葱と鴨。

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スポーツは「遊びに過剰な情熱を注ぐ変な人」の祭典

ゲームとスポーツ(eスポーツを含む)の関係が話題になっていたので、乗ります。

 

いまスポーツとして扱われているあらゆる種目も、かつてはただのゲーム、つまり遊びでした。

野球もサッカーもバスケットも、遊びや祭りとしてはじまりました。もちろんeスポーツもです。

 

ことの始まりは、多くの人にとって遊びでしかなかったゲームに対して、常軌を逸した情熱を傾け、人生をかけて勝負にこだわる人たちの登場です。

言ってみれば「空気を読めない人たち」です。

みんなが楽しくゲームをしているところへ「こうすれば勝てる」「こうすれば相手をだしぬける」と勝つ方法を次々に発明する、ちょっと変わった人たち。

彼らとゲームをするのは正直楽しくありません。彼らが絶対に勝つからです。なので彼らは、自分と似たような「そのゲームに異常な情熱を傾けてしまった人たち」同士でゲームをするようになります。

そうすると徐々に、「自分たちが遊んでいるゲームを異常にうまくプレーする人たち」が、見世物としての価値を持ちはじめます。商業スポーツの誕生です。

その見世物の人気が上がりゲームがお金や社会的名声になると分かれば、本気で取り組む人も増え、周りの人もその人を「変わった人」と見ないようになり、なんならリスペクトの対象になっていく。

 

……というのが、私の考えるゲームとスポーツの関係性です。この流れは、野球やサッカーでかつて起こり、今まさにeスポーツで起きていることです。

 

最近はカジュアルなゲームでも「勝敗がある以上、勝つために最善の方法を探して練習する」という考え方が広がりましたが、これはスポーツの考え方がゲームに逆輸入されたもので、元来のゲームの発想ではありません。

お正月に家族で遊ぶ大貧民のために、1年間それだけを練習しつづける人は普通いません。でもそれをやってしまう例外的な発想、異常な執着こそがスポーツの本質です。

あるゲームに魅入られてしまい、他のものを犠牲にしてでもオールインするような人間の偏りこそが、スポーツの魅力の根本なのです。極端に偏って、どこまでも不合理だからこそ美しく尊い。そして偏っているのは選手だけでなく、観客も同じです。巨大ビジネスになったとしても、その本質は変わりません。

 

だから、クラロワやブロスタを作っているスーパーセルが表明した「私たちはゲームを作る。それを競技的にプレーする人たちが現れるならば支援する」という順番は完全に正しいと思います。

eスポーツ用のゲームが存在するのではなくて、ゲームを異常な真剣さでプレーする人が登場した時に、遊びとしての性格はそのままに、「追加で」スポーツとしての性格がそのゲームに生まれるのです。