葱と鴨。

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小さい頃から雨が好きだった 『天気の子』感想

小さい頃から雨が好きだった。

薄いグレーだった道路に黒い点ができはじめてあっという間に一面が真っ黒になっていく瞬間、それまで我が物顔で光っていた街灯が見る影もなくかすみ、気にも止められていなかったアスファルトの小さな凹凸が水たまりという形で存在感を主張する。

隅々まで人間のために塗り固められてしまったかのように見えた場所が「世界がお前たちのためにあってたまるかばーか」と裏切るような、人間がいかに無力な存在かを再確認させられるような、そんな気分がして好きだった。

 

大人になって、この感覚に言葉が追いついた。

社会の外側にある世界と手をつなぐ、ということだ。

 

私たちは人生のほとんどを、意味の次元で生きている。人間社会と言ってもいいし、端的に社会と言ってもいい。

社会とは厄介なものだ。最初は人間のために作られたはずの制度やルールが、いつの間にか自己目的化して人間を追い詰めていく。全体のために合理的に動け、社会の役に立てと追い立ててくる。

その場所から「人の役に立たなければ生きている意味がない」までは紙一重だ。「晴れ女ビジネス」の記念すべき1回目の仕事で、フリーマーケットの空を晴れさせたことに対して投げかけられる感謝の言葉は「晴れてるかどうかで売上ぜんぜん違うんだよ」だ。お金の話である。

陽菜もまた、一度はその感性を内面化する。中盤に六本木ヒルズの屋上で、陽菜は「自分がなんで生きてるかわかったような気がする」と口にする。その言葉は、まるでいい話みたいに語られる。でもこれは明らかに終盤の帆高の「もう二度と晴れなくたっていい」と対になっていて、「社会の役に立って溶け込もう」と2人に一度思わせたうえで、最後に「誰かの役に立つとか迷惑とか知ったことか」と力いっぱい否定させている。

役に立つかどうか、「で、それは儲かるの?」という基準で人が判断される場所を社会と呼ぶ。『天気の子』で言えばそれは帆高の故郷であり、金銭を介してつながる人々であり、主人公たちの苗字を呼ぶ警察である。2人は、その場所を飛び出そうとした。

 

もともと帆高や、陽菜や、凪は社会から半分以上はみ出した存在である。

最も小さな社会である「家族」からさえ、彼らは疎外されている。その象徴が「苗字」だ。劇中、帆高や陽菜は苗字を口にしない。苗字で人を呼ぶのは警察官と島の後輩だ。苗字はつまり、家族のつながりの象徴である。『君の名は。』でもそうだったように、新海作品において人を苗字で呼ぶことは社会的関係性の象徴であり、ファーストネームで呼ぶことには個人的関係性の象徴である。

 

その社会の外側には、世界が広がっている。

何の意味もない、「ただそのように存在している」だけの世界だ。雨にも、彗星にも意味はない。そこに運命を読み込むのはあくまでも人間側の勝手な妄想であって、何かの目的のために雨が降るわけではない。東京が水の底に沈んだことに理由はない。世界がたまたまそのように存在したから、ただそれだけだ。

そこには家族というしがらみも、地域という牢獄も、金銭という権力もない。

 

 

そう考えると、「天気の子」にお金が執拗に登場する理由もわかってくる。「天気の子」には10000円札が、1000円札が、50円玉が必要以上のアップで画面に登場する。時に感謝や思いやりの証のように、時に大人の冷たさのように。しかしすべての場面で共通なのは、関係性の「役に立つ」「足を引っ張る」という側面を強調する効果をともなって登場することだ。

一方で、帆高や陽菜の間で交換されるものは、指輪やハンバーガーで、ラブホテルに逃げ込んだ彼らを救うのは唐揚げだ。それらの値札も克明に表示され、つまり金銭で購入されたものであることは示される。しかし、金銭そのものではない。たとえそれが金銭で買われたものであっても、物を渡すか金銭そのものを渡すかの間には大きな乖離がある。

私たちに、社会を抜け出すことはできない。それでも、いま自分をとりまく環境が絶対でないことは何度でも意識した方がいい。つい目の前にある社会に最適化しそうになる自分を励まして、本当にそうか、本当に自分はそれを望んでいるかと問い直す必要がある。新海誠はそう訴えている

『天気の子』についてはすでに多くの論評がなされている。

2000年代前半のアダルトゲームであるとか、セカイ系であるとか。おそらくそれらも正しいのだと思うけれど、私は「『秒速5センチメートル』以前の新海誠」という表現を優先したい。『ほしのこえ』や『雲のむこう、約束の場所』との類似性はすでに指摘されている通りだ。

ただ大きく違うのは、社会と世界のどちらかを選ばなければいけないのだとしたら、私たちは躊躇せずに世界を選んでいいのだという新海誠の確信だろう。己の無力感に半ばの陶酔とともに浸るのではなく、社会に力いっぱいNOをつきつけていいんじゃないか、世界なんてさ、どうせ元々狂ってるんだから、と。

 

だからこれは、『君の名は。』の正統な続編でもある。『君の名は。』が本当はどういう映画だったのかという答え合わせと言ってもいい。

君の名は。』でも何度か噴出していた新海誠の思想が、メガヒットによって見落とされがちだったその思想が、『天気の子』では前面に出ている。反社会的な要素さえ含むその思想を好感するか拒絶するかは、ぜひ観た後に判断してほしい。

 

そして私は、やっぱり宮崎駿を思い出した。彼こそはまさに、社会に背を向けて世界に手を伸ばし続けた作家だった。恐ろしくも美しい、狂った世界に惹かれる感性こそが宮崎駿の真髄だった。

世界に手をのばす新たな作家が、まるで入れ替わるように日本映画界の頂点に君臨したのは、今思えば必然だったのかもしれない。

 

以下メモ

・ラストで帆高が手錠を使って自分と陽菜の手をつながないのは、「きみとぼく」をつなぐものが警察≒社会の象徴である手錠であってはいけないからだ。お互いが、お互いの意志で手を伸ばすことこそが肯定されている。

・『天気の子』の設定は2021年、そして『君の名は。』で瀧と三葉が再会するのは2022年。でもその時東京は水に沈んでしまっているので、彼らは再会できない。これはつまり、瀧と三葉は「運命の2人」ではないということ。

・ここから導かれるのは、帆高と陽菜の2人も「運命の2人」ではないという含蓄だろう。ラストで「お前たちが世界の形を変えてしまったとか自惚れるなよ」と釘を刺されているように、雨にまつわる神秘的な因果関係について、それが真実だったのか妄想だったのかは曖昧にしてある。ムーでの仕事という前振りも効いている。恋愛的な「この人が運命の人に違いない」という妄想となんら変わらない「自分たちが世界を変えてしまったのだ」という思い込みをあえて肯定するという身振りは、『君の名は。』の神秘的部分また真実とも思い込みともつかないものであったことを示しているのだと思う。

・帆高の家族や島での生活を描写しないことの効果は、「日本の田舎は生きづらい」という感覚を一般化することか。帆高の家族や特定の島が生きづらいのではなくて、日本の田舎はどこも生きづらい、と感じさせる効果が狙われている。

新海誠が美しくない東京を初めて描いた、と言われるけれど、それでも都市>田舎であることはまったく揺らいでいない。理想郷ではないとしても、息苦しくはない、自分の場所だと信じられる場所として描かれている。

・警察官に対する敵意がすごい。社会から疎外された人同士の連帯を描いている点も含めて、『万引き家族』と通じるものがある。

・陽菜を救い出して雨が再び降り出すシーン、主人公たちはその雨が陽菜の帰還を意味していると気づいて空を見上げている。その雨をもう少し美しく描く手はあったはずなのに、灰色の空をボロボロのビル越しで描いたのは一般的な美的感覚、善への挑戦か。