葱と鴨。

文化系、ゲーム、映画、ジェンダー。https://twitter.com/cho_tsugai

『パラサイト 半地下の家族』時計回りの絶望と、具体と抽象のジェットコースター

『パラサイト 半地下の家族』のネタバレを含みます。よければどうぞ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

たとえば、目の前で人が歩いているとする。

その事実を「よく知る」には、2つの方向性がある。

1つの方法は具体的に調べること。

その人はどんな外見か、速度はどのくらいか、肘はどれほど折れているか、目的地はどこか、何を考えているか……。ディティールを積み重ねて「目の前で人が歩いている」という事態の詳細を明らかにする。

もう1つは抽象的に考察すること。

目の前とはどこか、なぜ自分はその人に目を止めたか、人とはそもそも何か、歩くことは何のメタファーか……。その積み重ねが「目の前で人が歩いている」という事態が置かれた文脈を豊かにする。

人間の思考の癖も、だいたいこの2つに分けられる。カメラを寄るか、引くか。ディティールを詰めるか、抽象化するか、だ。

 

私は映画を見ると、基本的にまず抽象化方向で考えることにしている。のだけれど、時々それを映画の方から拒否されている感覚になることがある。ポン・ジュノはそういう映画を作る1人で、カンヌでパルムドールに輝いた『パラサイト』もまさにそういう映画だった。

1つ1つの出来事、人物、ギミックの解像度が高くて、生々しくて、緊張感が強くて、つまり具体性の重力が強すぎて、思考を抽象方向へ展開することが阻害される。

しかし同時に、『パラサイト』は極めて記号的・構図的な映画でもある。標高や水、においなど、様々なメタファーがかなり直截に示される。

韓国のソウルのたった3つの家族のディティールを叩きつけられたかと思えば、イソップ物語でも聞いているような寓話的手触りが急に顔を出す。

具体と抽象のジェットコースター。

そうやって過剰なまでの具体性の重力と露骨なまでの寓話性が合わさると、「いま何か重要な話を目撃したのではないか」という感覚はひしひしと感じるものの、「それは何の話だったか」が像を結ばない事態に陥る。この消化不全感、喉より奥、肺のあたりに何かが残っている感覚。

映画の内容やテーマは明解なはずなのに、そのテーマの全体像が掴みにくい。その意味で『パラサイト』は、映画でなければ、物語の形でなければ実現できない体験を作ることに成功している。

思考と感情を振り回す濃密な132分間をデザインしておいて、観客が受け身を取れない瞬間に寓話を叩き込む。暴力的な腕力と繊細な作りこみ。歴史的な傑作と言っていい。

 

『パラサイト』そのものへの感想はいろいろあるけれど、まだ誰かが書いているのを見ていない1点についてだけ。

現在Twitterにパラサイトと打つと、一緒に検索されているワードの予測で「時計回り」が出てくる。多くの場合笑えるネタとして言及されているけれど、私には全く笑えるネタに思えなかった。

キム家の息子は家族で食事をしながら「このあいだだって……」とキスという単語を飲み込む。半地下のこの家には、韓国の旧来のモラル、つまり性的な話を家族でしてはいけないという禁忌の感覚が強く残っている。

それに対して山の上のパク家に性の禁忌はない。どうしたら自分たちの快楽が増すかを追求することが衒いなく自然に肯定されている。所有者もわからない安物の下着さえ性的アクセントにしようとする貪欲さはもはやグロテスクだ。

ここでは、ローカリティや格差すらも記号として利用しながら資本主義を軽やかに飛び歩く人々と、地域固有の道徳や風習に縛られて地面にしがみついて生きる人々の分断が提示されている。

つまりパク家のグロテスクさは資本主義そのもののグロテスクさであり、キム家の切なさは資本主義にうまく対応できない人々の切なさである。

だから私には、「時計回り」のシークエンスはあまりにも絶望的に見えた。ここに解はない。現在私たちが生きる社会はこうなっている、という提示がなされるのみである。