虚淵殺すにゃ刃物はいらぬ、大手の配給つけりゃいい。~『GODZILLA 怪獣惑星』感想~
『GODZILLA 怪獣惑星』を観てきた。アニゴジ、というやつだ。
何かを観にいった映画館で予告編が始まった時は「ゴジラのアニメ化かー」ぐらいに思ったのだけど、脚本・虚淵玄という文字に目が止まって観にいくことにした。
ただ残念ながら、アニメ版ゴジラはとても凡庸な作品だったと言わざるをえない。
一言で「虚淵殺すにゃ刃物はいらぬ、大手の配給つけりゃいい」だった。
虚淵玄という人は基本的にヒューマンな人だ。
本人がいつかのインタビューで答えた「心温まる物語を書きたい」という発言は嘘でもポーズでもなんでもなくて、完全に本音だと思う。
その表れとして、これまでの虚淵玄作品はたとえそれがR18のPCゲームであろうと、深夜アニメであろうと、東宝や東映がついた劇場作品であろうと、テーマ・関心は一貫して同じものだ。一言でいえば
「人は何のために生き、何のために死に、その目的のためならばどんな非道な選択肢すら選び取ってしまうのか」
というような表現になると思う。
つまりまとっているイメージとは裏腹に、虚淵玄のテーマ設定は驚くほど普遍的でヒューマンで、そこに特別さや鬼才性はまったくない。
では何が彼を特別たらしめているかというと、「生きる目的」や「非道な選択肢」の部分にエロやグロを含むディティールを配置することで、キャラクターを過酷な選択に直面させる能力が図抜けて高いのだ。
PCゲームについては詳しくないのだけど、『まどマギ』でも『サイコパス』でも『Fate』でも、虚淵玄は視聴者が「そんなエグい選択をキャラに強いるのはやめてくれ」と叫びたくなるシチュエーションを作り出し、物語に独特の強度を与えてきた。その苛烈さは、中毒性すら帯びている。
ただそれができたのは、作品が深夜アニメやPCゲームであり、マスを狙う必要がなかったからだとも言える。
そして皮肉にも、マスを狙わないことによって虚淵玄のセンスが存分に発揮され、普遍的なテーマと相まって結果的に多くの人に届く作品になったわけだ。
ところが『楽園追放』やアニメ版ゴジラのような「大手の配給がついてある程度の興行収入が求められる作品」では、虚淵玄といえどエロも、グロも、非道なシチュエーションも、不都合な結末も使うことができない。
つまり全ての得意技を封印されたうえで、普遍的なテーマと向き合うことになる。
「人は何のために生き、そのために何を犠牲にできるのか」というテーマ自体は汎用性が高いので、どんな作品でもどんな縛りがあっても、破綻のない脚本を作り上げる能力をプロフェッショナルとしての彼は持っている。
ただその結果として、虚淵玄である必要が薄い普通の作品ができあがってしまうのだ。
それでも『楽園追放』には、虚淵玄のSF的な趣味が見て取れて楽しかった。無限の時間の過ごし方、人と無機物の相互理解、というのはSFにとって正統のテーマで、それに彼なりの答えを出して見せていた。「仁義」というキーワードもそれなりに効いていた。
ただアニメ版ゴジラは、本当に何もなかった。考え直しても、思い出されるのは小野大輔のセリフぐらいしか褒めるところがない。
本当に残念だ。
もちろん虚淵玄自身が、普遍的なテーマを普遍的な描き方で書ける人になりたい、つまり「おれだって新海誠になりたい」という願望を捨てきれないのなら、この展開は仕方がない。
ただ名前に集客力がついたことで大手配給の作品に呼ばれるようになり、とはいえ庵野秀明ほど好き勝手に自分の意志を作品に反映できないぐらいの立場ならば、一度メジャー作品から手を引いて自分の能力をフルに発揮できる場所で活躍する、というのもアリだと思う。というより個人的にはぜひそうして欲しい
言うまでもなく『まどマギ』も『サイコパス』も『Fate』も素晴らしかったし、虚淵玄が作るギミックによって普遍的な問いは何度でも形を変えて甦ると思うからだ。
あとこれは余談だけど、この映画を観て「虚淵絶対に許さない」とか「さすが虚淵」っていうのは伝統芸能、定型コメントだとしてもさすがに厳しいかなぁと思った。
1800円払ったのだからそれぐらい言って盛り上がりでもしないと損した気分になる、という言い分もわかるのだけど、それにしたってアニメ版ゴジラは虚淵玄の傑作じゃないし、佳作にも入れづらい。