PerkzこそがG2の中心である、という説
G2は最凶最悪の煽り屋集団である。
中でもtoxicさが際立つのがPerkz。オフィシャルのインタビューでも、SNSでも、お互いのプレイヤーだけに見える試合前のチャットでも、とにかく相手のチームを煽り倒す。
だから彼は熱狂的なファンと同時に、強烈なアンチを抱えている。
「リスペクトに欠ける」
「スポーツマンシップとは程遠い」
「嫌い」
どれも一理ある。難癖というよりは、納得のクレームだ。
もちろんG2に好意的な人間の目には、G2とPerkzのコミュニケーションには対戦相手やシーンへのリスペクトが含まれているように見えるが、「リスペクトとは何か」という考え方がそもそも1つではないので、この話に着地点はない。
G2とPerkzを好きな人が大勢いて、嫌いな人が大勢いる。それだけだ。
ただ、それでも疑いようがないのは、Perkzが「最高のチームメイト」であり「最高のチームリーダー」であるという事実だ。
これは2019WCSファイナル、FPX戦のカメラ映像である。
Perkzはチーム内で重要な役割を担っている。試合間のインターバルで敗戦の雰囲気をリセットする会話をリードし、笑わせ、盛り上げる。チームメイトは会話の主導権を完全にPerkzに委ねているように見える。
「苦しい状況でも、お前の言葉は信じられる」
皆が心からそう思っていない限り、この役目は務まらない。PerkzはG2の精神的な拠り所なのだ。
この日のFPXは、Perkzのピックに制限をかけることを優先した。シンドラを消し、ザヤもカイサも渡さない。それはPerkzの3チャンピオンを高く評価したからでもあるし、それ以外のピックではパフォーマンスが落ちると確信していたからでもあるだろう。そして実際に、Perkzは抑え込まれた。
自分自身が狙い撃ちにされ、世界一が手からこぼれ落ちつつある状況で、普段通りに明るく、不遜に振る舞ってチームを盛り上げる。そんなことが一体ほかの誰にできるだろうか。
そもそも現在のG2を考えた時に、ライバルチームFnaticからCapsを獲得して、自分がADCにロールチェンジすることを提案したのはPerkzだという。
WCS2018をベスト4まで勝ち上がった後に、自分のポジションに選手を獲得してコンバートを受け入れる。その意思決定に利己的な精神が入り込んだ形跡はない。
スポーツ界には、成功するチームの最大の条件はスター選手でも敏腕監督でもなく、優れたキャプテンだという調査がある。
「今のG2の成功はPerkzの存在が大きい」というのはそんなに無理のない推論だと思うのだが、どうだろうか。
WCSすごかった
WCSすごかった。
1日たってもまだ頭の中に残ってるので、文章にしてちょっと落ち着きたい。
DFMのあの2試合、SPY戦の勝利、そしてISG戦のあの最後の30分は当分忘れられなさそうな気がする。
スポーツっていうのは本質的に、どこまでいっても他人事だ。
ドイツでISGと戦っていたのはDFMのメンバーであって、私ではない。
だから彼らが勝とうが負けようが、私たちが人生で抱えている問題が解決することはない。
テストでいい点が取れたり、就職がうまくいったり、割のいい仕事が降ってきたり、素敵なパートナーと出会ったりはしない。しないんだよ。
だけどその他人事のはずの試合を、私も含めてあれだけ多くの人が、PCに張り付いて、スマホにかじりついて、全身を強張らせながら、わーとかおーとか言いながら観ていたことになる。
これは改めてすごいことだ。
スポーツが持っている力の中心は他人事を自分ごとだと錯覚させる力で、スポーツファンの能力は他人事を自分の人生の一部だと錯覚する能力なんだと思う。
この2つが細い確率をすり抜けて出会った場所でしか、あの感覚は起こらない。
日本のLoLサーバーはプレーヤーの数に対してプロシーン視聴者の数が多いと言うけれど、それでもあの放送をリアルタイムで観ていたのは日本のLoLプレーヤーの3分の1もいない。日本人全体で言えば0.05%にも満たない。
選手は当然だけど、ファンだってそれなりに特殊な人間なのだ。
そしてそれは、ファンでもアンチでも変わらない。
DFMの試合を観ながら勝利を願っていた人も、手のひらクルクルを楽しんでいた人も、終始悪態をついていた人も、自分の人生に他人事を取り込もうとしていた点では全く変わらない。
もし本当に他人事だから関係ないと思うのならさっさと自分の人生に戻ればいいわけで、そうする人も世の中には結構いるわけで、それをしなかった時点でまぁ大体同じ人種なんだと思う。
せっかくだから仲良くできたらいいのに。
自分の理想や成功を目指して、他人事には脇目も振らず走る人生は尊いのだろう。ただ、ほとんどの人はそのように生きてはいない。
誰か他の人が何か真剣にやっているのを観て、勝手に勇気をもらったり感動したりしながら、なんだか自分の人生までどうにかなったような気になりながら生きているのだ。
それはそれで、案外悪くないことなんだと思う。
人格を使い分けずに生きられるようになったのはいいことなんだろうか
ここ数年、プライベートでも仕事でもストレスがかかる場面がめっきり減って、ペルソナの使い分けをほとんどしなくなった。取材でも雑談でもVCでも、だいたい似たようなトーンで話したり笑ったりしている。
で、長らくそれはいいことなんだと思ってた。自分という人間性をそのまま出して、無理をしないで生きられたら最高じゃんって思ってたけど、最近ちょっと怪しいなぁという気持ちになり始めている。
ペルソナを使い分けないと、なんていうか自分のバリエーションが少なくなる。昔はもうちょっと相手に合わせるケースも多くて、それはストレスであると同時に、自分の振れ幅を増やす効果もあった。
相手の趣味嗜好や場の空気に合わせて自分をチューンアップして、いい感じに見えるように演出する。
そうする中で新たに好きになるものや、知らない文化を教えてもらう機会もあった。覚えてないけど、自分にこんなことができるのか、という発見もあっただろう。
それが大人になっていろんなことを他人の顔色を窺わずに決められるようになったら、「自分が考える自分らしさ」の範囲から出る機会がすごく減った。それって結構あぶないことだ。
ゲームとサブカルチャーと社会科学で生きていくのはやぶさかでないんだけど、というかその世界の中だって無限にやることも考えることも観るものもあるんだけど、でも自分の趣味ジャンルがここから広がらないのはやっぱりちょっとつまらないと思う。
でも今の自分にとって、ペルソナを使い分けないと困るような場所ってどこなのだろう。それとも、意識的に何かを演じてみることから初めてみる方がいいのかしら。
小さい頃から雨が好きだった 『天気の子』感想
小さい頃から雨が好きだった。
薄いグレーだった道路に黒い点ができはじめてあっという間に一面が真っ黒になっていく瞬間、それまで我が物顔で光っていた街灯が見る影もなくかすみ、気にも止められていなかったアスファルトの小さな凹凸が水たまりという形で存在感を主張する。
隅々まで人間のために塗り固められてしまったかのように見えた場所が「世界がお前たちのためにあってたまるかばーか」と裏切るような、人間がいかに無力な存在かを再確認させられるような、そんな気分がして好きだった。
大人になって、この感覚に言葉が追いついた。
社会の外側にある世界と手をつなぐ、ということだ。
私たちは人生のほとんどを、意味の次元で生きている。人間社会と言ってもいいし、端的に社会と言ってもいい。
社会とは厄介なものだ。最初は人間のために作られたはずの制度やルールが、いつの間にか自己目的化して人間を追い詰めていく。全体のために合理的に動け、社会の役に立てと追い立ててくる。
その場所から「人の役に立たなければ生きている意味がない」までは紙一重だ。「晴れ女ビジネス」の記念すべき1回目の仕事で、フリーマーケットの空を晴れさせたことに対して投げかけられる感謝の言葉は「晴れてるかどうかで売上ぜんぜん違うんだよ」だ。お金の話である。
陽菜もまた、一度はその感性を内面化する。中盤に六本木ヒルズの屋上で、陽菜は「自分がなんで生きてるかわかったような気がする」と口にする。その言葉は、まるでいい話みたいに語られる。でもこれは明らかに終盤の帆高の「もう二度と晴れなくたっていい」と対になっていて、「社会の役に立って溶け込もう」と2人に一度思わせたうえで、最後に「誰かの役に立つとか迷惑とか知ったことか」と力いっぱい否定させている。
役に立つかどうか、「で、それは儲かるの?」という基準で人が判断される場所を社会と呼ぶ。『天気の子』で言えばそれは帆高の故郷であり、金銭を介してつながる人々であり、主人公たちの苗字を呼ぶ警察である。2人は、その場所を飛び出そうとした。
もともと帆高や、陽菜や、凪は社会から半分以上はみ出した存在である。
最も小さな社会である「家族」からさえ、彼らは疎外されている。その象徴が「苗字」だ。劇中、帆高や陽菜は苗字を口にしない。苗字で人を呼ぶのは警察官と島の後輩だ。苗字はつまり、家族のつながりの象徴である。『君の名は。』でもそうだったように、新海作品において人を苗字で呼ぶことは社会的関係性の象徴であり、ファーストネームで呼ぶことには個人的関係性の象徴である。
その社会の外側には、世界が広がっている。
何の意味もない、「ただそのように存在している」だけの世界だ。雨にも、彗星にも意味はない。そこに運命を読み込むのはあくまでも人間側の勝手な妄想であって、何かの目的のために雨が降るわけではない。東京が水の底に沈んだことに理由はない。世界がたまたまそのように存在したから、ただそれだけだ。
そこには家族というしがらみも、地域という牢獄も、金銭という権力もない。
そう考えると、「天気の子」にお金が執拗に登場する理由もわかってくる。「天気の子」には10000円札が、1000円札が、50円玉が必要以上のアップで画面に登場する。時に感謝や思いやりの証のように、時に大人の冷たさのように。しかしすべての場面で共通なのは、関係性の「役に立つ」「足を引っ張る」という側面を強調する効果をともなって登場することだ。
一方で、帆高や陽菜の間で交換されるものは、指輪やハンバーガーで、ラブホテルに逃げ込んだ彼らを救うのは唐揚げだ。それらの値札も克明に表示され、つまり金銭で購入されたものであることは示される。しかし、金銭そのものではない。たとえそれが金銭で買われたものであっても、物を渡すか金銭そのものを渡すかの間には大きな乖離がある。
私たちに、社会を抜け出すことはできない。それでも、いま自分をとりまく環境が絶対でないことは何度でも意識した方がいい。つい目の前にある社会に最適化しそうになる自分を励まして、本当にそうか、本当に自分はそれを望んでいるかと問い直す必要がある。新海誠はそう訴えている
『天気の子』についてはすでに多くの論評がなされている。
2000年代前半のアダルトゲームであるとか、セカイ系であるとか。おそらくそれらも正しいのだと思うけれど、私は「『秒速5センチメートル』以前の新海誠」という表現を優先したい。『ほしのこえ』や『雲のむこう、約束の場所』との類似性はすでに指摘されている通りだ。
ただ大きく違うのは、社会と世界のどちらかを選ばなければいけないのだとしたら、私たちは躊躇せずに世界を選んでいいのだという新海誠の確信だろう。己の無力感に半ばの陶酔とともに浸るのではなく、社会に力いっぱいNOをつきつけていいんじゃないか、世界なんてさ、どうせ元々狂ってるんだから、と。
だからこれは、『君の名は。』の正統な続編でもある。『君の名は。』が本当はどういう映画だったのかという答え合わせと言ってもいい。
『君の名は。』でも何度か噴出していた新海誠の思想が、メガヒットによって見落とされがちだったその思想が、『天気の子』では前面に出ている。反社会的な要素さえ含むその思想を好感するか拒絶するかは、ぜひ観た後に判断してほしい。
そして私は、やっぱり宮崎駿を思い出した。彼こそはまさに、社会に背を向けて世界に手を伸ばし続けた作家だった。恐ろしくも美しい、狂った世界に惹かれる感性こそが宮崎駿の真髄だった。
世界に手をのばす新たな作家が、まるで入れ替わるように日本映画界の頂点に君臨したのは、今思えば必然だったのかもしれない。
以下メモ
・ラストで帆高が手錠を使って自分と陽菜の手をつながないのは、「きみとぼく」をつなぐものが警察≒社会の象徴である手錠であってはいけないからだ。お互いが、お互いの意志で手を伸ばすことこそが肯定されている。
・『天気の子』の設定は2021年、そして『君の名は。』で瀧と三葉が再会するのは2022年。でもその時東京は水に沈んでしまっているので、彼らは再会できない。これはつまり、瀧と三葉は「運命の2人」ではないということ。
・ここから導かれるのは、帆高と陽菜の2人も「運命の2人」ではないという含蓄だろう。ラストで「お前たちが世界の形を変えてしまったとか自惚れるなよ」と釘を刺されているように、雨にまつわる神秘的な因果関係について、それが真実だったのか妄想だったのかは曖昧にしてある。ムーでの仕事という前振りも効いている。恋愛的な「この人が運命の人に違いない」という妄想となんら変わらない「自分たちが世界を変えてしまったのだ」という思い込みをあえて肯定するという身振りは、『君の名は。』の神秘的部分また真実とも思い込みともつかないものであったことを示しているのだと思う。
・帆高の家族や島での生活を描写しないことの効果は、「日本の田舎は生きづらい」という感覚を一般化することか。帆高の家族や特定の島が生きづらいのではなくて、日本の田舎はどこも生きづらい、と感じさせる効果が狙われている。
・新海誠が美しくない東京を初めて描いた、と言われるけれど、それでも都市>田舎であることはまったく揺らいでいない。理想郷ではないとしても、息苦しくはない、自分の場所だと信じられる場所として描かれている。
・警察官に対する敵意がすごい。社会から疎外された人同士の連帯を描いている点も含めて、『万引き家族』と通じるものがある。
・陽菜を救い出して雨が再び降り出すシーン、主人公たちはその雨が陽菜の帰還を意味していると気づいて空を見上げている。その雨をもう少し美しく描く手はあったはずなのに、灰色の空をボロボロのビル越しで描いたのは一般的な美的感覚、善への挑戦か。
ゲーミング腕組みについて1日考えたこと
そろそろ日本のesportsシーンにおける舞台上の強制腕組みシステムやめませんか。
— 岸大河 / Taiga Kishi (@StanSmith_jp) May 22, 2019
岸さんのこのツイートからはじまった「ゲーミング腕組み」の話を朝から1日考えてました。
結論は「腕組みあたりで手を打っておくのもアリだと思う」という、我ながら意外なところに落ち着きました。そこまでの過程をまとめてみます。
eスポーツイベントの選手入場で片方のチームが入ってきた後に、もう片方のチームを待つ間とかによく発生するんですけど、壇上に1分くらい立ってる時間って選手にしてみれば相当そわそわする代物です。
そして運営がそれをごまかすために「腕組みで統一」ってなるのは、落とし所としてすごいよくわかるんですよね。
もちろん、岸さんの「腕組み強制はクールじゃない」っていうのも100%同意します。
だけどたぶん、別に誰かが腕組みを強制したがってるわけじゃなくて、ぶらっと立ってるのは絵的に厳しいし腕組みでもしてもらう? っていう消極的な理由がほとんどなんだと思います。
選択肢自体は実はいくつかある
で、「選手の全身をちゃんとお客さんに見せる時間≒立ってる時間」が必要だと仮定すると、選択肢はいくつかあります。
・ぶらぶらしてもいいから自由にする
・ポーズを統一する→ex.直立、前で手を重ねる、後ろ手に構える、ポケットイン、腕組み
・手持ちぶさたにならないように、持ち物を用意する。ex.コントローラー、チームの旗、ゲームキャラの人形、FIFAならサッカーボールとか
結構選択肢があるように見えて、ここで考えておく必要があるのが文化の話です。
これからeスポーツの「部活化・体育文化化」は確実に進んでいきます。たぶんもう避けられないでしょう。
その時に高校野球っぽい所作を求める声が出てくる可能性はあって、たとえば、直立不動、深いおじぎ、大声で挨拶、校歌斉唱、みたいなのが忍び込んでくることを私は結構本気で心配してます。
坊主頭って言い出す人はさすがにいなそうだけど、「派手な喜び方は相手に失礼だから自粛」とか「ユニフォームはシャツインで」とか、そのぐらいは全然ありそう。
LoLの話ですけど、この間までやってたMSIっていう国際大会の決勝直前に、ヨーロッパ代表チームの選手が「史上最速で終わらせてやるぜ(意訳)」っていうツイートをしました。ファンは大盛り上がりです。
これ、日本だったら多分かなり反発が出ます。というか、反発を心配してそもそもそういう発言はしません。「部活化・体育文化化」の圧は、日本のeスポーツシーンにすでにかなり強くかかってるんです。完全なプロですらそうなのに、高校生年代の大会とかになったらさらに圧は強まります。
つまり、「礼儀正しく高校生らしくちゃんとやろう」みたいな声が出てきた時に、「いや、eスポーツは自由な文化なので」っていうのは多分通用しないでしょう。
分厚いストリートカルチャーを持つスノーボードですら負けました。eスポーツが文化闘争に勝てる見込みは限りなく薄いです。
それは極端に言うと、高校生eスポーツの大会で、選手が小走りで入ってきて、大声で「よろしくお願いします!!」って叫んで深く礼をして、勝った方が校歌を歌うっていうことです。正直、私は拒否感がすごいです。
それならいっそ「ゲームは腕組みするのが文化なので」っていうあたりで手を打って、先回りして落とし所を作っておく作戦もアリなのでは、というのが1日かけてたどり着いた結論でした。
eスポーツにゴリゴリの体育会系になってほしくない
もちろん、持ち物を用意するのも有望な方法だと思います。
手もちぶさたも解消されるし、そのゲームならではの雰囲気になるし、人形やイラストの描かれた旗とかなら単純にかわいいし。サッカーみたいに、小さい子と手つないで出てくるのもアリでしょう。PCゲームやスマホゲームは難しいけど、格闘ゲームならアケコンやコントローラーでも良さそうです。
でもそれらはコストもかかるし、ゲームによって持ち物が違うので汎用性が低いです。人形は体育文化化の過程で却下される可能性もあります。
それなら、基本は腕組み+場合によって旗、ぐらいを先に定型化しておくのは案外悪い手じゃないと思うんです。
スポーツってもともと定型化・様式美と相性がいいジャンルで、現在の日本で最強の様式美は甲子園と箱根駅伝とサッカー代表戦です。つまり強い意志を持って意識的に文化を作らないと、そっちに引っ張られます。
私は個人的に、eスポーツはゴリゴリの体育会系になってほしくないんです。
そのために「日本のeスポーツはこの形なんだよ」っていう型を先に作っておきたい。別に腕組みである必要は全然ないけど、現時点でそこそこ普及してて、「ゲーミング腕組み」ってネタにして笑えるぐらいには受け入れられてるなら、もうそれでいいことにする手はあるよ、と思いました。
入場した選手がどういうポーズで立つか自体は小さな話ですが、これはeスポーツっていう文化を作る大きな話の一部なんです。
ともあれこれはゴール設定も方法論も人によって全く違う問題だと思うので、色んな人の考えを見ながらしばらく考えてみようと思ってます。
昔書いた関係ありそうな話も貼っておきますね。
2019年のお仕事一覧
<ウェルプレイドジャーナル>
<NumberWeb>
<LJLオフィシャル>
<eスポーツFIELD>
<ALIENWAREZONE>
<SHIBUYAGAME>
『愛がなんだ』どころか「それはなんだ」と問いたくなる。
「お互いが納得してるならそれでいいでしょ」という薄っぺらい正論の奥の
「自分が納得すればそれでいい」という個人主義のさらに奥にある
「誰も納得していないのに、そのように立ち現れてしまった関係性」の話。
映画では、穂志もえかや片岡礼子が正論(≒社会)を担い、小さい頃の自分が個人主義(≒自分)を代表し、自分でも理解できない執着で突き進む大人の岸井ゆきのが最後の段階(≒??)にいる。
他の人物はその幅の中をふらふらしながら、時に薄い正論を吐きながら時に暴走しかけながら、理解可能な範疇のダメさ、あるいはまともさに収斂していく。
成田凌も深川麻衣も若葉竜也も江口のりこも、ダメだけどまともな人だ。
岸井ゆきのだけが壊れている。
ドロドロとか情熱的とかではなく、ただ壊れている。
夢があって努力ができて「幸せになりたいっすね」と言う人は正気だ。「幸せってなんだよ」という人は遠い。
ただ、では本当に若葉竜也と岸井ゆきのは違うのか。もっと言えば、穂志もえかは何があっても岸井ゆきのにならないのかh難しいところだ。
たぶんそれは、本当に好きな人に出会うとかそういうロマンチックな話ではなくて、もっとどうしようもなくありふれた、依存心とか生育環境とか、ただのタイミングだとかで変わるのではないか。それともやっぱり変わらないのか。
つまり、心の中に岸井ゆきの的な部分を「持つ」ことと、岸井ゆきの「である」ことの間にあるのは量的な差なのか、質的な差なのか。
岸井ゆきのに共感しそうになる時に、本当にそれは共感なのかを躊躇する。穂志もえかのように生きながら岸井ゆきのに憧れて見せるのは安全圏に身をおいたままの自意識遊びではないのか。
驚くほど何もわからない。
切り取られる場面の1つ1つはあるあるで、共感や思考の手がかりは多いはずなのに、映画は収束ではなく拡散へ向かって終わる。
若葉竜也と深川麻衣はきっともう一度すれ違うのだろうし、岸井ゆきのが10年後に片岡礼子になっている可能性だってありそうだ。
だからどうしたという話でもなく、ただ世界はそうなっている。
『愛がなんだ』どころか『それはなんだ』と問いたくなるような、ただそこにある世界の話。言葉にすると「困ったな」とか「しょうがないね」ぐらいにしかできそうにない。
そして、こんなにも人は人のことをわからないんだという映画が「わかる、エモい、これは自分だ」という言葉に乗って広がっていくのも興味深い。
角田さんや今泉さんは、登場人物たちを「わかった」んだろうか。どのくらい「わかった」気で作ったんだろうか。
いとおしいと感じることとわかったと感じること、そして本当にわかることの間にある絶望的な距離を感じながら作ったんじゃないだろうか。
そしてそのわからなさを「わかられて」いくことについてどう思うのだろうか。
感想を書こうとするとポエムに引っ張られるのは、そういう力のある映画だったんだと思う。
ということで24時間後の感想ここまで。
メモ
・原作および映画の中で成田凌はどれぐらい顔がいい人な設定なのだろう。あの顔で「俺ってかっこいい人とかっこ悪い人に分けたらかっこ悪い方じゃん?」って言われてもさすがに説得力がない。『パンバス』の山下健二郎が、本当にかっこいい瞬間となんでもない人に見える瞬間の振れ幅の大きさが魅力的だったので、比較すると成田凌はまっすぐかっこ良すぎた気もする。主要キャストの美男美女度をもうひと回り落として撮ったらどうなるのかに興味がある
・小さい頃の自分が鏡に出てきて、その自分に「引っ込んでろ」とかぶせる大人げない演出は初めて見た。最高。
・台詞萌えには残る会話が多かった。「迷う」「じゃあやめとこ」
・若葉竜也すごい。泣き笑いが切ない
・片岡礼子が妙に印象的だった。『万引き家族』の高良健吾と池脇千鶴もそうだけど、「正論で上滑る人」に興味があるのかもしれない。
・岸井ゆきのの人物造形は個人的な感覚としては、角田光代的であるというよりは今泉力哉的に感じた。原作ではどういう人なんだろう、気になる。
・今泉監督は「内在←→超越」「ざっくり←→丁寧」の4象限にすると内在×丁寧にはいりそうで、割と珍しいタイプな気がする。扱ってる感情はどこまでも世俗的だけど、手つきが繊細で丁寧。アイドルとの相性の良さもそのあたりにあるのかもしれないと思った。「ここではないどこか」についての作品も撮っているんだろうか
・『リップヴァンウィンクルの花嫁』や『寝てもさめても』とも通じるような、どこまでも受動的であることによって社会の外へ出てしまう人、しかも女性についての映画が続くのは時代の空気なんだろうか。主体性を要求されることに疲れた人の数が増えているのかもしれない。
・『スプリング・フィーバー』に感じた白々しさを、今作では感じなかった。その差はなにか、自分の変化か。