、何にせよその一歩を見せて欲しかったかなという希望は残った。

後で観直すとまた感想が変わりそうだけど、現時点ではそんな感じ。

ウメハラというアンビバレントな絶対神 ―ときどの涙とリビングザゲーム―

 

「ゲームの中でぐらいは勝ちたかったんですけど」

3月10日の『獣道』10本先取マッチでウメハラに敗れて、ときどは涙をこらえてそう言った。

ウメハラは「ゲーム以外全部(ときどが)勝ってると思うんですけど」とはぐらかしたが、ときどが何の話をしたか、どの部分でウメハラに敵わないと感じているか、本当はわかっていたはずだ。 

 


そんな風に思ったのはたぶん、映画『リビングザゲーム』を観た直後だったからだと思う。

撮影された瞬間にはその価値がわからなかった映像が、期せずして貴重なドキュメンタリーになった――。

『リビングザゲーム』は、そんな映画だった。

プロゲーマーのウメハラとももちを中心に追いかけた本作の撮影期間は2013年~2015年、つまりちょっと昔の話である。

では古い話かというと、そうではない。この映画の価値について考えれば、2015年末よりもむしろ2018年の今の方がタイムリーに見える。それが興味深い。

 

全く違う道を歩くウメハラとももち 

2018年現在、ウメハラとももちの格闘ゲーム界における立ち位置はほぼ対極と言える。

 

レッドブルサイバーエージェントグループのバックアップを受け、業界の旗艦として存在感を増すウメハラ

カプコンプロツアー100位以内の日本人でただ1人プロゲーマーライセンスを受け取らず、自分で会社とチームを立ち上げて独立独歩を貫くももち。

 

その分岐点がどこにあったかと考えたときに、『リビングザゲーム』は2人の道が別れるきっかけの、少なくとも一部分を捉えている。

 映画からは、格闘ゲーム界のど真ん中にいるウメハラを超えたいけれど、成績で上回っても超えられないならどうすればいいんだよ、と途方に暮れるももちの心情がひしひしと伝わってくる。

そしてウメハラが、自分の立場の特別さを自覚して、格闘ゲーム界のために自分の役割を果たそうとしていることも。

 

超える方法が見当たらない壁 

ウメハラに対して敬意と疎ましさが同居するアンビバレントな感情を、ももちは隠さない。

努力して、結果を出して、それでも全然追い付ける気がしない。最初から勝負はついているんじゃないか……そんな諦めに抗うももちを、つい応援したくなる。

 

このももちの感情は、2018年時点から見るとよりリアルだ。

大会での成績を考えれば、ここ数年で最も高いパフォーマンスを出してきた日本人はウメハラではない。EVO2017で優勝したときどを筆頭に、何人かの選手の名前があがる。

しかし現在、格闘ゲーム界のど真ん中は文句なしにウメハラの定位置だ。揺らぐどころか一極集中は加速している。

ときどが「ゲームの中ぐらい勝ちたかった」というのは、まさにこの話に他ならない。

 

ウメハラの特別さは理屈じゃない

でもこの映画が、というよりもウメハラが特別なのは、彼が現時点で世界一の位置にいる選手じゃないと知ったうえで、それでも他の誰よりもウメハラのプレーを見たい人が大勢いることだ。

 

それが彼が積み重ねてきた歴史なのか、あの独特の語り口なのか、もしかしたら外見も影響しているのか、理由ははっきりしないけれど、「ウメハラは特別」だと感じている人が大勢いることは否定しようがない。

私も実は、ウメハラリュウを見ると条件反射で涙が出る、という持病がある。

 

しかも今でも、10本先取というごまかしが利かないルールでときどに勝ってみせる。ウメハラの勝負強さは「持っている」なんて表現ではとても足りない。

(直近でその勝負強さを見せつけたInfiltrationとの10本先取とその本人解説動画ウメハラ (Daigo) Infiltration 豪鬼戦解説&感想戦 『勝負論 ウメハラの流儀』 Oct 31, 2013 - YouTube は本当に何回見たかわからないぐらい見ている)


英雄を必要とする時代

「英雄がいない時代は不幸だが、英雄を必要とする時代はもっと不幸だ」

このベルトルト・ブレヒトの名言になぞらえるならば、英雄=ウメハラを必要とする今の格闘ゲーム業界は幸福ではない、と言えるのかもしれない。

 

ただ英雄がいなくなれば多くの人が困るのは自明で、どうせ英雄が必要ならその役目がウメハラでよかった、というのも概ね一致するところなのだと思う。

だとすればできることは、英雄が健在なうちに次の英雄を探すか、英雄なしでやっていける状態を模索するかしかない。平凡な結論だが、たぶんそれしかない。

そして幸いなことに、ウメハラはその必要性に自覚的で、行動を変化させてもいる。BeasTVも、ゲーマーライセンス座談会も、数年前の彼ならやらなかったんじゃないだろうか。

 

最後に映画の話に戻ると、『リビングザゲーム』は観終わった後に、登場人物全員に対して好感度がアップする映画だと思う。ウメハラも、ももちも、ジャスティンも、ゲーマービーも、他の人たちも。

それだけで十分にチケット代ぐらいの価値はあると思うし、それに数年前、彼らがどんな風にしゃべっていてどんな風に行動していたかは、今の時点から見た方が一層おもしろい。

ウメハラが賞金について何を話していたか、ももちが自分の道をどう見定めたか。

数年で人は大きくは変わらないけど、それでもやっぱり彼らの喋り方は今とは少しずつ違う。それを観るのもなんだか感慨深かった。

 

ときどさんの無念が心に残りすぎて、勢いで書いたら登場人物が呼びつけになってしまったことをあらかじめ謝っておきます。文中敬称略、です。

試合の動画と映画の公式サイトだけおいときますね。