葱と鴨。

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「推し」と「萌え」の違いは、選択可能性ではないか

「推す」という感覚についてしばらく考えていたところへ、シロクマ先生が「萌え」と「推し」の話をしていたので、長らく寝かせていた原稿をいったん形にしてみる。
昔は「好き」とか「ファン」とかという言葉で表現されていた行動様式が、いつからか「推す」という動詞で表現されるようになり、対象は「推し」と呼ばれるようになってきた。

AKBの活動スタートが2005年なので、この言葉が定着してから軽く10年は経っていることになる。

これが「推す」動詞であるところに、私は時代の空気を色濃く感じている。

 

「萌え」との比較でいうと、「推し」はより能動的な、自分が主役の言葉と言える。

「萌える」というのは、「どうしようもなく萌えさせられてしまう」受け身な性質の強い言葉だ。焦るとか困るとか、そういう種類の言葉だ。なので、萌えるキャラのように対象の性質を表す形容詞として使われることも多かった。

 

対して「推す」は、推している自分に重点がある。応援者≒消費者としての自分こそが行動の起点であり、推すかどうか、誰を推すかは選択可能であるというニュアンスが強い。

「推せるor推せない」または「推さざるを得ない」という形で対象の属性にフォーカスする用法もあるが、あくまでも変形であって萌えるほど受け身度は高くない。

 

避けがたい運命ではなく自分が能動的に選べるものとして何かを好きな気持ちを扱う感性、が拡大した背景の少なくとも1つの理由は「消費社会の徹底」だろう。

自己決定と自己責任が内面化された社会では、価値観は外部からではなく、自分の内面から調達する必要がある。つまり受け身でいることは悪であり、すべてを自分で決め、責任を引き受けなければならない。

すでに人気である誰か・何かが先に存在してそれを好きにさせられたのではなく、自分のセンスによって消費対象、信仰対象を選択したというストーリーに落とし込む必要がある。

となれば、「萌え」の受け身さはしっくりこない。

 

そのさらに下敷きとしては「お前が何者であるか、簡潔にアイデンティファイせよ」という社会圧もある。

「自分は○○オタクである」「○○にハマっている」という語りで自分のキャラ、アイデンティティを提示することは1990年代には一般化していた。みうらじゅんが「マイブーム」という言葉をテレビで使って話題になったのは1994年の出来事だ。この国ではアイデンティティが値上がりしっぱなしである。

 

この消費社会と自分語り圧が悪魔合体したものが「推し」である、というのが私の仮説だ。

なので印象として、「推し」には「萌え」ほどの独りよがりな病的さは少ない。もっと地に足のついた、現実の社会性や市場原理に適応した言葉に見えるのだ。

「萌え」がはらむ対象との一体化、所有欲、降伏感といった雰囲気と比べれば、「推し」はどうしたって少し距離がある。その距離が心の安全につながるのか、逆に不完全燃焼感につながるのか、それがここから何十年のスパンで証明されていくのが楽しみである。