「平坦な戦場でぼくらが生き延びること」は2018年にも切実な問いか。~『リバーズエッジ』について~
岡崎京子の話を2018年にするのは難しいなと思う。
『リバーズエッジ』の連載がはじまったのは1993年で、つまり阪神大震災も地下鉄サリン事件も起こっていない、インターネットもない時代だ。
その時代に岡崎京子が描いた高校生たちにとって、最大の関心は「退屈」だった。
それっぽく言えば「終わりなき日常」に波風を立てたフリをして、味気ない現実になんとか飽きないようにしなきゃ、この世界にもう飽きてしまった自分から目を背けなきゃ、というのが彼女たちの切実な願いだった。
UFOでも呼ばなきゃやってられなかった
見開き一杯の「平坦な戦場で戦場でぼくらが生き延びること」という詩が有名だけど( 今ここで, 「平坦な戦場で僕らが生き延びること」で有名なWilliam Gibson "THE BELOVED...)、それと同じくらい、次の台詞も印象的だ。
「UFO呼んでみようよ、もう1回やってみようよ」
もちろん主人公は、UFOなんていないことを知っている。呼んだって来ない、日常にさざなみさえ立たないこともわかっている。
それでも、UFOでも呼ばずにはいられないぐらい退屈で、「ここではないどこか」につながる細い可能性を握り締めていたわけだ。
この感覚は、とてもとてもよく分かる。
私がリバーズエッジに触れたのは1995年よりずっと後だったけど、それでも「この日常がずっと続いていくんだな」っていう絶望感は、ある世代の人たちに確実に共有されていたと思う。
AKIRAにせよエヴァにせよ、「この退屈な日常を終わらせてくれるなら、悪魔でも何でもでて来やがれ」という気分が背景にはあったのだ。
退屈は、安全さゆえの贅沢な悩みだった?
でもじゃあ2018年の若者にとって「退屈」は切実な問題なのかと考えて、どうも違うような気がした。
もちろん今だって「何か面白いことないかなー」ぐらいは思うだろうけど、かといって「どうせ自分の人生なんて、会社はいって30ぐらいで結婚して、60過ぎで定年して普通に死ぬんだろうな」とは思わないだろう。
正確に言えば、そんな風には「思えない」はずだ。
90年代にあれほど忌避されていた「日常」はいつの間にか愛でる対象になり、「日常系」というカテゴリまでできた。日常系の元祖と言われる『あずまんが大王』は2002年の作品だ。
その後も、社会の先が読めない不安感はどんどん強まって、自分だけでも幸せに生きたい、というサバイバルな雰囲気は増している。
自分の人生の先行き不安が大きくなれば退屈とか言ってられなくなるし、「まぁ普通になんとかなるさ」という楽観の底が抜ければ、川原の死体やUFOより就職活動の方がずっと切実になる。
仮想通過と異世界転生は「一発逆転願望」
だから『リバーズエッジ』は2018年にはタイムリーじゃない。……と、さっきまでは思っていた。
ただ書いてるうちに、本当にそうだろうか? と疑問がわいてきてしまった。
確かに自己啓発は数年前まで大ブームだったし、非モテ・貧困という身も蓋もない実存の話題も注目度が高かった。
その空気の中では、退屈は「自分が為すべきことを見つけられない敗者の問題」だったのだろう。
でもちょっと立ち止まって考えると、自己啓発の空気も一段落したし、「退屈」は最近また存在感を増してるのかもしれない、と気づいた。
きっかけは仮想通貨と、異世界転生小説&漫画。
一見関係ないこの2つだけど、どちらのブームも「普通の方法ではもはや勝機が薄いので、一発逆転で勝者になりたい」という参加者・読者を多く抱えているからこそこれだけのサイズになった側面が否定できない。
つまり「この退屈な日常を破壊してくれる何か」への待望を、下地として持っている。そもそも異世界転生なんて、主人公が死なないと話が始まらないわけだし。
そう考えると日常の退屈さはまたじわじわと水位を上げていて、存在感を増している可能性もある。
ノスタルジーか、ケーススタディか
だから、2018年の『リバーズエッジ』は両義的な作品だ。
「今となっては贅沢な話だけどさ、あの時私たちは確かにこう思っていたんだよ」という気分を再確認するノスタルジーにもなりうるし、
「最近また存在感を増してきた退屈に対して、前回の当事者だった若者たちはこのように行動しました」というケーススタディにもなりうる。
2つの震災といくつものテロ、そしてリーマンショックやスマートフォンの普及を経た2018年に、『リバーズエッジ』がどんなメッセージとして読み替えられるのかが楽しみだ。
どんなアップデートがなされているのか、はたまた90年代の空気を呼び出すことに徹したのかを確認するためにも、映画はたぶん観に行くと思う。
ただ一個だけ見る前に文句を言っておくと、高校生役に24歳とか23歳を使うのはほんともうやめよう。