葱と鴨。

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すずめの戸締まりは「無敵の子」だった  ※ネタバレあり感想

以下、「すずめの戸締まり」のネタバレを含みます

 

 

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新海誠の新作「すずめの戸締まり」はぎょっとする場面が多い映画だ。

震災の風景や黒い日記はもちろん、「オマエハイラナイ」とか駐車場のアレとか。

 

中でも特に印象に残ったのが、2つめの扉を閉めるシーン。

愛媛の廃校に後ろ戸が開く。それを閉じようとする草太にすずめが迷わず駆け寄る。

草太はすずめに向かって「君は死ぬのが怖くないのか」と叫ぶ。
それに対してすずめは「死ぬのは怖くない」と即答するのだ。

見ていた瞬間も「いま変じゃなかった…? あれ、あんまりその話を深める感じじゃないのか…」と引っかかったが、後から考え直してもやっぱりこのセリフが「すずめの戸締まり」の出発地点なのだと思う。

死ぬのなんて怖くない、私の命なんていつ無くなっても構わない、もう失って困るような大事なものは1つも残っていない……そう感じる「無敵の子」としてのすずめ。それが日本を縦断するロードムービーの出発点だ。

 

「無敵の人」は2008年頃にひろゆきが言い出した言葉で、自分の将来に絶望し、もはや何も失うものが無いゆえに躊躇なく犯罪や社会的逸脱に踏み出す人たちを指す。

前作「天気の子」の帆高がどうみても社会から孤立した無敵の存在だったのに比べると、すずめは一見ちゃんと日常を生きている。
学校へ行けば冗談を言い合う程度の友達が2人いて、育ての親のタマキさんとも談笑して家を出る。
それでもすずめは、まったく躊躇せずに日常を捨て、家を離れてずんずん東へ向かっていく。その行動力はアクティブというより自暴自棄に近いものだ。
すずめが東へ向かう表向きの動機はダイジンの追跡だが、本質的な動機は「ここからいなくなりたい」であり、すずめはミミズや扉が放つ死の気配に惹きつけられて東への旅を開始する。

友人たちがすずめを心配して連絡してくるシークエンスが一度も描かれないのも、すずめと地元の間の距離を示している。宮崎にすずめの居場所はない(友人たちとの会話は、「千と千尋」の家族の会話に雰囲気が似てると思う)。

 

すずめは旅の途中、愛媛で千果と、神戸でルミと出会う。彼女たちは「無敵の子」であるすずめを現世と繋ぎ止める存在だ。新海監督は丁寧にも、愛媛と神戸で全く同じシークエンスを2度繰り返す。

・すずめと千果やルミは道路で出会う。多くの人が行き交う場所で偶然に、善意によって
・千果とルミはすずめに、生きるために必要なもの≒衣食住を与える。千果がくれるのは服一式(衣)、泣くほど美味しい焼き魚定食(食)、民宿の温かい布団(住)。ルミがくれるのは帽子(衣)、ポテトサラダ入りの焼きそば(食)、スナックのソファ(住)。
・すずめは衣食住の対価として、風呂掃除とスナックの手伝いという労働を提供する。千果やルミとの関係が一方的な「施し、施される」ではなく「持ちつ持たれつ」であることが示される。
・愛媛でも神戸でも、すずめは扉を見つけて急に駆け出し、ボロボロで帰ってくる。それでも千果とルミは暖かく迎え、踏み込んだ質問はしない。
・別れるときはハグをする。「持ちつ持たれつ」のさらに先にある無償の関係性。

 

すずめが2人と作る人間関係は、この映画における「完全な関係」のテンプレートになっている。助け、助けられ、食事をともにし、ともに眠り、服を身につけ、再会を期して別れを言う。

2回繰り返されるこの関係性のハッピーセットが、すずめと草太の関係の「不完全さ」を際立たせる。

 

旅をする中で、すずめは草太とも精神的なつながりを求める。そのためには千果やルミとそうしたように、衣食住を共にし、互いの役に立ち、ハグをする必要がある。
しかし椅子に変えられた草太は食事や睡眠ができない。船の上でパンを返されるシーン、愛媛、神戸と念入りに「草太と一緒にごはんを食べられない」「草太と一緒に眠れない」ことが繰り返される。

それでも、すずめは草太との距離を詰めていく。

草太が御茶ノ水で要石になってしまった後、すずめは東北へ向かう決意をして草太のアパートへ向かう。そこでシャワーを借り(住)、靴を借りる(衣)。

「草太さん、借りるね」
さらに東北で再会した草太は、人間の姿ですずめに白い上着を渡す(衣)。別れの直前に草太はすずめにハグをする。

 

丁寧に衣食住のTo Doリストをこなすことは2人の心の接近と同時に、「まだ2人で一緒にできていないこと」の存在を際立たせる。

すずめと草太が一緒に食事をする場面は、ラストまで一度も描かれない。というか草太は人間の姿に戻る前も後も、何かを食べている場面がない。芹澤でさえアイスクリームを食べているのに。
この欠落はつまり、すずめの「いつか草太と一緒にご飯を食べるんだ」という未来への希望の裏返しである。生きていく目標と言ってもいい。
すずめにとって千果やルミとの関係は大切なものだが、映画内の基準ではいったん完成している。
一方で草太との関係にはハッキリした欠落があるぶん、進展の可能性が示唆されているのだ。

 

自分の未来に期待している人は、もはや「無敵の人」ではない。
いつ死んでもいいと捨て鉢になっていたすずめが、「いま一年、いま一日、いまもう一時だけでも永らえたい」と願うように変化したところで映画は終わる。

つまり「すずめの戸締まり」は無敵の子が無敵ではなくなるまでの話であり、未来への期待と、失いたくないものと、もう一度傷つく可能性を手に入れる話なのだと思う。

※一度観ただけなので細かいセリフは違ってもご寛恕ください