葱と鴨。

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イーストウッドと情報の取捨選択。『15時17分、パリ行き』感想

 

テロリストを、同じ列車に乗り合わせた3人の男が取り押さえた。

15時17分、パリ行き』は、一言でいえばそれだけの映画だ。

 

2015年に起きた高速鉄道のテロ事件を題材にしたクリント・イーストウッド監督のノンフィクション映画だが、映画の内容自体はいたってシンプル。

ではこの映画の何が論点かというと、「主役の3人を、実際にテロリストを取り押さえた本人たちが演じて(再現して)いる」という手法に尽きる。その手法は何を意味しているのだろう、という話をしてみたい。

 

世界の解像度を操作する

映像に限らず何かを人に伝える時は通常、2つの段階が存在する。

まず、世界の解像度をマックスまであげて、いかなる小さな凹凸も見逃さない手つきで世界を認識する。

そして、今度は解像度をぐっとさげて、ある視点(テーマ)から必要な部分と不要な部分を整理する。

 

世界の解像度をあげると、何が拾えるか。

たとえば、主人公は何歳? 身長・体重は? 何人? 顔は? 肌は? 声は? イントネーションは? 髪型は? 職業は? 好みのタイプは? 幼少期はどんな子? その日の朝食は? 好きな飲み物は? 飼ってる犬の名前は? 自分の部屋から見える空の広さは?

こんな風に、事実は無限に存在する。その日地球の裏側で何が起きていたか、だってもちろん含まれる。

 

その膨大な要素の中には、テロリストを取り押さえるという英雄的な行為とは全く無関係に見える要素もあるし、色濃く関係しているように見える要素もある。

だから普通は、選択したテーマに関係がある要素を選び、つなぎ、時に並べ替えて、クライマックスが劇的に伝わる形に整える。

それが編集とか、構成とか呼ばれる作業だ。

 

情報の取捨選択を、視聴者に委ねる

しかし近年のイーストウッドは明らかに、世界の解像度を上げるだけ上げて、そのまま観客に提示する傾向を強めている。

J・エドガー』、『ジャージー・ボーイズ』、『アメリカン・スナイパー』、『ハドソン川の奇跡』、そして今回の『15時17分、パリ行き』と、イーストウッドが監督した映画はこれで5本連続でノンフィクションとなった。

後の作品になるほど演出は控え目になり、本筋と関係があるのかないのか微妙な要素を大切に扱うようになっている。

 

つまり、制作者が要素を取捨選択することを避け、起こった事実をできるだけ精緻に再現しようとしているように見える。

その究極が、本人に本人を演じさせるという手法なわけだ。どんなに演技がうまい俳優だって、本人を再現する度合いは本人には届かない。

 

ではこの思想を突き詰めていくと、何にたどり着くか。

「何かが起きたときに、そこでGoProが回ってるのが理想」

当然こうなる。

それは言わば、ストーリーテリングの否定だ。現実をそのまま映しとることにこそ価値があり、誰かの視点を介在させることはノイズでしかない、という思想である。

 

ただ今作の注意点として、当事者たちから聞き取ったことを再現した結果、「自分に起きたことを物語的に理解して再構成した当事者」の視点がストーリーとして現実に再介入してくる、という興味深い現象もこの映画では発生している。(主人公の1人の父が牧師で、キリスト教的なストーリーにこの出来事を再構成している)

 

「誰かの意図」に対する拒否感

この「現実こそ最強」という発想はイーストウッドの発明ではなくて、すでにあらゆるジャンル・場面で進行している、「いまの流行」でもある。

 

音楽業界ではロックやポップスよりもヒップホップが優位になり、

情報の入手元はマスメディアからSNSにうつり、

演出過剰なテレビタレントよりも、素に“見える”Youtuberに人気が集まり、

映像編集が可能なYoutubeから生配信に人が流れている。

 

まとめれば

「誰かの意図・編集が入り込まない生の現実」を求める感覚が広がっている。

「誰かが意図を持って編集したストーリー」への拒否感が強まっている、ともいえる。

 

その状況でフィクションの映画を作ることは難しいし、ノンフィクションだとしても意図が透ける演出をすることは難しい。その流れにイーストウッドはいち早く乗った、ということだ。

 

映画界のど真ん中にいるにもかかわらず、イーストウッドの転進が早かった理由はいくつか想像がつく。

 

・「一般人が普通にわかること」を重視・信頼する保守主義者であり、編集された映像によって観客を啓蒙・啓発しようという意志が小さい

・普遍的に正しい価値判断などというものはない、という伝統派の思想

・年齢的にもキャリア的にも、今後映画の世界でお金を稼ぎ続ける必要性が低い

 

フィクション映画の限界を悟ったイーストウッドは『J・エドガー』以降ノンフィクションしか撮らなくなり、『15時17分、パリ行き』ではノンフィクションの限界すらも悟って俳優を起用しない段階へ進んだのだ。

 

映画として、というよりも

映画公式サイトのインタビューで、イーストウッドは「観客がどう思うかなんて予想できない」と話している。情報過多の世界を、情報過多のまま観客に提示しているのだから、このコメントには真実味がある。

山ほど伏線を張り、クライマックスでBGMを流し、スローモーションまで使って全力で「ここが泣くところですよ」と全力で伝える映像を作る人に「観た人が考えてくればいい」と言われても、さすがにそれを鵜呑みにはできない。

しかしイーストウッドが言うからこそ、「自分は世界を、人間の認識力を信頼している」という信念の言葉として響く。



総合して『15時17分、パリ行き』が「映画として傑作か」と聞かれると、これはなかなか難しい。

許されざる者』や『ミリオンダラーベイビー』、ノンフィクションでも『アメリカン・スナイパー』や『J・エドガー』と比べれば完成度は一歩ゆずる。

 

ただ映画という表現形式を問い直す契機としては、『15時17分、パリ行き』は大きな意味を持っているように見える。

特権的な監督=演出家=作家=プロデューサーによる編集・物語化を排除した先にどういうものができるかという実験作として、イーストウッドが何を試し、どんな成功を納め、どんな限界に制限されたか。時間がたった時に、改めて意味が付与される映画な気がする。

 

個人的な感想としては、映画という形式を取った時点で「なぜその人・その話なのか」という恣意性を引き受けざるをえないので、特権的な視点の排除は難しい方法だと思う。

たしかにストーリーテリングには、「この複雑で情報過多の世界を、私が見事に切り取ってみせましょう」という胡散臭さがどうしてもついて回る。

だとしてもその地点から、「観客に悟られない巧妙な編集」に行くか、「特権的な視点の徹底排除」に行くか、はたまた開き直って「視点の特権性を魅力に変えるか」、何にせよその一歩を見せて欲しかったかなという希望は残った。

後で観直すとまた感想が変わりそうだけど、現時点ではそんな感じ。