葱と鴨。

文化系、ゲーム、映画、ジェンダー。https://twitter.com/cho_tsugai

『愛がなんだ』どころか「それはなんだ」と問いたくなる。

「お互いが納得してるならそれでいいでしょ」という薄っぺらい正論の奥の

「自分が納得すればそれでいい」という個人主義のさらに奥にある

「誰も納得していないのに、そのように立ち現れてしまった関係性」の話。

 

映画では、穂志もえかや片岡礼子が正論(≒社会)を担い、小さい頃の自分が個人主義(≒自分)を代表し、自分でも理解できない執着で突き進む大人の岸井ゆきのが最後の段階(≒??)にいる。

 

他の人物はその幅の中をふらふらしながら、時に薄い正論を吐きながら時に暴走しかけながら、理解可能な範疇のダメさ、あるいはまともさに収斂していく。

成田凌深川麻衣若葉竜也江口のりこも、ダメだけどまともな人だ。

岸井ゆきのだけが壊れている。

ドロドロとか情熱的とかではなく、ただ壊れている。

夢があって努力ができて「幸せになりたいっすね」と言う人は正気だ。「幸せってなんだよ」という人は遠い。

 

ただ、では本当に若葉竜也岸井ゆきのは違うのか。もっと言えば、穂志もえかは何があっても岸井ゆきのにならないのかh難しいところだ。

たぶんそれは、本当に好きな人に出会うとかそういうロマンチックな話ではなくて、もっとどうしようもなくありふれた、依存心とか生育環境とか、ただのタイミングだとかで変わるのではないか。それともやっぱり変わらないのか。

つまり、心の中に岸井ゆきの的な部分を「持つ」ことと、岸井ゆきの「である」ことの間にあるのは量的な差なのか、質的な差なのか。

岸井ゆきのに共感しそうになる時に、本当にそれは共感なのかを躊躇する。穂志もえかのように生きながら岸井ゆきのに憧れて見せるのは安全圏に身をおいたままの自意識遊びではないのか。

 

驚くほど何もわからない。

切り取られる場面の1つ1つはあるあるで、共感や思考の手がかりは多いはずなのに、映画は収束ではなく拡散へ向かって終わる。

若葉竜也深川麻衣はきっともう一度すれ違うのだろうし、岸井ゆきのが10年後に片岡礼子になっている可能性だってありそうだ。

だからどうしたという話でもなく、ただ世界はそうなっている。

『愛がなんだ』どころか『それはなんだ』と問いたくなるような、ただそこにある世界の話。言葉にすると「困ったな」とか「しょうがないね」ぐらいにしかできそうにない。

 

そして、こんなにも人は人のことをわからないんだという映画が「わかる、エモい、これは自分だ」という言葉に乗って広がっていくのも興味深い。

角田さんや今泉さんは、登場人物たちを「わかった」んだろうか。どのくらい「わかった」気で作ったんだろうか。

いとおしいと感じることとわかったと感じること、そして本当にわかることの間にある絶望的な距離を感じながら作ったんじゃないだろうか。

そしてそのわからなさを「わかられて」いくことについてどう思うのだろうか。

 

感想を書こうとするとポエムに引っ張られるのは、そういう力のある映画だったんだと思う。

ということで24時間後の感想ここまで。



メモ

・原作および映画の中で成田凌はどれぐらい顔がいい人な設定なのだろう。あの顔で「俺ってかっこいい人とかっこ悪い人に分けたらかっこ悪い方じゃん?」って言われてもさすがに説得力がない。『パンバス』の山下健二郎が、本当にかっこいい瞬間となんでもない人に見える瞬間の振れ幅の大きさが魅力的だったので、比較すると成田凌はまっすぐかっこ良すぎた気もする。主要キャストの美男美女度をもうひと回り落として撮ったらどうなるのかに興味がある

・小さい頃の自分が鏡に出てきて、その自分に「引っ込んでろ」とかぶせる大人げない演出は初めて見た。最高。

・台詞萌えには残る会話が多かった。「迷う」「じゃあやめとこ」

若葉竜也すごい。泣き笑いが切ない

片岡礼子が妙に印象的だった。『万引き家族』の高良健吾池脇千鶴もそうだけど、「正論で上滑る人」に興味があるのかもしれない。

岸井ゆきのの人物造形は個人的な感覚としては、角田光代的であるというよりは今泉力哉的に感じた。原作ではどういう人なんだろう、気になる。

・でも岸井ゆきのよりも、成田凌の方が気になる。

・今泉監督は「内在←→超越」「ざっくり←→丁寧」の4象限にすると内在×丁寧にはいりそうで、割と珍しいタイプな気がする。扱ってる感情はどこまでも世俗的だけど、手つきが繊細で丁寧。アイドルとの相性の良さもそのあたりにあるのかもしれないと思った。「ここではないどこか」についての作品も撮っているんだろうか

・『リップヴァンウィンクルの花嫁』や『寝てもさめても』とも通じるような、どこまでも受動的であることによって社会の外へ出てしまう人、しかも女性についての映画が続くのは時代の空気なんだろうか。主体性を要求されることに疲れた人の数が増えているのかもしれない。

・『スプリング・フィーバー』に感じた白々しさを、今作では感じなかった。その差はなにか、自分の変化か。