葱と鴨。

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『君の名は。』 自分の人生は自分で決めたいけれど、運命的にあらかじめ決まっていて欲しい、という両立不可能な願望

新海誠細田守

よく同じ括りで取り上げられる2人だけど、『君の名は。』を観て、これは新海誠による「自分は細田守のようにならない」という宣言だと理解したので、その話をしたい。ネタバレを含みます。

  

君の名は。』の基本的な物語構造は、「偶然に満ちた現世を、何か神秘的なものを呼び出して根拠づけ、偶然性を運命的なものとして受け入れる」というものだ。

「なぜ私の相手はこの人なのか」、「なぜこの仕事なのか」、「なぜこの人生なのか」という疑問や不安は、個人が選べる選択肢が増えるほど大きくなる。

そしてその不安を「○○だからこの人生で良いのだ」と解消したい願望は、人間の歴史と最も付き合いの長い問題意識の1つだ。

これまでも人間は時代ごとに「偶然に満ちた現世」に根拠を与える「神秘的なもの」として、あらゆる設定を利用してきた。

それが唯一神ならキリスト教などの宗教に、前世なら80年代に流行った前世ブームに、月の光ならセーラームーンに、タイムトラベルによる出会い直しなら涼宮ハルヒに、入れ替わり体験なら転校生になる。

大きく見ると「運命」という言葉が使われる物語はだいたいこの構造を採用していると言える。

 

君の名は。』はそこに神のかわりに、前世とタイムトラベルと入れ替わり体験を採用した。

そして物語構造がベーシックなことで逆に際立つのは、『君の名は。』が神秘的なものを呼び出しておいて、それを突き放す点だ。

 

まず、 伝統に対して冷淡な演出が目立つ。

・糸守の伝説の文献は200年前に焼失していて、「実際のところ何を守っているか」はもう継承されていない。

・一葉、二葉、三葉、四葉という名前は一見受け継がれる伝統のモチーフのように見えて、たかだか数十年前に生まれた人間に1という始まりの数字をつけることで、その縦のつながりが実は最近、事後的に意識されたものであることが示される。

・瀧と三葉はひたすら下の名前で話し、苗字(受け継がれるもの)はほとんど登場しない。

・「サマーウォーズにでてきそうな祖母」である一葉が、『君の名は。』では何の役にも立たない。訳知り顔で喋る偉そうな存在感の割に、リアルタイムの問題については完全に無力である。「案外普通のこというな」というセリフは決定的な絶望。

・危機を救うのは今を生きる若者であり、伝説の力というよりは、個人の決断と勇気である。

・ラストシーン、いろんな人が生きる現在を映していくなかに一葉はいない。四葉も巫女ではなく女子高生の服装で授業を受けている。

・何より25歳(?)の三葉は、都市に生きるOLという道を選び、糸守の伝統を継ぐ立場を選択していない。

 

確かに、瀧と三葉の行動の裏には糸守の伝説・伝統が生きているようにも見える。

ただ細田守作品と比べるとその差は明らかで、細田守作品では個人が「大きな伝統の流れを引き継ぐ当代の担当者」的な役割を与えられるのに対して、『君の名は。』の中では、伝統はどこまで行っても個人が今を生きるために役に立つサプリメント、根拠付けとして呼び出される。22歳の瀧と25歳の三葉の現在地は東京であり、生活の中に伝統は息づいていない。

あくまでも2人が、今の出会いを、今の問題をどう捉えるかという中に「こんなことがあったら凄いね」という形で事後的に配置されている。

 

あらゆる大きな物語から断絶された私たちが、今何を「結び」として選びなおすかということなのだけれど、肝心の何を選ぶかは、かなり事後的に、恣意的に決められるように見える。

というよりも、何かを決めてくれるはずの伝統はすでに死に絶えていて誰もそれを知らず、今の問題の役には立たない。そう考えると、この映画のキーワードは実は「結び」ではなく、その前にある「断絶」だという気もしてくる。他にも、

 

・農村の意地悪な人間関係が、全くフォローされない。

・都心はいつだって美しい。新海誠は新宿~四ツ谷のエリアをつねに美しく描く。

宮崎駿が隠蔽し、細田守が避けた「ティーンの女性は性的な存在か」という問いについて、口噛み酒通販、クライマックスでの不必要なパンチラ、何度も繰り返す朝の胸問題で、「彼女たちが性的な存在であることは前提」というスタンスを強固に表明する。

・明らかにハルヒ結びのリボン。

というあたりにも、伝統回帰への警戒心を感じる。新海誠が「僕の愛するこれらのデータベースを物語の源泉として使います」と宣言しているように見えるのだ。

だって、あの感動的なはずの場面でパンチラさせる必要なんて、全くない。

というよりも、ストーリーの盛り上がりを考えれば完全に邪魔だ。でも彼が愛する作品群が、あの場面でも、というよりあの場面でこそパンチラを要求する。それを、画面上に再現して見せた意地のシーンなのだ。

「人間は弱くて何か大きな神秘的な物語を呼び出さなければ生きられないのだとしても、それは伝統とかじゃなくて、自分たちが愛した、選び取ったものの中から選べばいいじゃん」という感覚だ。

そして新海誠にとってそれは深夜アニメであり、PCゲームであり、東京に投影された節操がないまでの自由さなのだと思う。『君の名は。』が本人の言うようにメジャーを狙ったエンターテイメントであればあるほど、彼の譲れない趣味嗜好が透けて見えて好感を持った。

 

 

思えば、宮崎駿の引退が問題になりはじめた日本で期待を集めた2人のアニメ映画監督は、当初同じグループにくくられていた。

つまり、「オタク男性の味方」というグループだ。

2人にとっての出世作である細田守時をかける少女』(2006年)、新海誠秒速5センチメートル』(2007年)は、どちらも「もう取り戻せない、それゆえにどれほど美化しても美化しきれないあの頃の物語」だ。そしてこの構造が、リア充な青春を送ることができなかったと感じるオタク男性の心を掴んだ。

 

しかしその後、細田守は急速に伝統的価値観への回帰を見せる。

サマーウォーズ』で農村を称え、『おおかみこどもの雨と雪』で母性を称え、『バケモノの子』で父性を称えた。

その伝統路線が多くの一般層をつかむ一方で、細田守の保守性に違和感を覚える人も目立ってくる。

サマーウォーズ』の、男が居間に居座り女が台所で家事に追われる様子は、その風習に苦しむ女性たちに対する配慮を欠いたし、

人格から母性以外が欠落したような『おおかみこども』の主人公は率直に言ってグロテスクだった。

長らく二人三脚だった脚本家を外して自分で書いた『バケモノの子』も含めて、細田守はずっと「社会になじめなかった子が、紆余曲折を経て伝統社会に再び組み込まれる話」をしている。それが彼のコアなのだと思う。

 

一方で、同じように「社会になじめなかった子」をずっと主人公に据えてきた新海誠は、たとえ主人公を「社会になじむことができ、友人もリア充なバイト仲間もいる子」に変えはしても、伝統にはきっちりNOをつきつけて、自分たちが信じるものだけを握り締めようとする。この対比は鮮やかだ。 

東映のような大きな制作会社を経ずに、ほぼ独学でアニメーションを作ってきた彼の経歴をそこに重ねてもいいかもしれない。似たグループとして登場した2人が、実は全く異なる志向を持っていたことはなんとも興味深い。

 

興行収入の面でも、伝統より現在を、連続より断絶を、社会より個人を選んだ『君の名は。』が、10代の支持を背景に細田作品や庵野秀明の『シン・ゴジラ』を追い抜いていくことは納得的だ。若者はいつだって、文脈語りをうるさいと感じるものなのだから。

 

あとはこの「自分の人生は自分で決めたいけれど、その根拠となる神秘的な大きな運命もあって欲しい」という、本来は両立不可能な願望がどんな形で着地するのかを見てみたい。