葱と鴨。

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眞人はなぜ着替えるのか 「君たちはどう生きるか」ネタバレ感想文

ネタバレ全開です、OKだという方だけつづきをどうぞ









「肝心の場面に居合わせられない蚊帳の外の人の話」というのが「君たちはどう生きるか」のファーストインプレッションだった。

最初に違和感があったのは、冒頭の火事のシーン。
夜半に目をさました主人公・眞人が「もののけ姫」を彷彿とさせる階段ダッシュで2階にあがると、遠くで母の病院が燃えているのが見える。
これまでの宮崎映画なら主人公が一目散に飛び出していくはずの場面だが、眞人はわざわざ一度自分の寝床に戻って外行きの服に着替えてから病院へ向かう。
母より服、明らかに変である。

 

学校の同級生と喧嘩したあとに自分で頭を傷つけて流血するシーンでは、「誰にやられたんだ」と聞く父親に眞人は「階段で転んだだけ」と答える。

この2つのシーンは同じものを表している。眞人の卑怯さ・姑息さである。

 

必死なフリをしている自分に酔う姑息な少年

わかりやすい喧嘩の方から行こう。眞人は自分で頭に傷をつけるけれど、「同級生にやられた」という嘘まではつきたくないと思っている。同時に、そんな嘘をつかなくても、早合点した父親が喧嘩の相手を罰してくれることも当然わかっている。
つまり眞人がやってるのは「別に自分が罰してくれと言ったわけではない」と自分を正当化する言い訳の余地を残しつつ、親の力を使って喧嘩相手の同級生に仕返しを目論んでいる。完全な卑怯者ムーブである。

 

病院のシーンはもう少し複雑だ。眞人は病院の燃え方を見て、もう母の死に自分が間に合わないことを直観している。それどころか「間に合いたくない」とさえ思っているように見える。

母の死という重大な場面に居合わせてしまうことへの恐怖が、現実と向き合うのを邪魔しているのではないか。
そうだとすると、病院に向かって走るシーンの「いかにも必死」な演出の意味も変わってくる。あれは母を心配する眞人の不安と同時に、「自分は母を心配するいい人間だ」というセルフイメージを守ろうとする眞人の卑怯さを強調している。
この時の眞人はもう母に会えないことを頭では理解していて、服を着替えに部屋に戻るほど冷静である。にもかかわらず「まるで必死かのように」走ってみせる。炎もいかにも陶酔的に劇的に演出されている。

このとき眞人は、自分の卑怯さを直視しないために、必死なフリをする自分に酔っている。これまた姑息としか言いようがない。

 

眞人=「バルス」と言えないパズー

映画の後半で、眞人は自分が卑怯な人間であったことを認められるようになる。ではその内面的な成長はいつ起きたか。それはもちろん母親が遺した「君たちはどう生きるか」の本を読んだ時だ。

ただ、この映画を「わかりづらい」と感じた人が多い理由はまさにここにある。と思う。本を読んで眞人はたしかに変化しているけれど、ポイントは変化が起きているのは「内面だけ」なのだ。

つまり本を読んで以降の眞人は、世界の重要な場面から目を背けず自分も関わろうとする意志は持っている。しかし、世界を変える力は手に入れていない。そこが過去の宮崎作品と違うところだ。

 

過去の宮崎作品の主人公たちは世界の運命を変える力を秘めていて、劇的な瞬間に居合わせ、自分の意志と力で世界(と自分)の運命を変えて見せる。
ナウシカも、パズーもシータも、サンもアシタカも、ハウルも宗介もみんな世界を変える意志と力の両方を持っていて、劇的な何かを起こす。

でも眞人が与えられたのは意志だけで、力は持っていない。つまり眞人は「バルスと言えないパズー」「魔法が使えないハウル」なのだ。

この徹底した無力さによって、一見すると眞人は自力ではほとんど何も変えることができない人物に見える。それがこの映画のわかりにくさを形成している。

 

眞人が無力な存在であることを示す場面は数えきれないくらいある。
墓地の扉を開くのはペリカンに押されたからで、ペリカンの群れから助けてくれるのはキリコで、水飲み場やトイレの場所を教えてくれるのもキリコだ。
その後もインコの家でヒミに助けられ、ようやく夏子の部屋にたどり着いても「大嫌い」と罵倒されて失神、再び捕まっているところをヒミに助けてもらい、塔から落ちれば今度はアオサギが助けてくれる。

インコの王様に階段を切られるシーン、過去の宮崎作品なら眞人は大ジャンプしたり崖にしがみついたり、なんならルパンのように空中を平泳ぎしてでも上の通路にたどりつくはずだ。しかし眞人はいとも普通に落ちて、瓦礫の下に埋まる。彼にはアニメーションの魔法がかかっていない。

これほど助けられっぱなし、やられっぱなしな主人公もちょっと珍しい。

クライマックスの場面でも、積み木を崩して大叔父の世界を崩壊させるのは眞人ではなくインコの王様だ。

眞人は「僕は戻って現実の世界に向き合います」と意志だけは表明するものの、トドメのバルスを唱える役目は与えられていない。

夏子も(眞人の言動に影響は受けているものの)最後は自力で逃げ出してくる。

 

大事なことはいつも手が届かない場所で起きる

でも大事なのは、ちゃんと眞人が成長してないかということだ。卑怯だった自分を認められるようになり、現実と向き合う覚悟もできている。彼の内側では確かな変化が起きている。でも、それを世界に反映する力だけがない。

そもそも眞人は主人公のくせに、大事なことが起きる場面にほとんど居合わせず、蚊帳の外に置かれ続けている。
母は見えないところで死に、知らぬ間に新しい母ときょうだいができていて、父と夏子は視界のギリギリ外でキスをする。一家の裕福な生活を支える工場の中も一度も出てこない。

もっと言えばこの映画全体が、空襲が最も激しかった時期に東京に「いなかった」少年の話である。
東京が炎上する肝心の瞬間には居合わせられなかった。悲惨な運命を避ける力もなかった。それでも今度こそ現実と向き合って生きると心に決める。

だからこの映画のラストシーンは、一家がのどかな宇都宮を離れて焼け野原になっているであろう東京≒現実へ戻る場面で終わるのだ。

その眞人にとって、大叔父の世界が崩れる時、「何もできなかったけれど決定的な瞬間に居合わせることができた」のは特別な経験である。あの場面で眞人はやっと世界に「間に合った」のだ。

 

風立ちぬ」はなりたかった自分、「君たちは~」は本当の自分

眞人が宮崎駿の分身であるならば、眞人が感じている「世界をどうにかしたいのに自分にはそれを変える力が全然ない」という無力感はそのまま宮崎駿自身のものということになる。

前作の「風立ちぬ」を観た時、私は「宮崎駿が自分のことを描いた」と思った。でも今から振り返れば、あれが「なりたかった自分」「格好つけた自分」の話だったことがよくわかる。その気持ちを抑えて本当の自分に迫ろうとしたのが「君たちはどう生きるか」だったのだろう。

戦争という重大な場面に居合わせ、現実に干渉する力を持ち、全力で世界と向き合った堀越二郎

一方で宮崎駿は自分のことを「大事な瞬間に間に合うことができなかった、世界を変えることができなかった無力な存在」だと思っている。あれだけの傑作を作り続けてきた空前絶後の大天才が、である。

たぶんその無念さ・無力感には、戦争に間に合わなかったこと、学生運動が失敗したこと、アニメーションの世界で敵わない才能に出会ったこと、その筆頭である高畑勲が先に逝ってしまった喪失感なんかが、ないまぜになって含まれているんだと思う。

齢82になった宮崎駿が自分がずっと抱えてきた無力感をさらけだし、その中に「それでも自分は世界と向き合う意志だけは持って生きて来たんだぞ」という矜持を一匙しのばせたのではないかと気づいたとき、私は泣けて仕方がなかった。

だってこの映画はあまりにも遺言に見えすぎる。なんかもう、いっそ映画なんて作らなくていいから私が死ぬまで生きててくれないかなぁとさえ思ってしまった。本人はそんなこと全然望んでないのだろうけど。