人格を使い分けずに生きられるようになったのはいいことなんだろうか
ここ数年、プライベートでも仕事でもストレスがかかる場面がめっきり減って、ペルソナの使い分けをほとんどしなくなった。取材でも雑談でもVCでも、だいたい似たようなトーンで話したり笑ったりしている。
で、長らくそれはいいことなんだと思ってた。自分という人間性をそのまま出して、無理をしないで生きられたら最高じゃんって思ってたけど、最近ちょっと怪しいなぁという気持ちになり始めている。
ペルソナを使い分けないと、なんていうか自分のバリエーションが少なくなる。昔はもうちょっと相手に合わせるケースも多くて、それはストレスであると同時に、自分の振れ幅を増やす効果もあった。
相手の趣味嗜好や場の空気に合わせて自分をチューンアップして、いい感じに見えるように演出する。
そうする中で新たに好きになるものや、知らない文化を教えてもらう機会もあった。覚えてないけど、自分にこんなことができるのか、という発見もあっただろう。
それが大人になっていろんなことを他人の顔色を窺わずに決められるようになったら、「自分が考える自分らしさ」の範囲から出る機会がすごく減った。それって結構あぶないことだ。
ゲームとサブカルチャーと社会科学で生きていくのはやぶさかでないんだけど、というかその世界の中だって無限にやることも考えることも観るものもあるんだけど、でも自分の趣味ジャンルがここから広がらないのはやっぱりちょっとつまらないと思う。
でも今の自分にとって、ペルソナを使い分けないと困るような場所ってどこなのだろう。それとも、意識的に何かを演じてみることから初めてみる方がいいのかしら。