葱と鴨。

文化系、ゲーム、映画、ジェンダー。https://twitter.com/cho_tsugai

「好きでゲームしてるだけだから放っておいて」という言葉の記憶

ゲーマーが人生で絶対言ったことありそうなセリフを言います。
「好きでゲームしてるんだから放っといて。別に迷惑かけてないでしょ」
言ったことありますよね? 私はすさまじい回数言ってます。そしてこの感覚は、まだ自分の中にがっちり残ってます。


なので、ゲームやeスポーツの拡大を押し進めるこんな言葉に心が少しざわつきます。
「ゲームには、eスポーツには価値がある。どんどん広めていこう」


ゲームの価値に一番耽溺してきたはずのゲーマーが、なぜこれに引っかかるか。
たぶんそれは、ゲームの価値を認めずに「社会的に価値があること」を押し付けようとした大人たちの物言いに似ているからです。
「ゲームなんてくだらないことしていないで、もっと価値がある勉強や運動をやりなさい」
昔の自分が全力で拒絶したその押し付けがましさを、今度は自分が発揮するのか……?
ゲームは私たちにとって、価値があるからやるものなのか……?
その躊躇は私の中にまだ大きく残ってます。

「理想を語りづらい」という弱点

それで自然と、私はあるポーズを取るようになりました。
ゲームに価値があるからやってたんじゃなくて、楽しくゲームしてたら「それ価値あるよ」って急に言われた、みたいな受け身のポーズです。そのポーズで行けるとこまで行きたいなーと思ってました。


ただ、この受け身の態度には弱点があります。
それは「理想を語りづらい」こと。
ゲームを広めよう、eスポーツを大きくしようっていう時に「そうすればあなたの人生が、社会が、世界がこんな風によくなります」って理想、哲学を語ることに抵抗感があるんです。

だってゲームは日陰の趣味だったから。放っておいてもらうことがゴールだったから。人を説得して広める気なんかなかったから。大義名分を語る人に対しては「胡散臭い」「宗教っぽい」と斜に構えるのが基本スタンスだったから。


スポーツの人たちはものすごく無邪気に「スポーツの価値を信じてます」って顔をするけど、ゲーマーはどうしても「自分らは日陰者なんで……」って卑下しがちです。この傾向は、ある世代以上のゲーマーのほぼ全員がアイデンティティとして持っているはずです。


実はちゃんと探せば、理想を語ろうとしてるチーム関係者や大会運営者は結構いるんですよ。でもそれをどう受け止めていいか迷って、うろたえてしまうゲーマーもきっと多いんですよね。
だからこそ、ゲーマーも乗りやすい価値である「お金」の話になりがちなのかなぁなんて連想もします。

ゲーマーと理想を巡る関係の今後

そして今年日本はめでたくeスポーツ元年を迎えて、ゲーム文化は社会のメインストリームに見つかりました。
確かなのは、もうどんなに頼んでも放っておいてもらえないことです。
これまで以上に意識的に文化を再生産していかないと、ゲーム文化は資本の論理に最適な形に向かって高速で再編成されていくでしょう。
任天堂はそれを警戒しているからこそ、自社タイトルの展開に慎重すぎるほど慎重なんだと思います。Riotにも似たような配慮を感じることがあります。


たぶん、ここからはヨーイドンです。
全体的に言えばゲーム文化が巨大システムに組み込まれていくのは間違いない。その中で既存の文化を大切にする雰囲気や拠点ができるかどうか。キーワードはたぶん「コミュニティ」になるでしょう。

もっと抽象的に言えば、開き直って理想を語るか、意地でも放っておいてもらうか、理念は脇においてとりあえず拡大を目指すか、あたりが選択肢になりそうです。

走り出した状況がどういう結末を迎えるかはともかく、2018年は間違いなくポイントオブノーリターンだったと言われる年になります。その現状を記録しておきたいと思いました。
私はいまのところ「大袈裟な理想に抵抗を感じるゲーマー文化を尊重する、という理想を語る」というねじれたルートを進むつもりです。


というかゲーマーがこれまで培ってきた空気感みたいなものに愛着ある人って私が思ってるより少ないんですかねぇ。
この空気が失われていくことについて私自身はかなり恐怖心を持っているんだけど、その感覚がどれぐらい共感されるものなのか正直わからずにいます。

ウメブラすごかった

スマブラのコミュニティ大会、ウメブラにはじめて行ってきました。

もうすぐ発売のSwitchのスマブラ新作を64以来でやろうかなぁと思っていたタイミングでWiiU最後の大会があるということで、キャラも技も知らないしプレーヤーもあばだんごさんとにえとのさんぐらいしか知らないけどまーどうにかなるでしょと思って行くことにしました。

 

で、決勝まで見て帰ってきたんですけど、じわじわ後から後から「ウメブラすごい」っていう気持ちになってきたので、その話をします。

 

たぶん一番染みたのは「ああ、これは家庭用ゲームだからこそ生まれたコミュニティなんだろうな」っていうことです。

ゲームセンターでプレーすることが基本だった格闘ゲームのコミュニティがちょっとヤンキーの空気をまとっているように、オンラインで見知らぬ人とプレーするLoLのコミュニティが色濃くネットの空気をまとっているように、スマブラコミュニティも特有の空気を感じました。

多分それは、「友達の家に集まってゲームしてた空気」と言っていいと思います。

 

私のメインゲームはもう5年ぐらいLoLなんですけど、オフラインで誰かと一緒にゲームしたこと1回もないんですよ。ネットカフェはあるけど隣の人とはしゃべらないし、一緒に遊んでる人はオンラインの向こうにいて、ながらく一緒にゲームしてるメンバーもほとんどは会ったことがない人たちです。

で、スマブラの「友達の家に集まってゲームしてた空気」を久しぶりに感じたらなんかものすごい懐かしくて、あの子の家にコントローラー持って行ってたな、家の人がポテトチップスと麦茶とか出してくれたな、とかそういう記憶が一気に蘇ってきました。

会場で座ったパイプ椅子の右も左も、年齢も仕事も腕前も全然違うであろう人たちがスマブラの話をしてて、配信台でプレーしてる人のことをちょっとゲームがうまい友達みたいな感じで話してて、2018年にスマブラっていうゲームの周りにこんな空気が存在していること自体がほとんど奇跡だと思いました。

 

もちろんゲームの性質だけじゃなくて、大会を作って運営していろんな調整や折衝をしてきたであろう主催者がいて、彼を支えたスタッフたちがいて、WiiUゲームキューブを持ち込んで提供するプレーヤーたちがいて、その途切れない献身がこの空気を作っているんだと思います。

会場は広いしスポンサーもついてるしプロ選手だっているけど、でも「友達の家の雰囲気」がたしかにする。

 

たぶんこのウメブラの空気は、他のゲームとかで再現しようとしても難しいとも思います。ゲームの性質や、プレーヤーの気質や、リーダーシップをとった人たちの個性や、彼らが通ってきた歴史が、あの空気の中には色濃く染み込んでいます。

 

ふらっと1回見に来ただけのやつに言われても嬉しくないかもしれないけど、それぐらい奇跡的な場所に見えました。

ウメブラすごい。スマブラ勢の発する「コミュニティ」っていう言葉は強すぎる。

あの空気がずっと続いていってほしいなと、そしていつか自分もあの輪に混ざりたいなと思いました。

コミュニティというマジックワード

「コミュニティ」っていう言葉がゲームやeスポーツの話によく登場します。

どうやら大切で、あらゆる価値の源泉だということになっていることが多いんですけど、「コミュニティって結局なんなの?」という話もよく聞こえるので、自分なりの仮説を紹介します。

 

ゲームはなんでもいいんだけど、いちおうLoLでいきます。気になる人は自由に自分が好きなゲームに置き換えてください。

 

コミュニティの正体

まずゲーマーがLoLをプレーします。この時点では、ゲーマーとゲームがあるだけです。

ゲーマーは「他のLoLをやってる人たち」を想像します。それはゲーマーの集団です。まだコミュニティは登場しません。

そしてLoLゲーマーはかなりの割合で「他のLoLゲーマーと仲良くなりたいな」とか「LoLゲーマーって別ゲーの人と比べて○○だよね」みたいな形で、「LoLしてる人たち」っていう集団に親近感や帰属意識を持つようになります。まだこの時点では、集団は各ゲーマーの頭の中に存在するだけです。

でも、続けてゲーマーはこう感じます。

「自分が想像しているLoLコミュニティっていうのを、みんなも同じように想像しているだろうな」と。

ちょっと難しい言葉ですけど、この共同幻想こそが「コミュニティ」の正体だと思います。自分があると信じているものを、みんなも同じように信じているだろうと信じる、という状況です。

ここが肝なので、もう1回書きます。

自分があると信じているものを、みんなも同じように信じているだろうと、自分が信じる、というのがコミュニティの正体だと思います。

 

そして多くの人が想像する「コミュニティ」は、おおよそ重なっています。LoLゲーマーと、プロシーンのファンと、イベントとかをする人と、レイヤーさんと、だいたいそんな感じでしょうか。これが「共同」の部分。

でも所詮は各人の幻想なので、「コミュニティを大切に」っていう話をしてる時は、なんだか通じてるような気もするけどどこかが決定的にずれてることも結構あります。だってコミュニティの範囲や、コミュニティに期待する役割は人によって違うので当然です。これが「幻想」の部分です。

 

「ある」と信じる人が大勢いれば、それは実際に力を持つ。

まとめると、「コミュニティ」に実体はないんだと思います。

でも多くの人が、そういうものがあると感じていて、それがある前提で行動すると、「コミュニティ」は実際の影響力を持つようになります。

これは「神様」とか「世間」とかも同じです。「これが神様だ」って実体を指し示すことはできないけれど、人々がそれがあると信じていることによって実際に人々の行動や考え方に影響を与えるわけです。

 

この「コミュニティ=共同幻想」仮説のいいところは、「このコミュニティってこうした方がもっといい感じにならない?」っていう前向きな変更がいくらでも可能なことです。みんながそう思うようになれば、コミュニティもそう変わるので。

キッチリ定義や役割を決めるっていう考え方もあるんですけど、個人的には多少のすれ違いを必要経費として受け入れてでも、今のふわっとした気分を維持するメリットの方が大きいんじゃないかなぁと思っています。

価値基準を自分たちの手に取り戻す戦い~映画『ブラックパンサー』

マーベルのスーパーヒーローシリーズに登場した、アフリカにルーツを持つ黒人が主人公の『ブラックパンサー』をようやく観られた。

キャストのほとんどに加えて監督やスタッフも黒人中心でヒーロー物を撮るという、成りたちからかなり政治色が強い作品で、女性も強いし、白人男性中心主義に対するチャレンジ心満載の映画。

 

……というぐらいの前提は知って観たけれど、それでもやっぱり「そうか、アフリカをアフリカとしてエンパワーするとはこういうことか」とちゃんと驚いた。

なぜなら、アフリカをエキゾチズム以外の方法でエンパワーするストーリーをほとんど観たことがないから。

これが日本なら、いくらでもある。「実は世界に類を見ない日本だけの力があって……」というお話は数えればキリがなくて、鉄腕アトムゲッターロボにはじまって、最近の例がちょっとうまく思いつかないんだけどBLEACHとかバキとか、日本人+超越性という組合せで日本をエンパワーする物語は無数にある。

で、アフリカをアフリカらしく肯定するというのを映像にするとどうなるか、というのほとんどを想像したことがなかった自分に気づかされる。

色彩感覚や、リズム感や、顔や髪型のセンスや、かなり訛りの強い英語(とはいえさすがに英語ではあるのだけど)と、そこらじゅうに「あぁアフリカにとっての肯定的な自己像はこうなるのか」という発見がある。

たぶんここが、『ブラックパンサー』の最大のポイントで、「アフリカってこうだよね」「黒人ってこうだよね」という語り口が当事者たちにとって望ましいものだったからこそ、ヒーロー映画史上最大のヒット作品になったのだと思う。

 

対決ではなく自立

全体を貫いているこの思想を一言でいうと「欧米が作った価値観の階級上昇をめざすのではなく、アフリカ独自の基準でアフリカを肯定する」という感じだろうか。

欧米に勝利することではなくて、アフリカが自分たちの価値観を打ち立てることを目標にしたのが、欧米側から見ても受け入れやすい理由になっていると思う。

これまでハリウッドで黒人俳優が受けてきたような扱いを逆にしてみたり、銃を使う白人を「原始的な」とバカにしたりと意趣返しっぽい演出はちらほらあるものの、全体としては対立構造を煽る度合いは抑えられていると感じた。

 

それはたとえばアフリカ勢力とアメリカ勢力が初接触する場面にも出ている。場所は韓国の釜山。この韓国という選択が気になって考えていたら、とても政治的な意味があることに気がついた。

まず、この初接触を欧米の都市にする選択肢はどうか。

これだとアフリカ側から見て、欧米に乗り込む形で戦いが始まることになる。欧米的価値観に巻き込まれるリスクもあるし、何より欧米vsアフリカという図式が強まってしまうので却下。

アフリカ側で迎え撃つ選択肢も同じ理由でなし。

ということで欧米でもアフリカでもない場所、黒人でも白人でもない人たちが住む場所が中立で望ましい、ということになる。

4大人種でいえば、モンゴロイドかオーストラロイド。発展度で考えれば中国、日本、韓国、オーストラリア、シンガポールインドネシアあたりが選択肢になる。

これらの国の中で白人から植民地化、占領を受けた度合いは韓国がダントツで低い。韓国が抱える歴史的なしこりの多くは対アジアのものだ。

そしてソウルではなく釜山な理由も、おそらくその延長線上にある。ソウルは38度線から近く、朝鮮戦争北朝鮮に占領されたことがあり歴史的な匂いが強い都市だ。

対して、釜山は朝鮮戦争で韓国側が最後まで守り抜いた都市である。(秀吉の文禄・慶長の役で釜山が占領されたというのも実はあったりするのだが)

実際に釜山で撮影したそうなので、撮影許可が降りた都市が釜山だけだった可能性もあるけれど、アフリカと欧米にとっての政治的な中立地という性質が考慮された部分はあると思う。

 

その王様の選び方で本当にいいの?

長くなってしまった。

「欧米が作った価値観の階級上昇をめざすのではなく、アフリカ独自の基準でアフリカを肯定する」という話に戻る。

それは全体として成功していると思うのだけど、個人的には2箇所気になるところがあった。

 

1つは、主人公が所属する国の統治体制が血統主義的な絶対王政であること。

たしかに、民主主義は絶対の正義ではない。欧米がアフリカや南米や中東に広めようとしてきたものだし、これを相対化してみようという動機はよくわかる。

にしたって、この王様の決め方はさすがにどうなのだろうと思ってしまった。

各部族の中の選ばれた血族の人しか王になれない、という血統主義

しかも王を決める方法は決闘。本人の戦闘力が高ければ王になれる脳筋ルール。

さらに輪をかけるように、王の権力にルールが歯止めをかける立憲君主制ではなくて、ゴリゴリの絶対王政。代々受け継がれてきた王家の伝統を、当代の王の一言で破壊できるシーンがあるので、王個人の意志にストップをかける仕組みはないと想像できる。

このシステムで長らく国が繁栄してきたことにリアリティがないし、何よりもその統治体制を本当にアフリカの人たちが望んでいるのかどうかが掴めなかった。欧米と違う価値観を打ち立てたかった気持ちはよくわかるけれど、それはさすがに悪政じゃないかなぁと思った。

 

歴史を語り直すときの作法

もう1つはさらに本質的で、終盤にキルモンガー(相手役のボス)が主人公に敗れて、「海に沈めてくれ、祖先は鎖につながれるよりも死を選んだ」というシーン。

かなり際どいところを攻めていると感じた。

このセリフはもちろん、奴隷船貿易で運ばれている最中に、奴隷になるよりも死を選んだ祖先を誇り高い存在だと思っていることを表現している。

まずこのセリフの美点は、「自分たちを奴隷にしようとする白人に抵抗して戦って死んだ人」ではなく、「奴隷になることを拒否して自ら死を選んだ人」を敬意の対象にした部分にある。ここにも、白人と敵対したいわけではないという挟持が見える。かっこいい。

歴史を自分たちの視点で語り直すことが、すなわち主導権を握りなおすことだという認識もたぶん正しい。

ただ、ただである。

冷静に考えれば、そこで「死よりも鎖」を選び、生きて奴隷という立場の苦しみに耐えた人たちがいたからこそ、いま多くの人たちが生きているのも事実だ。そしてそちらの方が多数でもあったはずだ。

もっと言えばそこで死んでしまったら血筋は途絶えるわけで(事前に子供がいれば別だけど)、鎖に耐えて生き延びた人たちを同じくらい誇り高い存在として描く方法もあったのではないかと思った。

とはいえ、まぁこれは当事者じゃないから言えることでもあって、日本人があらゆる競技の代表チームにサムライとつけてしまうことを考えれば(江戸時代の武士は人口の1割以下なのに)、ブラックパンサーのセリフ選びをダメだと言う気にはなれないのだけれど。



この映画がどれほど待望されていたかは、この映画を「自分たちのためのヒーローだ」と感じた人にしかわからない部分があると思う。が、それを差し引いても新鮮で意義深い映画だった。

「その集団をその集団の基準で肯定する」という目で、日本や欧米ではない、あまり見たことがない場所で生まれる物語の語り口に気づけるようになりたいと思った。

プロゲーマーの不幸エピソードを探す未来はいらない

甲子園の出場校が決まると、地元の新聞記者が何をするか知ってますか?

学校へ行ってこう聞きます。

「最近、親族がなくなった子はいませんか?」

 

これはオリンピックでも同じ。活躍した選手を報道しようとする時、まず選手の過去にあった挫折や不幸を探してこう煽ります。

どん底から這いあがって見事な活躍を見せました、感動」

 

で、eスポーツの話。

いつかeスポーツをスポーツにしたいという業界の悲願が叶ったとして、その結果がプロゲーマーに「最近親族がなくなりましたか?」と聞く未来なんだとしたら、そんな未来はどう思いますかっていうのが今日のテーマです。

 

情熱大陸でときどさんが言ってたように、たしかにeスポーツはまだまだ社会に認められていなくて、野球は社会に認められている。

でも野球が野球道になったように、eスポーツがゲーム道になって、汗と涙と感動を推す文化になるのが理想かって言われると、あんまりそうは思わない。というより個人的にはかなりNOです。

 

怖いのは、あんなにメジャーに見える野球ですらマスに受け入れられるためにはスポーツ自体の話じゃなくて身内の死や共感されやすい不幸エピソードを使うしかないという事実で、オリンピックのマイナー競技選手の報じられ方を考えれば、プロゲーマーが今後どう扱われるかはもう大体想像がつくわけです。

 

「競技の奥深さや選手1人1人のキャラクターを理解するコストを払う気がある視聴者は少数派で、既に自分の中にある価値観やストーリーの適合者を探して感動したい人が多数派だ」

そう考えてるからこそテレビは夏の間ずっと高校生の不幸話をしているのだし、マスに認められるというのは多かれ少なかれそういうことだったりもするんでしょう。

 

もちろん私もeスポーツの価値が社会に認められた方がいいっていうことに異論はまったくなくて、認められた方がいいに決まってるんですよ。でも認められるってどういうことだろうって考え出すとパターンが結構あって、仮に野球やオリンピック競技と同じ枠に入れるとしても、それが本当に魅力的なことかどうかがよくわからない。

 

たぶんこれからテレビや新聞にプロゲーマーが登場するケースが増えて、その時に「周囲には反対されたんですけど、父が『○○はゲームがうまいな』って言ってくれました。その父は先月……」みたいなエピソードを聞き出そうとするんですよ。これはもう賭けてもいいぐらい、そういう話を欲しがるメディアは絶対に出てきます。

 

そういう演出のニーズが存在するのはわかるので出てくること自体は仕方ないけど、そればっかりだと正直しんどい。

ちょっとお気楽に見えてもいいから、できれば楽しい話をしてほしいし、楽しそうな雰囲気をまとっていてほしい。

そういう意味で情熱大陸はポジティブな空気にフォーカスした作りが好きで、ときどさんも多分意識的にその空気を出してるんじゃないかと想像しています。

獣道で負けた直後のときどさんは思い出すだけで眩むぐらいエモーショナルだったし、練習はとんでもなくストイックだけど、それでも基本的には毎日笑いながらしゃべりながらゲームしてるんだと思うんですよ。なんならいち観客の願望としてそうであってほしい。彼らには「まぁいい感じなんじゃない?」って言える状態でいてほしい。

ということで楽しい寄りの面が前に出てくるような、プロゲーマーっていう仕事が魅力的に見えるような演出が増えるといいなと、情熱大陸と甲子園報道を見ながら思いました。

国際大会でLJLチームに何を期待するか

 

ちょっと気が早いけど、WCSの話。

 

WCSやMSIが近づくと少し憂鬱になる、というのはLoLコミュニティの人には割と共感してもらえる気分だと思います。

それはLJLチームへの風当たりがキツくなって配信が荒れるからで、さらにその理由は国際大会で日本のチームが勝てないこと。

ただまぁフェアに言ってWCSでのLJLチームは強者サイドじゃないので、普通に考えると勝つ確率がそう高くないのも正直なところでしょう。

 

という状況でLJLチームの選択肢は2つ。

正攻法でいくか、奇策を使うか。

数字はイメージですけど、たとえば正攻法で勝率30%、奇策を使って勝率35%とするじゃないですか。

勝った時の褒められ方は同じぐらいだとして、正攻法で負けた場合は「力負けだったね」ですむけど、奇策を使って負けた場合は「なんでいつもと違うことをしたんだよ」って言われるリスクが発生すると仮定します。仮定します(2回目)。

そうすると代表チームの決断として、勝率を高めるべく奇策を使うよりも、勝率は低いけど叩かれる度合いも小さい正攻法でいく方が期待値が高い、となっちゃう可能性があります。バッシングは誰だってイヤなので。

 

で、それってどうなんだろうねー、っていうのが今回の話。

たとえ勝率が低くても正攻法で戦う方が得るものが多いと考えるか、勝率が1%でも上がるなら奇策を使う方がいいと考えるか。

もし勝つ確率の方が大切だと考えるなら、そしてチームの選択にコミュニティの雰囲気が影響を与えるとしたら、どちらに誘導することがプラスになるんだろうか、っていう。 

 

この話は国際大会が近づく前に、そして代表チームが決まる前にしたいと思ってました。

どこが代表になるか、同組になった相手は強いか、みたいな要素をいったん脇に置いて、個々人の価値観の原則として国際大会のLJLチームに何を望むのか考えておきませんか、という提案なので。

その結論が「正攻法で行ってほしい」でも「何をしてでも勝つ確率を上げてほしい」でもそれはどっちもアリだと思うんです。ただそれはやっぱり、チームや結果を知る前に決めておいた方がフェアかなぁ、と。

批判には一貫した思想があってほしい。

「どっちでもいいから結果を出せ」というのはこれは無理です。SKTだって負けるんだから、LJLチームが確実に勝つ方法なんかありません。これはどこまでいっても確率の話です。

しかもせいぜい数%差ぐらいの、ぱっと見ではわからないレベルの確率の話です。

最善を尽くしても負けることは全然あるし、最悪の方法を選んだのにたまたま勝っちゃうこともありえる。

だからこそ結果だけではなくて、戦い方も見ておきたい。

 

限度はあるにせよ、プロチームに批判が出ること自体は自然だと思うんですよ。というか、無条件の応援一辺倒のプロスポーツの方が少ない。

でもブーイングをするならするで、そこに一貫した思想や価値観があってほしいと思うわけです。

裏返すと、彼らの戦い方が気に入ったら結果はボロ負けでも拍手したらいいじゃん、と。

 

一応自分の立場を表明しておくと、こんな感じ。

「LJLで優勝することはWCSの戦い方を選ぶ権利を得ることなので、どんな選択をしてもたぶんそれが正解」

ずるい? 優等生っぽい?

でもこれは割とナチュラルな結論で、だって当事者のLJLチームが「これが最善」って思って選んだ方法が、外から見てる私が「こうした方がいいんじゃね?」って思う方法よりほぼ確実に正しいと思うので。

 

ということで、WCSが近づいたら「正攻法でいってほしいor奇策でいってほしい」のアンケートでもしてみようかな。

おひま

一週間ちょっと前からひまわりが2本家にいたのだけど、その片方が枯れた。

まぁゆえあって花屋さんで切り花状態で買ってきたのでそんなに長いこと元気でいられるわけじゃないのは知ってたのだけど、それでも一週間も水をかえたり茎を切ったりと世話していたら情がわいてきて、くてっとした姿を見たときはなんとも言えない気分になった。

錬金術ってあったなとか、花ってどのぐらいと等価交換なんだろう、みたいな。

「おひま」と呼んでいたその1本はもう1本と比べて体が弱かったのか花が大きかったせいか、自分の重みで一度折れてしまい大きく切ったので、それも時期を早めたのだと思う。手のかかる子ほどかわいいというか、もう1本は特に名前はついていない。

家の名前持ちは他にサボテンのおさぼとオリーブの木のオリーブちゃんがいて、ちょっと違うけど「ルンバ神」も一度のバッテリー交換を経て元気に走り回っている。

物を捨てるのは苦手じゃない方だったのになぁと思う一方で、愛着があるものを失った時のダメージが年々大きくなっていて、これはもう犬とか飼えないかもしれないと思っている。

という雑感