葱と鴨。

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「映像研には手を出すな!」 自己表現の時代に、誰かの言葉と身体を借りて語ること

「映像研には手を出すな!」最高です。

クールものを同時進行でみるのは本当にひさしぶりで、最後がたぶん真田丸なので3年ぶりに「来週が待ちきれない気分」を感じてます。

 

「映像研」はいいところだらけなんですが中でも個人的に好きポイントなのが、オリジナリティとクリエイティビティの感覚。

オリジナリティ=独創性=人と異なる自分だけの独創

クリエイティビティ=創造性=面白いものを作ること

いったんこんな感じで定義しましょう。オリジナリティは「人と違う」ことに重点があり、クリエイティビティは「結果として面白い」ことに重点があります。

で、「映像研」は「クリエイティビティの99%はオリジナリティじゃないんだよ」っていう感覚で作られています。それがものすごく好みでした

 

「映像研」は、高校にアニメ部を作ってアニメを作る女子高生3人が主人公で、この中の2人がアニメオタクです。

で、3人がアニメを作る時に次々とアイディアを出すんですけど、それがことごとく「アニメあるある」「ファンタジーあるある」なんです。

ジブリとか元ネタがわかりやすいのもあるし、もっと一般的なのもあるけど、そういう「あるある」をあっちからこっちから引っ張ってきて、つないで動かすとかっこいい! っていうのが「映像研」の快感を構成してます。

つまり何が言いたいかっていうと、主人公たちは「自分独自の、自分だけのアニメーション」を作ってるというよりは、「あの名作のあの場面みたいなやつやりたい!」「あの爆発、あの動きかっこいいよね」っていう模倣によってモチベートされている。

この感覚がなんとも古き良きオタクっぽいというか、表現者である以前にアニメを見るのが好きな消費者としてのアイデンティティが強い。

作者の大童澄瞳さんは26歳だそうですが、いい意味でまったく現代的じゃありません。80年代のオタクみたいな感覚です。



その特徴が一番色濃いのが浅草みどり、通称浅草氏。私の最推し。

3人の中でも一番重度なオタクで、一人称は「わし」、迷彩柄のハットに軍用リュック、口調は寅さんと昭和の落語家の合わせ技で、アニメ作りでは世界観と設定の作りこみに命をかけ、3人で喋ってるとき以外は極度のコミュ障で引っ込み思案という、こんな純粋培養の限界オタク2020年にはもういないだろうっていうぐらいのキャラクター。

彼女は常に映画や落語のセリフみたいな喋り方で、それはたぶん「照れ」です。自分の気持ちを自分の言葉でしゃべるとは真逆の、何かを演じたり名言やミームに乗せる形でしか思ってることを言葉にできないキャラクター。

いるじゃないですか、何の話でもガンダムに喩えたりスラムダンクの名言をひっぱってきたり、ジョジョやナルトでもいいんですけど、それをコミュニケーションの主な方法にしてる人。浅草氏はその極端な例です。

しかも参照元は古い日本映画や落語。たぶん「男はつらいよ」とか「仁義なき戦い」とかあの辺りの邦画と、古今亭志ん朝とか昭和の名人たち。

4話の追い詰められたあの場面、岡田麿里新海誠なら、絞りだすように訥々と「自分の言葉」を語りださせるでしょう。でも浅草氏は、そこでも「誰かの言葉」を借りて目に涙を浮かべて啖呵を切る。

この場面あまりにも愛しくないですか。切なくて、でも共感がやばい。

そして同時に、これもまた「内側から出てくるオリジナリティよりも、見たり聞いたりして蓄積した教養」という傾倒の1つなわけです。

 

2人いるアニメオタクのもう片方は人気読者モデルで、親からは俳優になれと言われているけれどアニメーターになりたいというキャラクターです。

自分の身体で演技をする役者ではなくて、アニメという絵を通じて何かを表現したい。それも、「自己をそのまま」表現することよりも、自己の技術で「かっこいいアニメーションを」作ることで表現したいという構造になっている。自分の身体のままで人気者になれるのに、アニメが好きで仕方ない。彼女もまた深いオタク性を身にまとっている。

 

自分の顔で自分の言葉でしゃべるYouTuber的感性が全盛のこの時代に、他者の言葉と他者の身体を借りることでしか何かを表現できないオタクたち。教養主義的ですらあるそのオタク的な感覚が、2020年に魅力的に描かれたのはすごいことだと思う。

6話が楽しみです