葱と鴨。

文化系、ゲーム、映画、ジェンダー。https://twitter.com/cho_tsugai

「映像研には手を出すな!」 自己表現の時代に、誰かの言葉と身体を借りて語ること

「映像研には手を出すな!」最高です。

クールものを同時進行でみるのは本当にひさしぶりで、最後がたぶん真田丸なので3年ぶりに「来週が待ちきれない気分」を感じてます。

 

「映像研」はいいところだらけなんですが中でも個人的に好きポイントなのが、オリジナリティとクリエイティビティの感覚。

オリジナリティ=独創性=人と異なる自分だけの独創

クリエイティビティ=創造性=面白いものを作ること

いったんこんな感じで定義しましょう。オリジナリティは「人と違う」ことに重点があり、クリエイティビティは「結果として面白い」ことに重点があります。

で、「映像研」は「クリエイティビティの99%はオリジナリティじゃないんだよ」っていう感覚で作られています。それがものすごく好みでした

 

「映像研」は、高校にアニメ部を作ってアニメを作る女子高生3人が主人公で、この中の2人がアニメオタクです。

で、3人がアニメを作る時に次々とアイディアを出すんですけど、それがことごとく「アニメあるある」「ファンタジーあるある」なんです。

ジブリとか元ネタがわかりやすいのもあるし、もっと一般的なのもあるけど、そういう「あるある」をあっちからこっちから引っ張ってきて、つないで動かすとかっこいい! っていうのが「映像研」の快感を構成してます。

つまり何が言いたいかっていうと、主人公たちは「自分独自の、自分だけのアニメーション」を作ってるというよりは、「あの名作のあの場面みたいなやつやりたい!」「あの爆発、あの動きかっこいいよね」っていう模倣によってモチベートされている。

この感覚がなんとも古き良きオタクっぽいというか、表現者である以前にアニメを見るのが好きな消費者としてのアイデンティティが強い。

作者の大童澄瞳さんは26歳だそうですが、いい意味でまったく現代的じゃありません。80年代のオタクみたいな感覚です。



その特徴が一番色濃いのが浅草みどり、通称浅草氏。私の最推し。

3人の中でも一番重度なオタクで、一人称は「わし」、迷彩柄のハットに軍用リュック、口調は寅さんと昭和の落語家の合わせ技で、アニメ作りでは世界観と設定の作りこみに命をかけ、3人で喋ってるとき以外は極度のコミュ障で引っ込み思案という、こんな純粋培養の限界オタク2020年にはもういないだろうっていうぐらいのキャラクター。

彼女は常に映画や落語のセリフみたいな喋り方で、それはたぶん「照れ」です。自分の気持ちを自分の言葉でしゃべるとは真逆の、何かを演じたり名言やミームに乗せる形でしか思ってることを言葉にできないキャラクター。

いるじゃないですか、何の話でもガンダムに喩えたりスラムダンクの名言をひっぱってきたり、ジョジョやナルトでもいいんですけど、それをコミュニケーションの主な方法にしてる人。浅草氏はその極端な例です。

しかも参照元は古い日本映画や落語。たぶん「男はつらいよ」とか「仁義なき戦い」とかあの辺りの邦画と、古今亭志ん朝とか昭和の名人たち。

4話の追い詰められたあの場面、岡田麿里新海誠なら、絞りだすように訥々と「自分の言葉」を語りださせるでしょう。でも浅草氏は、そこでも「誰かの言葉」を借りて目に涙を浮かべて啖呵を切る。

この場面あまりにも愛しくないですか。切なくて、でも共感がやばい。

そして同時に、これもまた「内側から出てくるオリジナリティよりも、見たり聞いたりして蓄積した教養」という傾倒の1つなわけです。

 

2人いるアニメオタクのもう片方は人気読者モデルで、親からは俳優になれと言われているけれどアニメーターになりたいというキャラクターです。

自分の身体で演技をする役者ではなくて、アニメという絵を通じて何かを表現したい。それも、「自己をそのまま」表現することよりも、自己の技術で「かっこいいアニメーションを」作ることで表現したいという構造になっている。自分の身体のままで人気者になれるのに、アニメが好きで仕方ない。彼女もまた深いオタク性を身にまとっている。

 

自分の顔で自分の言葉でしゃべるYouTuber的感性が全盛のこの時代に、他者の言葉と他者の身体を借りることでしか何かを表現できないオタクたち。教養主義的ですらあるそのオタク的な感覚が、2020年に魅力的に描かれたのはすごいことだと思う。

6話が楽しみです

『パラサイト 半地下の家族』時計回りの絶望と、具体と抽象のジェットコースター

『パラサイト 半地下の家族』のネタバレを含みます。よければどうぞ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

たとえば、目の前で人が歩いているとする。

その事実を「よく知る」には、2つの方向性がある。

1つの方法は具体的に調べること。

その人はどんな外見か、速度はどのくらいか、肘はどれほど折れているか、目的地はどこか、何を考えているか……。ディティールを積み重ねて「目の前で人が歩いている」という事態の詳細を明らかにする。

もう1つは抽象的に考察すること。

目の前とはどこか、なぜ自分はその人に目を止めたか、人とはそもそも何か、歩くことは何のメタファーか……。その積み重ねが「目の前で人が歩いている」という事態が置かれた文脈を豊かにする。

人間の思考の癖も、だいたいこの2つに分けられる。カメラを寄るか、引くか。ディティールを詰めるか、抽象化するか、だ。

 

私は映画を見ると、基本的にまず抽象化方向で考えることにしている。のだけれど、時々それを映画の方から拒否されている感覚になることがある。ポン・ジュノはそういう映画を作る1人で、カンヌでパルムドールに輝いた『パラサイト』もまさにそういう映画だった。

1つ1つの出来事、人物、ギミックの解像度が高くて、生々しくて、緊張感が強くて、つまり具体性の重力が強すぎて、思考を抽象方向へ展開することが阻害される。

しかし同時に、『パラサイト』は極めて記号的・構図的な映画でもある。標高や水、においなど、様々なメタファーがかなり直截に示される。

韓国のソウルのたった3つの家族のディティールを叩きつけられたかと思えば、イソップ物語でも聞いているような寓話的手触りが急に顔を出す。

具体と抽象のジェットコースター。

そうやって過剰なまでの具体性の重力と露骨なまでの寓話性が合わさると、「いま何か重要な話を目撃したのではないか」という感覚はひしひしと感じるものの、「それは何の話だったか」が像を結ばない事態に陥る。この消化不全感、喉より奥、肺のあたりに何かが残っている感覚。

映画の内容やテーマは明解なはずなのに、そのテーマの全体像が掴みにくい。その意味で『パラサイト』は、映画でなければ、物語の形でなければ実現できない体験を作ることに成功している。

思考と感情を振り回す濃密な132分間をデザインしておいて、観客が受け身を取れない瞬間に寓話を叩き込む。暴力的な腕力と繊細な作りこみ。歴史的な傑作と言っていい。

 

『パラサイト』そのものへの感想はいろいろあるけれど、まだ誰かが書いているのを見ていない1点についてだけ。

現在Twitterにパラサイトと打つと、一緒に検索されているワードの予測で「時計回り」が出てくる。多くの場合笑えるネタとして言及されているけれど、私には全く笑えるネタに思えなかった。

キム家の息子は家族で食事をしながら「このあいだだって……」とキスという単語を飲み込む。半地下のこの家には、韓国の旧来のモラル、つまり性的な話を家族でしてはいけないという禁忌の感覚が強く残っている。

それに対して山の上のパク家に性の禁忌はない。どうしたら自分たちの快楽が増すかを追求することが衒いなく自然に肯定されている。所有者もわからない安物の下着さえ性的アクセントにしようとする貪欲さはもはやグロテスクだ。

ここでは、ローカリティや格差すらも記号として利用しながら資本主義を軽やかに飛び歩く人々と、地域固有の道徳や風習に縛られて地面にしがみついて生きる人々の分断が提示されている。

つまりパク家のグロテスクさは資本主義そのもののグロテスクさであり、キム家の切なさは資本主義にうまく対応できない人々の切なさである。

だから私には、「時計回り」のシークエンスはあまりにも絶望的に見えた。ここに解はない。現在私たちが生きる社会はこうなっている、という提示がなされるのみである。

『アナと雪の女王2』が解決した「1」の宿題と、ディズニーが扱えずにいるもう1つの問題。

ネタバレを含みます。よろしければどうぞ。

 

 

 

 

 

 

 

 






アナと雪の女王1(以下「1」)には、大きく分けて2つテーマがあった。

1つは「男女の性愛こそが最高の関係性であり、女性は受け身でそれを待つ存在である」という、いわゆるディズニープリンセス像を壊すこと。

もう1つは「社会規範に収まらない規格外の能力や意志を持った人間が社会とどう折り合いをつけるか」という、エルサはどう生きるのが幸せか問題。

 

ディズニープリンセス像については、「1」で綺麗に破壊してみせた。

真実の愛が氷を溶かすという前フリで「王子様のキス」的な男性との恋愛関係を想像させておいて、姉妹の愛こそが真実なのだという結末。もちろん活躍するのは男性より女性たち。クール、文句なし。

 

しかし「1」は、エルサがアレンデールの女王に就任して終わる。これはもやっとした。

「1」の盛り上がりのピークは間違いなく、エルサが城を抜け出して「Let it go」しながら氷の城を作って女王に変身する場面だ。

あの歌は、社会が期待するperfect girl(おとなしくて従順な女の子)を演じるのを止めたエルサが「私は自分の力を思う存分使って生きる。それで嵐になっても知ったことか、私は寒くないし」と開き直る歌だ。

つまり、社会規範に反旗を翻した場面が「1」のピークである。

なのに、その力の使い道が「女王になって王国の人たちのために氷を作るよ」みたいな保守的な形に落ち着いちゃっていいんだろうか、という疑問が残っていた。

 

だからアナと雪の女王2(以下「2」)が出ると聞いて、エルサの自己実現と社会規範の衝突・妥協点が探られることを期待した。

そしてその期待にディズニーはきっちり応えている。

エルサが女王の座をアナに譲って、魔法の集落のリーダーになる形は極めて納得的な結末だったと思う。(あれはたぶん、社会の中に居場所がない天才が、シリコンバレーで起業するイメージが重ねられている)

 

ただ、エルサを救うためにアナの描写が難しくなっていて、再び課題を持ち越したようにも感じてしまった。

 

「1」ではエルサとアナは「ベストパートナー」であることが強調されていたけれど、「2」では別の道を歩む対照的な人間であることが強調されている。

その理由はシンプルで、エルサを女王の座から解放するための選択肢は2つしかないからだ。

アナが継ぐか、王国であることをやめて民主化するか。

ポリティカリーコレクトで考えれば民主化すれば済むんだけど、ディズニーはそれをしない(理由は後ほど)。

 

「2」において、エルサは前作以上にパワーで全てを解決しようとする。旧来の役割分担で言えば、かなり男性的な行動原理だ。これも、2人の違いを強調するための仕掛けになっている。

火の精霊に躊躇なく氷ビームをぶっ放し、協力ではなく独力での解決を望み、ガニ股で氷を滑り、荒れ狂う海を力づくで走り、水の精霊(馬型)を凍らせて従わせようとする。項羽か。

 

そうやってエルサが革新的で解放的で自己決定的な存在になっていくほど、姉が手放した従来型の価値観をアナが吸収する必要が出てくる。

つまり、男性と結婚し、王国の世継ぎになる子供を生んで、魔法を使わず堅実に生きるという人生モデルを、アナが一手に引き受けることになっている。

 

もちろん、全ての人に「エルサのように自由に生きろ」ということは、一周まわってまったく自由じゃない。今と違う形の規範と抑圧が生まれるだけだ。

だからディズニーは複数の生き方を肯定しようとした。森で生きる革新的な姉と、国を守る保守的な妹を、どちらも肯定しようとした。

 

……のだけど、それがうまくいってる感じがどうにもしない。

もちろん、アナは性格・能力的に女王の役割に抵抗がなくて、人のケアもできて勇気を持って地道な次の1歩を選び続けられる人だから自己決定で女王になって万事OKと言えなくもない。

だけどそれって一歩間違えば「姉妹のどちらかに家を継がせる、姉が拒否したら妹に」というイエ制度と紙一重でしょう。

 

それもこれも原因は、ディズニーが王国という「王様が統治する体制」をロマンティックな舞台設定として維持しているからだ。

過去に女性像や有色人種像を大きく切り替えたように、王政という舞台設定を使うのをやめて民主化を目指す新たな自己破壊に向かうかどうかは今後気になるところだけど、ライオンキングから白雪姫まで、ディズニーは王様が登場する作品が多いのでこの判断のハードルは凄まじく高い。

ちなみにディズニーランドのキャッチコピーは「夢と魔法の王国」だ。王国。

 

ということで「2」は「1」が積み残した宿題には応えたけれど、さらに課題を残した形で終わった。

ただ総じて言えば、アナと雪の女王2はいい感じだったと思う。「1」の宿題に応えてくれたのが本当に嬉しかった。やっぱりエルサに女王さまは似合わないよ。

個人的には「1」の方が衝撃が大きかったけどそれは「1」が凄すぎただけで、フェミニズム的な理想は健在だし、女性をエンパワーするという最近のディズニーのミッションに忠実な作りになっている。

アナが保守的とは言っても、自己主張はあるし行動力も旺盛で意志も固い。怒りの感情もまっすぐ表明する。旧来のディズニープリンセスとは全く違う女性像だ。for girlsの映画として好感できる。

ディズニー文化圏が持つ「王政」をどうするかは次の宿題として残ったけど、明らかに視線はその問題を捉えているので何かしらの回答が出てきそうな楽しみもできた。



追記:

for girlsであることを優先した代償としてクリストフがかなり頭の悪い子になっていて、正直に言えばちょっとやりすぎかなぁと思った。

彼はずっとプロポーズの成否ばかり気にしていて、テーマ曲は80~90年代風の古いテイスト(バックストリート・ボーイズ? QUEEN?)、輝くのは「どうすればいい?」とアナに指示を仰いで行動する場面だけ。

アナ雪がfor girlsであるのは確かだけど、ここまでやる必要があったのかは判断がつかない。彼が男らしく振る舞おうとするマッチョな価値観の持ち主ならそれをくじかれる描写があっても納得だけど、そういうタイプでもない。

しかも結局プロポーズは男性からさせている。そこは守るのか。ここまでやるなら、2人のプロポーズの声が揃うとか、さんざん準備してたのにアナが先に言っちゃうぐらいのベタさでもよかった気がする。

PerkzこそがG2の中心である、という説

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G2は最凶最悪の煽り屋集団である。

中でもtoxicさが際立つのがPerkz。オフィシャルのインタビューでも、SNSでも、お互いのプレイヤーだけに見える試合前のチャットでも、とにかく相手のチームを煽り倒す。

だから彼は熱狂的なファンと同時に、強烈なアンチを抱えている。

「リスペクトに欠ける」

スポーツマンシップとは程遠い」

「嫌い」

どれも一理ある。難癖というよりは、納得のクレームだ。

もちろんG2に好意的な人間の目には、G2とPerkzのコミュニケーションには対戦相手やシーンへのリスペクトが含まれているように見えるが、「リスペクトとは何か」という考え方がそもそも1つではないので、この話に着地点はない。

G2とPerkzを好きな人が大勢いて、嫌いな人が大勢いる。それだけだ。

 

ただ、それでも疑いようがないのは、Perkzが「最高のチームメイト」であり「最高のチームリーダー」であるという事実だ。

これは2019WCSファイナル、FPX戦のカメラ映像である。

Perkzはチーム内で重要な役割を担っている。試合間のインターバルで敗戦の雰囲気をリセットする会話をリードし、笑わせ、盛り上げる。チームメイトは会話の主導権を完全にPerkzに委ねているように見える。

「苦しい状況でも、お前の言葉は信じられる」

皆が心からそう思っていない限り、この役目は務まらない。PerkzはG2の精神的な拠り所なのだ。

 

この日のFPXは、Perkzのピックに制限をかけることを優先した。シンドラを消し、ザヤもカイサも渡さない。それはPerkzの3チャンピオンを高く評価したからでもあるし、それ以外のピックではパフォーマンスが落ちると確信していたからでもあるだろう。そして実際に、Perkzは抑え込まれた。

自分自身が狙い撃ちにされ、世界一が手からこぼれ落ちつつある状況で、普段通りに明るく、不遜に振る舞ってチームを盛り上げる。そんなことが一体ほかの誰にできるだろうか。

 

そもそも現在のG2を考えた時に、ライバルチームFnaticからCapsを獲得して、自分がADCにロールチェンジすることを提案したのはPerkzだという。

WCS2018をベスト4まで勝ち上がった後に、自分のポジションに選手を獲得してコンバートを受け入れる。その意思決定に利己的な精神が入り込んだ形跡はない。

 

スポーツ界には、成功するチームの最大の条件はスター選手でも敏腕監督でもなく、優れたキャプテンだという調査がある。

「今のG2の成功はPerkzの存在が大きい」というのはそんなに無理のない推論だと思うのだが、どうだろうか。

WCSすごかった

WCSすごかった。

1日たってもまだ頭の中に残ってるので、文章にしてちょっと落ち着きたい。

DFMのあの2試合、SPY戦の勝利、そしてISG戦のあの最後の30分は当分忘れられなさそうな気がする。

 

スポーツっていうのは本質的に、どこまでいっても他人事だ。

ドイツでISGと戦っていたのはDFMのメンバーであって、私ではない。

だから彼らが勝とうが負けようが、私たちが人生で抱えている問題が解決することはない。

テストでいい点が取れたり、就職がうまくいったり、割のいい仕事が降ってきたり、素敵なパートナーと出会ったりはしない。しないんだよ。

だけどその他人事のはずの試合を、私も含めてあれだけ多くの人が、PCに張り付いて、スマホにかじりついて、全身を強張らせながら、わーとかおーとか言いながら観ていたことになる。

これは改めてすごいことだ。

 

スポーツが持っている力の中心は他人事を自分ごとだと錯覚させる力で、スポーツファンの能力は他人事を自分の人生の一部だと錯覚する能力なんだと思う。

この2つが細い確率をすり抜けて出会った場所でしか、あの感覚は起こらない。

日本のLoLサーバーはプレーヤーの数に対してプロシーン視聴者の数が多いと言うけれど、それでもあの放送をリアルタイムで観ていたのは日本のLoLプレーヤーの3分の1もいない。日本人全体で言えば0.05%にも満たない。

選手は当然だけど、ファンだってそれなりに特殊な人間なのだ。

 

そしてそれは、ファンでもアンチでも変わらない。

DFMの試合を観ながら勝利を願っていた人も、手のひらクルクルを楽しんでいた人も、終始悪態をついていた人も、自分の人生に他人事を取り込もうとしていた点では全く変わらない。

もし本当に他人事だから関係ないと思うのならさっさと自分の人生に戻ればいいわけで、そうする人も世の中には結構いるわけで、それをしなかった時点でまぁ大体同じ人種なんだと思う。

せっかくだから仲良くできたらいいのに。

 

自分の理想や成功を目指して、他人事には脇目も振らず走る人生は尊いのだろう。ただ、ほとんどの人はそのように生きてはいない。

誰か他の人が何か真剣にやっているのを観て、勝手に勇気をもらったり感動したりしながら、なんだか自分の人生までどうにかなったような気になりながら生きているのだ。

それはそれで、案外悪くないことなんだと思う。

人格を使い分けずに生きられるようになったのはいいことなんだろうか

ここ数年、プライベートでも仕事でもストレスがかかる場面がめっきり減って、ペルソナの使い分けをほとんどしなくなった。取材でも雑談でもVCでも、だいたい似たようなトーンで話したり笑ったりしている。

 

で、長らくそれはいいことなんだと思ってた。自分という人間性をそのまま出して、無理をしないで生きられたら最高じゃんって思ってたけど、最近ちょっと怪しいなぁという気持ちになり始めている。

 

ペルソナを使い分けないと、なんていうか自分のバリエーションが少なくなる。昔はもうちょっと相手に合わせるケースも多くて、それはストレスであると同時に、自分の振れ幅を増やす効果もあった。

 

相手の趣味嗜好や場の空気に合わせて自分をチューンアップして、いい感じに見えるように演出する。


そうする中で新たに好きになるものや、知らない文化を教えてもらう機会もあった。覚えてないけど、自分にこんなことができるのか、という発見もあっただろう。

 

それが大人になっていろんなことを他人の顔色を窺わずに決められるようになったら、「自分が考える自分らしさ」の範囲から出る機会がすごく減った。それって結構あぶないことだ。

 

ゲームとサブカルチャーと社会科学で生きていくのはやぶさかでないんだけど、というかその世界の中だって無限にやることも考えることも観るものもあるんだけど、でも自分の趣味ジャンルがここから広がらないのはやっぱりちょっとつまらないと思う。

 

でも今の自分にとって、ペルソナを使い分けないと困るような場所ってどこなのだろう。それとも、意識的に何かを演じてみることから初めてみる方がいいのかしら。

小さい頃から雨が好きだった 『天気の子』感想

小さい頃から雨が好きだった。

薄いグレーだった道路に黒い点ができはじめてあっという間に一面が真っ黒になっていく瞬間、それまで我が物顔で光っていた街灯が見る影もなくかすみ、気にも止められていなかったアスファルトの小さな凹凸が水たまりという形で存在感を主張する。

隅々まで人間のために塗り固められてしまったかのように見えた場所が「世界がお前たちのためにあってたまるかばーか」と裏切るような、人間がいかに無力な存在かを再確認させられるような、そんな気分がして好きだった。

 

大人になって、この感覚に言葉が追いついた。

社会の外側にある世界と手をつなぐ、ということだ。

 

私たちは人生のほとんどを、意味の次元で生きている。人間社会と言ってもいいし、端的に社会と言ってもいい。

社会とは厄介なものだ。最初は人間のために作られたはずの制度やルールが、いつの間にか自己目的化して人間を追い詰めていく。全体のために合理的に動け、社会の役に立てと追い立ててくる。

その場所から「人の役に立たなければ生きている意味がない」までは紙一重だ。「晴れ女ビジネス」の記念すべき1回目の仕事で、フリーマーケットの空を晴れさせたことに対して投げかけられる感謝の言葉は「晴れてるかどうかで売上ぜんぜん違うんだよ」だ。お金の話である。

陽菜もまた、一度はその感性を内面化する。中盤に六本木ヒルズの屋上で、陽菜は「自分がなんで生きてるかわかったような気がする」と口にする。その言葉は、まるでいい話みたいに語られる。でもこれは明らかに終盤の帆高の「もう二度と晴れなくたっていい」と対になっていて、「社会の役に立って溶け込もう」と2人に一度思わせたうえで、最後に「誰かの役に立つとか迷惑とか知ったことか」と力いっぱい否定させている。

役に立つかどうか、「で、それは儲かるの?」という基準で人が判断される場所を社会と呼ぶ。『天気の子』で言えばそれは帆高の故郷であり、金銭を介してつながる人々であり、主人公たちの苗字を呼ぶ警察である。2人は、その場所を飛び出そうとした。

 

もともと帆高や、陽菜や、凪は社会から半分以上はみ出した存在である。

最も小さな社会である「家族」からさえ、彼らは疎外されている。その象徴が「苗字」だ。劇中、帆高や陽菜は苗字を口にしない。苗字で人を呼ぶのは警察官と島の後輩だ。苗字はつまり、家族のつながりの象徴である。『君の名は。』でもそうだったように、新海作品において人を苗字で呼ぶことは社会的関係性の象徴であり、ファーストネームで呼ぶことには個人的関係性の象徴である。

 

その社会の外側には、世界が広がっている。

何の意味もない、「ただそのように存在している」だけの世界だ。雨にも、彗星にも意味はない。そこに運命を読み込むのはあくまでも人間側の勝手な妄想であって、何かの目的のために雨が降るわけではない。東京が水の底に沈んだことに理由はない。世界がたまたまそのように存在したから、ただそれだけだ。

そこには家族というしがらみも、地域という牢獄も、金銭という権力もない。

 

 

そう考えると、「天気の子」にお金が執拗に登場する理由もわかってくる。「天気の子」には10000円札が、1000円札が、50円玉が必要以上のアップで画面に登場する。時に感謝や思いやりの証のように、時に大人の冷たさのように。しかしすべての場面で共通なのは、関係性の「役に立つ」「足を引っ張る」という側面を強調する効果をともなって登場することだ。

一方で、帆高や陽菜の間で交換されるものは、指輪やハンバーガーで、ラブホテルに逃げ込んだ彼らを救うのは唐揚げだ。それらの値札も克明に表示され、つまり金銭で購入されたものであることは示される。しかし、金銭そのものではない。たとえそれが金銭で買われたものであっても、物を渡すか金銭そのものを渡すかの間には大きな乖離がある。

私たちに、社会を抜け出すことはできない。それでも、いま自分をとりまく環境が絶対でないことは何度でも意識した方がいい。つい目の前にある社会に最適化しそうになる自分を励まして、本当にそうか、本当に自分はそれを望んでいるかと問い直す必要がある。新海誠はそう訴えている

『天気の子』についてはすでに多くの論評がなされている。

2000年代前半のアダルトゲームであるとか、セカイ系であるとか。おそらくそれらも正しいのだと思うけれど、私は「『秒速5センチメートル』以前の新海誠」という表現を優先したい。『ほしのこえ』や『雲のむこう、約束の場所』との類似性はすでに指摘されている通りだ。

ただ大きく違うのは、社会と世界のどちらかを選ばなければいけないのだとしたら、私たちは躊躇せずに世界を選んでいいのだという新海誠の確信だろう。己の無力感に半ばの陶酔とともに浸るのではなく、社会に力いっぱいNOをつきつけていいんじゃないか、世界なんてさ、どうせ元々狂ってるんだから、と。

 

だからこれは、『君の名は。』の正統な続編でもある。『君の名は。』が本当はどういう映画だったのかという答え合わせと言ってもいい。

君の名は。』でも何度か噴出していた新海誠の思想が、メガヒットによって見落とされがちだったその思想が、『天気の子』では前面に出ている。反社会的な要素さえ含むその思想を好感するか拒絶するかは、ぜひ観た後に判断してほしい。

 

そして私は、やっぱり宮崎駿を思い出した。彼こそはまさに、社会に背を向けて世界に手を伸ばし続けた作家だった。恐ろしくも美しい、狂った世界に惹かれる感性こそが宮崎駿の真髄だった。

世界に手をのばす新たな作家が、まるで入れ替わるように日本映画界の頂点に君臨したのは、今思えば必然だったのかもしれない。

 

以下メモ

・ラストで帆高が手錠を使って自分と陽菜の手をつながないのは、「きみとぼく」をつなぐものが警察≒社会の象徴である手錠であってはいけないからだ。お互いが、お互いの意志で手を伸ばすことこそが肯定されている。

・『天気の子』の設定は2021年、そして『君の名は。』で瀧と三葉が再会するのは2022年。でもその時東京は水に沈んでしまっているので、彼らは再会できない。これはつまり、瀧と三葉は「運命の2人」ではないということ。

・ここから導かれるのは、帆高と陽菜の2人も「運命の2人」ではないという含蓄だろう。ラストで「お前たちが世界の形を変えてしまったとか自惚れるなよ」と釘を刺されているように、雨にまつわる神秘的な因果関係について、それが真実だったのか妄想だったのかは曖昧にしてある。ムーでの仕事という前振りも効いている。恋愛的な「この人が運命の人に違いない」という妄想となんら変わらない「自分たちが世界を変えてしまったのだ」という思い込みをあえて肯定するという身振りは、『君の名は。』の神秘的部分また真実とも思い込みともつかないものであったことを示しているのだと思う。

・帆高の家族や島での生活を描写しないことの効果は、「日本の田舎は生きづらい」という感覚を一般化することか。帆高の家族や特定の島が生きづらいのではなくて、日本の田舎はどこも生きづらい、と感じさせる効果が狙われている。

新海誠が美しくない東京を初めて描いた、と言われるけれど、それでも都市>田舎であることはまったく揺らいでいない。理想郷ではないとしても、息苦しくはない、自分の場所だと信じられる場所として描かれている。

・警察官に対する敵意がすごい。社会から疎外された人同士の連帯を描いている点も含めて、『万引き家族』と通じるものがある。

・陽菜を救い出して雨が再び降り出すシーン、主人公たちはその雨が陽菜の帰還を意味していると気づいて空を見上げている。その雨をもう少し美しく描く手はあったはずなのに、灰色の空をボロボロのビル越しで描いたのは一般的な美的感覚、善への挑戦か。