葱と鴨。

文化系、ゲーム、映画、ジェンダー。https://twitter.com/cho_tsugai

「好きでゲームしてるだけだから放っておいて」という言葉の記憶

ゲーマーが人生で絶対言ったことありそうなセリフを言います。
「好きでゲームしてるんだから放っといて。別に迷惑かけてないでしょ」
言ったことありますよね? 私はすさまじい回数言ってます。そしてこの感覚は、まだ自分の中にがっちり残ってます。


なので、ゲームやeスポーツの拡大を押し進めるこんな言葉に心が少しざわつきます。
「ゲームには、eスポーツには価値がある。どんどん広めていこう」


ゲームの価値に一番耽溺してきたはずのゲーマーが、なぜこれに引っかかるか。
たぶんそれは、ゲームの価値を認めずに「社会的に価値があること」を押し付けようとした大人たちの物言いに似ているからです。
「ゲームなんてくだらないことしていないで、もっと価値がある勉強や運動をやりなさい」
昔の自分が全力で拒絶したその押し付けがましさを、今度は自分が発揮するのか……?
ゲームは私たちにとって、価値があるからやるものなのか……?
その躊躇は私の中にまだ大きく残ってます。

「理想を語りづらい」という弱点

それで自然と、私はあるポーズを取るようになりました。
ゲームに価値があるからやってたんじゃなくて、楽しくゲームしてたら「それ価値あるよ」って急に言われた、みたいな受け身のポーズです。そのポーズで行けるとこまで行きたいなーと思ってました。


ただ、この受け身の態度には弱点があります。
それは「理想を語りづらい」こと。
ゲームを広めよう、eスポーツを大きくしようっていう時に「そうすればあなたの人生が、社会が、世界がこんな風によくなります」って理想、哲学を語ることに抵抗感があるんです。

だってゲームは日陰の趣味だったから。放っておいてもらうことがゴールだったから。人を説得して広める気なんかなかったから。大義名分を語る人に対しては「胡散臭い」「宗教っぽい」と斜に構えるのが基本スタンスだったから。


スポーツの人たちはものすごく無邪気に「スポーツの価値を信じてます」って顔をするけど、ゲーマーはどうしても「自分らは日陰者なんで……」って卑下しがちです。この傾向は、ある世代以上のゲーマーのほぼ全員がアイデンティティとして持っているはずです。


実はちゃんと探せば、理想を語ろうとしてるチーム関係者や大会運営者は結構いるんですよ。でもそれをどう受け止めていいか迷って、うろたえてしまうゲーマーもきっと多いんですよね。
だからこそ、ゲーマーも乗りやすい価値である「お金」の話になりがちなのかなぁなんて連想もします。

ゲーマーと理想を巡る関係の今後

そして今年日本はめでたくeスポーツ元年を迎えて、ゲーム文化は社会のメインストリームに見つかりました。
確かなのは、もうどんなに頼んでも放っておいてもらえないことです。
これまで以上に意識的に文化を再生産していかないと、ゲーム文化は資本の論理に最適な形に向かって高速で再編成されていくでしょう。
任天堂はそれを警戒しているからこそ、自社タイトルの展開に慎重すぎるほど慎重なんだと思います。Riotにも似たような配慮を感じることがあります。


たぶん、ここからはヨーイドンです。
全体的に言えばゲーム文化が巨大システムに組み込まれていくのは間違いない。その中で既存の文化を大切にする雰囲気や拠点ができるかどうか。キーワードはたぶん「コミュニティ」になるでしょう。

もっと抽象的に言えば、開き直って理想を語るか、意地でも放っておいてもらうか、理念は脇においてとりあえず拡大を目指すか、あたりが選択肢になりそうです。

走り出した状況がどういう結末を迎えるかはともかく、2018年は間違いなくポイントオブノーリターンだったと言われる年になります。その現状を記録しておきたいと思いました。
私はいまのところ「大袈裟な理想に抵抗を感じるゲーマー文化を尊重する、という理想を語る」というねじれたルートを進むつもりです。


というかゲーマーがこれまで培ってきた空気感みたいなものに愛着ある人って私が思ってるより少ないんですかねぇ。
この空気が失われていくことについて私自身はかなり恐怖心を持っているんだけど、その感覚がどれぐらい共感されるものなのか正直わからずにいます。