葱と鴨。

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価値基準を自分たちの手に取り戻す戦い~映画『ブラックパンサー』

マーベルのスーパーヒーローシリーズに登場した、アフリカにルーツを持つ黒人が主人公の『ブラックパンサー』をようやく観られた。

キャストのほとんどに加えて監督やスタッフも黒人中心でヒーロー物を撮るという、成りたちからかなり政治色が強い作品で、女性も強いし、白人男性中心主義に対するチャレンジ心満載の映画。

 

……というぐらいの前提は知って観たけれど、それでもやっぱり「そうか、アフリカをアフリカとしてエンパワーするとはこういうことか」とちゃんと驚いた。

なぜなら、アフリカをエキゾチズム以外の方法でエンパワーするストーリーをほとんど観たことがないから。

これが日本なら、いくらでもある。「実は世界に類を見ない日本だけの力があって……」というお話は数えればキリがなくて、鉄腕アトムゲッターロボにはじまって、最近の例がちょっとうまく思いつかないんだけどBLEACHとかバキとか、日本人+超越性という組合せで日本をエンパワーする物語は無数にある。

で、アフリカをアフリカらしく肯定するというのを映像にするとどうなるか、というのほとんどを想像したことがなかった自分に気づかされる。

色彩感覚や、リズム感や、顔や髪型のセンスや、かなり訛りの強い英語(とはいえさすがに英語ではあるのだけど)と、そこらじゅうに「あぁアフリカにとっての肯定的な自己像はこうなるのか」という発見がある。

たぶんここが、『ブラックパンサー』の最大のポイントで、「アフリカってこうだよね」「黒人ってこうだよね」という語り口が当事者たちにとって望ましいものだったからこそ、ヒーロー映画史上最大のヒット作品になったのだと思う。

 

対決ではなく自立

全体を貫いているこの思想を一言でいうと「欧米が作った価値観の階級上昇をめざすのではなく、アフリカ独自の基準でアフリカを肯定する」という感じだろうか。

欧米に勝利することではなくて、アフリカが自分たちの価値観を打ち立てることを目標にしたのが、欧米側から見ても受け入れやすい理由になっていると思う。

これまでハリウッドで黒人俳優が受けてきたような扱いを逆にしてみたり、銃を使う白人を「原始的な」とバカにしたりと意趣返しっぽい演出はちらほらあるものの、全体としては対立構造を煽る度合いは抑えられていると感じた。

 

それはたとえばアフリカ勢力とアメリカ勢力が初接触する場面にも出ている。場所は韓国の釜山。この韓国という選択が気になって考えていたら、とても政治的な意味があることに気がついた。

まず、この初接触を欧米の都市にする選択肢はどうか。

これだとアフリカ側から見て、欧米に乗り込む形で戦いが始まることになる。欧米的価値観に巻き込まれるリスクもあるし、何より欧米vsアフリカという図式が強まってしまうので却下。

アフリカ側で迎え撃つ選択肢も同じ理由でなし。

ということで欧米でもアフリカでもない場所、黒人でも白人でもない人たちが住む場所が中立で望ましい、ということになる。

4大人種でいえば、モンゴロイドかオーストラロイド。発展度で考えれば中国、日本、韓国、オーストラリア、シンガポールインドネシアあたりが選択肢になる。

これらの国の中で白人から植民地化、占領を受けた度合いは韓国がダントツで低い。韓国が抱える歴史的なしこりの多くは対アジアのものだ。

そしてソウルではなく釜山な理由も、おそらくその延長線上にある。ソウルは38度線から近く、朝鮮戦争北朝鮮に占領されたことがあり歴史的な匂いが強い都市だ。

対して、釜山は朝鮮戦争で韓国側が最後まで守り抜いた都市である。(秀吉の文禄・慶長の役で釜山が占領されたというのも実はあったりするのだが)

実際に釜山で撮影したそうなので、撮影許可が降りた都市が釜山だけだった可能性もあるけれど、アフリカと欧米にとっての政治的な中立地という性質が考慮された部分はあると思う。

 

その王様の選び方で本当にいいの?

長くなってしまった。

「欧米が作った価値観の階級上昇をめざすのではなく、アフリカ独自の基準でアフリカを肯定する」という話に戻る。

それは全体として成功していると思うのだけど、個人的には2箇所気になるところがあった。

 

1つは、主人公が所属する国の統治体制が血統主義的な絶対王政であること。

たしかに、民主主義は絶対の正義ではない。欧米がアフリカや南米や中東に広めようとしてきたものだし、これを相対化してみようという動機はよくわかる。

にしたって、この王様の決め方はさすがにどうなのだろうと思ってしまった。

各部族の中の選ばれた血族の人しか王になれない、という血統主義

しかも王を決める方法は決闘。本人の戦闘力が高ければ王になれる脳筋ルール。

さらに輪をかけるように、王の権力にルールが歯止めをかける立憲君主制ではなくて、ゴリゴリの絶対王政。代々受け継がれてきた王家の伝統を、当代の王の一言で破壊できるシーンがあるので、王個人の意志にストップをかける仕組みはないと想像できる。

このシステムで長らく国が繁栄してきたことにリアリティがないし、何よりもその統治体制を本当にアフリカの人たちが望んでいるのかどうかが掴めなかった。欧米と違う価値観を打ち立てたかった気持ちはよくわかるけれど、それはさすがに悪政じゃないかなぁと思った。

 

歴史を語り直すときの作法

もう1つはさらに本質的で、終盤にキルモンガー(相手役のボス)が主人公に敗れて、「海に沈めてくれ、祖先は鎖につながれるよりも死を選んだ」というシーン。

かなり際どいところを攻めていると感じた。

このセリフはもちろん、奴隷船貿易で運ばれている最中に、奴隷になるよりも死を選んだ祖先を誇り高い存在だと思っていることを表現している。

まずこのセリフの美点は、「自分たちを奴隷にしようとする白人に抵抗して戦って死んだ人」ではなく、「奴隷になることを拒否して自ら死を選んだ人」を敬意の対象にした部分にある。ここにも、白人と敵対したいわけではないという挟持が見える。かっこいい。

歴史を自分たちの視点で語り直すことが、すなわち主導権を握りなおすことだという認識もたぶん正しい。

ただ、ただである。

冷静に考えれば、そこで「死よりも鎖」を選び、生きて奴隷という立場の苦しみに耐えた人たちがいたからこそ、いま多くの人たちが生きているのも事実だ。そしてそちらの方が多数でもあったはずだ。

もっと言えばそこで死んでしまったら血筋は途絶えるわけで(事前に子供がいれば別だけど)、鎖に耐えて生き延びた人たちを同じくらい誇り高い存在として描く方法もあったのではないかと思った。

とはいえ、まぁこれは当事者じゃないから言えることでもあって、日本人があらゆる競技の代表チームにサムライとつけてしまうことを考えれば(江戸時代の武士は人口の1割以下なのに)、ブラックパンサーのセリフ選びをダメだと言う気にはなれないのだけれど。



この映画がどれほど待望されていたかは、この映画を「自分たちのためのヒーローだ」と感じた人にしかわからない部分があると思う。が、それを差し引いても新鮮で意義深い映画だった。

「その集団をその集団の基準で肯定する」という目で、日本や欧米ではない、あまり見たことがない場所で生まれる物語の語り口に気づけるようになりたいと思った。