葱と鴨。

文化系、ゲーム、映画、ジェンダー。https://twitter.com/cho_tsugai

こんまりとはガレンである。

最近、ずっとこんまりのことを考えていた。こんまりというのはもちろんアメリカも人気の片づけのカリスマ、近藤麻理江さんのことだ。

彼女のキーワードは「ときめき」とか色々あるのだけど、大きく括れば持ち物は少ないほどいいという思想の人である。「片づけが終わると人生が始まる」なんて発言もある。

 

そして、こんまりの本質は「ガレン性」にある。説明しよう。

ガレンはとにかく操作が簡単だ。4つのスキルはそれぞれ、走る、固くなる、回る、大ダメージ、いたってシンプル。

操作がシンプルなので能力を引き出すのが簡単であり、逆に言えばできることが限られている。

この「世界≒ゲームに対して自分ができることをシンプルかつ単純にしたい、選択肢を減らしたい」という欲望が「ガレン性」の正体である。

 

話は一度こんまりに戻る。 

こんまりが片づけようとする持ち物とはつまり、「世界に対して自分が関与するための道具」である。

車があれば遠くまで移動でき、包丁があれば野菜や肉を切れる。本があれば物事を考えるきっかけになり、パソコンがあればゲームや文章作成ができる。

つまり私たちにとっての持ち物は、ガレンにとってのスキルである。筋肉や知識もスキルだが、持ち物も同様にスキルなのだ。

では、それを減らすことは何を意味するか。

 

持ち物がスキルだとすれば、こんまりの「物を片づけよう」という言葉は、「世界に対して取れるアクションを減らそう」という誘惑である。それが、多すぎる選択肢の前で立ちすくみ何も選べなくなりがちな現代人の心を捉えた。

 

しかしスキルを減らせば、できることも同様に減っていく。

選択のストレスを減らすことと引き換えに、自分が達成しうる可能性が減ることも同時に受け入れざるを得ないのだ。


世界を変えるか、自分を変えるか

 

ここに、自分と世界の間にズレがある時に自分が悪いと考えるか、世界が悪いと考えるか、という問題が関係してくる。

多くの例外があることを承知で言えば、アメリカ人が車と銃とマイホームをこよなく愛してきたのは、「自分のテリトリーは自分の手で守る。世界が相手でも戦ってやるぞ」という独立自尊の精神の現れだ。国も個人も根っこには孤立主義がある。

 

一方のこんまりは、自分が世界と戦うためのスキルを減らして、内面のときめき≒幸福感を増大することに注力する。

彼女の思想が禅だと言われる理由もここにある。摂取する情報量を減らして、世界を変えるのではなく自分の内面を変えることで世界とのズレを感じなくする。その内向的・自罰的なスタイルは確かに禅に通じる部分がある。

 

結論に入ろう。

こんまりは、多すぎる選択肢を減らす提案によって人気を得た。それは複雑すぎる世界に対応しようとする現代人の防衛策として有効だった。

この構図は、LoLという複雑すぎるゲームに立ち向かうために、せめてスキルの選択肢だけでもシンプルにしようというガレンの思想と同じものである。

 

しかし、話はここでもう一度反転する。

重要なのは、ガレンが世界≒LoLに立ち向かう意志を持っているのと同様に、こんまりもまた「ときめき」という形で世界に立ち向かう選択肢を残していることだ。

世界に有効に立ち向かうためにこそ、選択肢を減らそうとしているとも言える。

 

世界に対してあらゆる選択肢を駆使する全面闘争は断念しても、局地戦の可能性までは捨てていない。少なくともそう解釈する余地を含んだ思想であり、私は「ときめき」にファイティングポーズを読み込みたい。

 

こんまりにはよく可憐という形容詞が使われるが、とんでもない。こんまりはガレンなのだ。

 

最後に、私のチャンピオンマスタリーを貼っておく。見てわかるとおり、揃いも揃ってガレン性の高い=操作がシンプルなチャンピオンばかりである(イレリアのマスタリー6はリメイク前のもの)。

私もまた、LoLという複雑な世界に局地戦を挑む1人のガレンであり、こんまりであったのだ。

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