『万引き家族』 この世界の複雑さを伝えるには言葉の数が足りなすぎる
『万引き家族』がとてもよかった。
私はいつも映画を観たあとは、「これは○○についての映画だ」とまず一言にしてみることにしている。
そうすると、自分にとって映画のどこの部分が刺さって、何の文脈に乗せるかがいったん決まるから。
後から振り返って的外れだったなーと思うこともあれば、面白いところに目つけてたじゃん、と思うこともある。
で、『万引き家族』はどうしても一言にならなかった。
映画館の前のベンチでしばらく考えて整理がつかず、それから2日ぐらい経ってようやく、ああこれは「言葉にならなさ」についての映画だったんじゃないか、というところまで辿りついたので、その話。
その関係を何と呼ぶか。
親子とか夫婦とか兄弟とか家族とか、
愛とか絆とか、
正しさとか犯罪とか
誰かや何かを言葉にした時に、本当は1人ずつ1つずつ違うはずのディティールが見えなくなってしまう、ということはよくある。
是枝作品の中では、たとえ1つの家族の中でも個人と個人の関係性は、強さ、濃さ、距離なんかが微妙に描きわけられていて、その関係を何と呼ぶかが頻繁に宙吊りにされる。
今作でも「相手をどう呼ぶか」は、主要な問題の1つとして登場する。
タイトルからして、このいびつな6人グループのことを是枝監督は「万引き家族」と名づけたわけだけど、確かに既存の言葉でこの6人組を表現するのは難しくて、新しい言葉が必要だったことは想像がつく。
「いま存在するどの言葉でもしっくり来ない現実」は、今作の大きなテーマの1つなんだと思う。
しかし困ったことに、『万引き家族』のような「言葉にしたときに消えてしまうもの」を詰め込んだ映画であっても、それを記憶したり誰かに伝えようとすると、言葉にする以外に方法がない。
もちろん「あの風景」や「あの表情」を言葉じゃない形で覚えておくことはできるけど、それを再現して誰かに見せることはできないし、言葉にしないで覚えておける量の限界は結構小さい。
だから仕方がないので、なんとか言葉にしようとすることになる。
そうすると「言葉にしたときに消えてしまうもの」を少しでも減らすために、言葉の種類が増えていく。
普段はまず使わない言い回しでも、その言葉でしか表現できないニュアンスがあるならそれを使う。
探してもなければ新しい言葉を作ることになる。それこそ「万引き家族」とか。
わかりやすさと正確さは逆方向
逆に言うと、「誰でもわかる文章」で伝えられることにはやっぱり限界があるんだと思う。
「誰でも知ってる言葉で書かれた、誰にでもわかる文章」は称賛されることが多いけど、この世界のあり方を正確に伝えようと思えば思うほど、その形からは離れていく。
短くして、難しい言葉は言い換えて、漢字はひらがなにして
そういう要請を無視するわけにはいかないとしても、
より正確に、より詳細に、より多彩な文脈に乗せて
という逆向きの方向性も自分の中で持っておいて、そのジレンマは抱えておいた方がいいと思う。
複雑なものは複雑なまま、スッキリする形に整えてしまわずに覚えておいた方が多分いい。
映画1本ですら言葉にできないのに、世界を綺麗に言葉にできるわけがないのだ。
『万引き家族』を数日反芻して、そんなことを考えた。
世界の複雑さ、筆舌に尽くしがたさ、言葉にならなさを突きつけるかっこいい映画だった。