空虚な中心としてのスポーツ~想田和弘『ザ・ビッグハウス』~
それをとりまく人々が熱狂し、陶酔し、一体化し、無視し、嫌悪し、大金を投じ、人生を賭ける。
周囲の注目と熱量が高まれば高まるほど、その真ん中にあるアメフトの「空虚な中心」性が浮き彫りになる――。
想田和弘最新作『ザ・ビッグハウス』は、巨大産業であるアメリカ大学スポーツの「ゲームの周辺」で起きることを観察するドキュメンタリー映画だ。
アメリカにおける大学スポーツの巨大さは、日本人にはなかなか想像しづらい。
数字を並べると、州立ミシガン大学の所有するアメフトスタジアムは収容人数が11万人で、これまでに観客数が10万人を割ったことは一度もない。そしてヘッドコーチの年俸は約10億円である。
日本のプロ野球が、東京ドームの収容人数5万5000人、高橋由伸監督の年俸が1億円ということを考えると文字通りケタが違う。
『ザ・ビッグハウス』には、大学アメフトに熱狂するファン、大スターである選手、一糸乱れぬマーチングバンドにチアガール、ゲームを中継するメディアといったスポーツビジネスの華々しい「表側」に加えて
11万人の食事を作るキッチン、警察犬やスナイパーまで動員した大がかりなセキュリティ、大学に寄付をする富裕層、スタジアム前で物乞いをするミュージシャン、チョコレートを売って小銭を得ようとする黒人の子供といった「裏側」も登場する。
そしてアメフトのゲームだけがほとんど登場しない。
ちょっと「桐島、部活やめるってよ」みたいでもある(少し脱線すると桐島は明らかに神≒キリストの比喩で、当初は桐下だったのではないかという説を個人的にずっと持っている)。
周囲の狂奔が過熱すればするほど、その中心にあるもの、今回で言えばアメフトの正体・価値がわからなくなってくる。
露悪的に言えば、熱狂の中心では「大学生がボールゲームをしているだけ」だ。
しかしそのボールゲームが膨大な金額を動かし、人の人生を変え、学校の経営を左右し、人口10万人の町を一色に染めている。この実態と影響のアンバランスさ。
そして『ザ・ビッグハウス』の美点は、すべてのスポーツビジネスが抱えるこのアンバランスさを良いものとも悪いものとも断定せずに両義性を維持している観察性にある。
大学アメフトを取り巻く熱狂は明らかに常軌を逸しており、人種差別、経済格差、排外主義を構成要素として内包している。
しかし一方でアメフトが経済を回し、貧しい学生の奨学金にもなる寄付金の集金装置としても機能している。
何より、アメフトに熱狂し一体感に陶酔する人々は幸せそうに見える。映画でも宗教や国家とスポーツを対比する場面が何度も登場し、アメリカ人の人生観を土台の部分で支える一部になっている。
なので映画は、綺麗な結論を伴わずに終わる。
アメリカという国でこそこの形でスポーツは発展し、そして成長したスポーツ産業が国家に影響を及ぼし返す。そのループの1箇所を取り上げて「だからいい」「だから悪い」と言うことは意味がない。
自分たちの社会を駆動している巨大な力学を丹念に観察し、その構造を把握する。
観察の仕事はそこまでだ。
ではどういう人にこの映画を勧めたいか、と考えてみる。
まずは社会を動かす価値観、構造に興味がある人。
そしてスポーツビジネスに関心がある人にも勧めたい。「スポーツの価値」を肯定するにせよ否定するにせよ、空虚な中心を扱うエンタメの作法は知っておいた方がいいと思う。
その意味で、この映画がサッカーW杯の時期に公開されていることには意味を感じてしまった。