葱と鴨。

文化系、ゲーム、映画、ジェンダー。https://twitter.com/cho_tsugai

2017年の3 4さんインタビューを再アップします。

Burning Coreのプレイオフが本当に印象的で3 4さんっていいコーチなんだなぁと改めて思ったので、2017年にLJL公式サイトに寄稿したインタビュー原稿を再掲載します。

ちなみに当時の3 4さんはRAMPAGEというチームのコーチで、メンバーはEviさん、Tussleさん、Ramuneさん、YutoriMoyashiさん、Daraさん、Lem0nさんでした。

いまの3 4さんがどんなことを考えてコーチングしているのか、また話を聞きたくなりました。

――――――――――――――――――

 『RPGを作ったのは、3 4コーチかもしれない。』

 

 チームにはカラーがあります。

 

 選手のキャラクターはもちろん大きな要素ですが、それと同じか、もしかするとそれ以上に大きな影響力を持つのが指導者、つまりコーチのキャラクターでしょう。

 

 そしてLJLの中で、コーチの重要さをもっとも早い時期から意識していたのは、Rampage(以下RPG)ではないかと思います。韓国人コーチを最初に招いたのも彼らでしたし、昨年秋に3 4(スリーフォー)コーチが就任したときには、選手だけでなくコーチのトライアウトもあったそうです。

 

 とはいえチームのコーチングは方向性も考え方もさまざま。

 権力者型、カリスマ型、モチベーター型、鬼軍曹型……あとは、選手に奉仕するサーバント型なんてのもあります。

 

 では、今のRPGのカラーはどうやってできたのか。そして34コーチはどんな方法でそれを成し遂げたのか。そんな秘密を探ってみました。


大学で勧められたコーチの道

 

――はじめまして。3 4コーチは競技シーンでの活動がRPGが初めてだということなのですが、最初にいままでのLoL歴を教えてください。

 

3 4「LoLを始めたのは高校1年生の時で、最初は遊びでやってたんですよ。韓国ではeスポーツは前から流行ってたからテレビで見てたんだけど、おれがそこに入りたいとかは最初は考えてなかったです。でも大会を見てるうちに自分でもやりたいなと思うようになって、本気で練習しはじめたらレートも上がって、プロを目指すようになりました」

 

――最初はやっぱり選手を目指していたんですね。

 

3 4「でもプロゲーマーを目指す人が多い全南科学大学に入ったら、周りがすごいうまくて(笑)。当時はMidがメインで、Daraと同じチームだった時期もあります。ライバルチームにはTussleもいましたし。でも2人はLJLへ行っちゃうし、ほかの選手もプロになったりでチームが解散して、その後も練習はしてたんですけど、レートがマスターぐらいで止まってしまったんですよね。でも大学の人が『ゲームについての知識もあるし、コーチになってみたら』って言ってくれて、コーチの勉強を始めました」

 

――競技シーンからの叩き上げではなくて、大学でコーチングの勉強をしてた、と。LJLを知ったのはいつ頃でした?

 

3 4「選手をやめてから1年半くらいコーチの勉強をしたんですが、同じ時期にDaraとTussleがRPGに入ったので、オンラインで2人の相談役をやっていたんですよ。日本に来た当時はやっぱり慣れないことが多くて困ることも多いから、そのケアをして欲しいと。だから2人を通してLJLの状況は大体全部わかってましたね」

 

――かなり以前からRPGとは関係があったんですね。

 

3 4「そうですね。それで去年RPGがコーチを探しはじめたときに、大学との契約がちょうど切れて自分もフリーの立場でした。それで『お前しかいない』ってチームに言ってもらって、Daraとかも後押ししてくれて、RPGのコーチをやってみよう、と」


仲の良さ重視は自分自身の経験から

 

――LJLへ来てみて、率直な感想はどうでした?

 

3 4「うーん正直に行って、リーグのレベルはそこまで高くないなと思いました。うまい選手もいるんだけど少し差がある選手もいて、しかもリーグの雰囲気が『強くなろう』っていう感じにそこまでなっていない、という印象でした」

 

――おお、結構厳しい第一印象ですね。1年たって、それは変わりましたか?

 

3 4「もう今シーズンは本当に変わりました。まずおれたち自身のやる気がすごかったし、DFMもおれたちに負けて本気を出したと思うんですよね。それで他のチームもそれに引っ張られてがんばり始めて、どのチームも何か起こそうと狙ってくるし、怖いチームが増えました。今日の7h戦もすごいびびってたんですよ(笑)」

 

――たとえばRPGだと、何が一番大きく変わったんでしょう。

 

3 4「一番は、選手たちがみんなチーム的に考えるようになったこと。前は『おれのレーン』『自分はこうしたい』っていう感じだったけど、今は『おれたちの~』っていう話し方が自然に出るようになったかな」

 

――以前Eviさんに、3 4コーチがRPGで初めにしたのは「チームの仲を良くすること」だと聞きました。「おれたち」という主語が増えたのも似た話なのかなと思うんですが、その方法って韓国では結構一般的なんですか? それとも3 4さんのオリジナル?

 

3 4「自分の経験が大きいですね。大学でDaraと一緒だったチームは、プレーのレベルは本当に低かったんだけど、雰囲気は本当にいいチームだったんですよ。逆にTussleのいたライバルチームは、今LCKのチームにいるような選手もいてレベルは高かったけど、選手の仲があんまりよくなかった。その2チームで試合をすると、半分ぐらいおれたちが勝ってたんですよね。それで、プレーのレベルが低くても仲がいいだけでこんなに勝てるじゃんって(笑)。だからRPGに来たときも、一番は選手同士がお互いのことをわかるのが大切だなって最初から思ってました」

 

Ramuneはみんなの赤ちゃん?

 

――RPGでその狙いはとてもうまくいっているように見えます。チームの人間関係で、キーになってる選手って3 4さんからみて誰かいますか。

 

3 4「みんないい感じだけど、やっぱりRamuneかな。チームで一番若いし、かわいいから他のメンバーもいじるんですよね。本人も『普通そこまでいじられたら怒るでしょ』っていう状態でも平気そうにしてるし、こいつメンタルいいなって思います。メンバー全員にとって弟というか、赤ちゃんというか、そういう感じ(笑)」

 

――赤ちゃん(笑)。でも確かにちょっとのことでは動じない雰囲気はあります。34さん自身はいじる側ですか? それともいじられる側?

 

3 4「どっちかっていうと、いじられる側かな? Tussleには『LoLができるチンパンジーだから放っておこう』とかそんな感じで言ってますけど(笑)。でもみんなにしゃべり方とかをマネされるし、基本はいじられてるかも」

 

――コーチってチームの中で立ち位置が難しい仕事だと思うんですけど、3 4さんにとっていいコーチの条件ってどんな感じなんでしょう。

 

3 4「確かに微妙な立場なんですよ。選手じゃないけどゲームはしてるし、でもゲームにハマったらだめ。選手より少し上の立場だとは思うけど、選手と遠すぎてもうまくいかないから、その距離を上手に作るのが大事だと思います」


3 4さんが考える、コーチの存在意義

 

――LJLにはコーチがいないチームもあります。コーチってそもそもなんで必要なんだと思います?

 

3 4「ゲーム内の話で言うと、選手だけでフィードバックをしても話し合いって絶対まとまらないんですよ。絶対。『おれはこう思う』『いや、こうでしょ』ってなって、それだとチームの考えがひとつにならない。そこでコーチが選手の考えを聞いて、『いまDaraはこういうことを考えてて、だからこういう言い方をしたんだよ、じゃあ一番いい方法はこれじゃない?』って示すのがおれの仕事です。1回まとまっちゃえば、あとは選手同士でも『そしたらこういう可能性もあるんじゃね』って、新しい考えが出てくるようになるから」

 

――上から何かを教えるというより、交通整理をしてる感じなんですね。

 

3 4「ゲーム以外の場面でも大体同じで、選手はゲームに集中するとどうしても会話が減るから、会話が起こるように仕向けたりします。プロ選手はプライドがあるから自分からは言いたくないこともあるけど、言った方がチームのためになることもあるし、そういうのを話せる環境にするのが一番大事」

 

――ああ、RPGがどうして今のようなチームになれたのか、ちょっとその秘密がわかった気がします。

 

3 4「正直、最初はもっとコーチって難しいのかなと思ってたんですよ。選手に何か言ったら『お前の言うこと聞きたくない』って拒否されたりするのかなって。でもオーナーも協力してくれたし、選手たちも歩み寄ってくれて、どうにかうまくいってると思います」

 

――3 4さんにとってRPGの選手たちはどんな存在ですか?

 

3 4「うーん、めんどくさいやつら、かな(笑)? 実際の兄弟は兄だけなんですけど、もし弟がいたらこんな感じなのかなっていうイメージ。めんどくさいけど、えらいし、かわいい。そんな感じ」

 

 Dara、Tussleより1年以上後に日本へ来たはずなのに誰よりも流暢に日本語を話し、冗談と身ぶり手ぶりを交える姿は、軍曹でもサーバントでもなく、まさに長男。それに少し父親成分を加えたイメージでしょうか。

 

 ちなみに、3 4コーチの話し方はこんな感じ(https://twitter.com/ebihuryahurya/status/882883479729455108)です。RPGが今のようなチームになった理由が、少しわかった気がしました。

スポーツっていうシステムそのものが時代とズレはじめているかもしれない。

最近、スポーツっていうシステムが時代とズレてきたと感じることが増えた。10年近くスポーツを仕事にしてきたけれど、そのズレが急速に広がった感覚があるのはここ1~2年だ。

それは野球がどうとかサッカーがどうだっていう種目単位の話ではなくて、「自分じゃない誰かの勝敗に一喜一憂する」というスポーツの性質自体がどうにも現代的じゃないのでは、という感覚だ。

 

きっかけは「推しチームが負けるなら試合を見たくない」というツイートだった。

その人は、応援しているチームが勝つのを見るのはプラスだけど、負けるのを見るのはマイナスで、トータルするとマイナスだから見たくないと思っている。

で、当たり前だけど、この「負けるかもしれないから見ない」現象はアイドルやYouTuberのファンには起きない。HIKAKINはいつだって楽しく愉快で、動画を開く前に「今日は辛い思いをしないかな」って心配する人はいない。自分を楽しませるためにHIKAKINが最適な形に整えてくれているだろうという信頼感がある。

 

でもスポーツはファンに緊張を強いる。「真剣勝負、何が起こるかわからない、勝てば天国まければ地獄」というハードな世界観なので、ファンの半分は負けた側と一緒にうなだれることになる。辛い率なんと50%だ。

映画も漫画もYouTubeも、というか世の中のエンタメコンテンツのほとんどは95%以上のファンが幸せな気持ちになれるのに、スポーツだけ50%。こんなドSコンテンツよく流行ったなと思う。本当に、なんで流行ったんだろうか。

 

実はスポーツを運営してる人の間ではこの問題は有名で、だから「負けても楽しんでもらうために」ってショーアップしたりするんだけど、それだってよく考えたら変な話だ。

嵐を見たければオリンピックの開会式である必要はないし、テイラー・スウィフトを見にスーパーボウルへ行く必要もない。本人たちのコンサートへ行く方がいいに決まってる。

スポーツイベントに楽しいショー部分を追加して感情収支を底上げすることはできるけど、それならショーだけでいいのだ。わざわざ辛い率50%のスポーツをくっつける理由がなくなってしまう。

 

実際にスポーツ離れは進んでいて、野球もサッカーもテニスもゴルフもファンの高齢化が止まらない。スポーツの種目同士の奪い合いじゃなくて、スポーツというギミックを若年層が避けはじめている。少なくとも、20世紀と同じレベルで支持されるエンタメではなくなってきているのだ。

 

もちろん短期的には、人気が上がるスポーツもあるだろう。eスポーツは、まだもうしばらく大きくなると思う。

若年層にだって真剣勝負というギミックを好む人はいるし、スポーツ内の勢力争いではeスポーツがしばらく勝ち続ける。それは全然疑っていない。

 

でも多分、スポーツっていうギミックの価値はゆっくり落ちていく。ゲームにとって最大の相棒はスポーツじゃなくてアイドル≒ストリーマーでしたっていう未来は全然ありそうだ。というより2020年の時点で、HikakinGamesや兄者弟者より視聴数の多いeスポーツシーンは日本に存在しない。この差が今後つまることってあるんだろうか。むしろ開くんじゃないだろうか。

それに、SNSの普及以降に起きている「他者の大事件より自分の日常」という流れも無視できない。他人がやってる世界一決定戦より、自分の昼食を素敵に撮影する方が圧倒的に”自分ごと”だ。もしかすると影響はこっちの方が大きいかもしれない。

 

eスポーツの世界の端っこにいると、「ゲームの試合をプロ野球Jリーグや甲子園みたいにしよう」っていう話は本当によく聞く。確かにその話は完成形が想像しやすいし、大人受けもいい。

だけど、スポーツっていうエンタメジャンルそのものの地盤沈下はもう始まっていて、その中でどうするかは早めに考えておいた方がいいと思う。

シリアス化して辛い率50%を引き受けるか、アイドル化して勝敗はおまけ程度に扱うか。ぱっと思いつかないけど他にもルートはいくらでもある。向こう5年だけを考えるか、50年単位で考えるかでも発想は変わってくるだろう。

そこそこ長い間スポーツの仕事をしてきた人間として、最近はそんなことを考えている。

プロとは注目と歓声を食べて生きる種族である

DFMのEviさんの「ゲーミングハウスだとLJLの試合に気持ちが入りづらい」という言葉を聞いて、LJLプレイヤーたちは本当にプロになったのだなぁとあらためて思った。

プロの定義みたいな難しい話をするつもりはなくて、要するに「LJLプレイヤーたちは人に注目され、関心を持たれることを日常として生きるようになったのだなぁ」ということ。

 

現代アートにこんな作品がある。

入場者が暗闇の階段を上っていくとステージに出る。スポットライトがあたり目の前には無人の観客席。そして中央に立つと、観客席に設置されたスピーカーから大音量で歓声があがる――。

これはつまり「自分がスターになった」という疑似体験をするアートだ。

このステージに上がった人の多くは、自分が一身に歓声を浴びることについて「鳥肌が立つほど快感」という感想を持つそうだ。そしてスポットライトを浴びたいという欲望を自分が持っていたことを自覚する。そういう作品だ。

 

SNSが普及した現代では、一般人でもふとしたきっかけでバズってものすごく大勢の人に注目されている気分になることがある。かつては芸能人とスポーツ選手と犯罪者くらいしか体験しなかった「注目されることの快感と不快感」を、誰もが意識するようになった時代だと言える。

注目される快感の虜になってバランスを崩す人や、逆に人から関心を持たれることに恐怖を感じてSNSから距離を取る人は20年前には決して存在しなかった。

 

そんな中でプロゲーマーやプロスポーツ選手というのは、「注目されることの快感と不快」を日常として生きる人々だ。

個人的な感覚として、アマチュアとプロの差で大きいのはお金をもらうかどうかよりも、注目と歓声を食べて生きる生物であるかどうか、じゃないかと思っている。

そして注目と歓声を浴びる日常をある程度以上すごした人にとって、歓声なしの人生に戻ることは想像以上に難しい。多くの場合その変化は不可逆で、元には戻らない。

引退した芸能人やプロスポーツ選手がトラブルに巻き込まれがちなのは有名だけど、生活レベルの変化以上に自分に集まる視線の量が乱高下することで精神のバランスが崩れるケースも多い。だからLJLから選手を引退した人がストリーマーのような形で見える場所にいてくれるのは嬉しい反面、実は少し心配していたりもする。

でも、プロになるっていうのはそういうことだ。試合の勝ち負けの評価と自分が集めた関心の量の評価を、いつだって二正面作戦で戦う険しい道なのだ。

 

で、話はEviさんの言葉に戻ってくる。この話は私の中では、4月に渋谷∞ホールで無観客試合が行われていた頃に始まっている。ガランとした∞ホールでRamuneさんが、無観客について「寂しい」と話してくれたのが妙に記憶に残っていた。

つい数年前まで、オフライン会場で観客の視線を感じながら試合をするのは緊張や慣れない環境でパフォーマンスが落ちるというのが一般的な見解だった。

Eviさんは割と早い時期から視線を力にするタイプだった気もするけど、Ramuneさんは確実に「緊張する側」だったと思う。というよりLJLプレイヤーを含めてゲーマーの多くは家でゲームをしているのが一番好きという人種で、最初から人に注目されるのが好きだったり得意だったりするのは少数派だろう。

それから数年で、選手たちの感覚はずいぶん変化したのだ。

 

そう考えてくれば、オンライン対戦の影響を口にしたのがDFMのEviさんだったのも納得がいく。DFMはLJLの中で、注目される機会がまちがいなく最も多いチームだからだ。

まだしばらく無感覚でのLJLは続くだろうが、ゲーミングハウスから一歩も出ずに公式戦があるという日常が彼らにどんな感覚を引き起こしたのか、自分の精神性が変化していくことについてどんな風に感じるのか、いつか話を聞いてみたい。

『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』が傑作だった

家にいる時間が長くなったのをきっかけにディズニーデラックスに登録してマーベルシネマティックユニバース、通称MCUを最初から観ている。

アイアンマンでヒーロー像のアップデートに驚き、アベンジャーズで先進性にふるえ、そしてシビル・ウォーでスコセッシとコッポラの完敗を悟った。

 

この文章の想定読者は、MCUをシビル・ウォーまで観た人。

エンドゲームまで観た人にとって意味のある文章かどうかは正直わからない。その理由は、1つは単純に観てないからで、もう1つはMCUがそれぐらい1作ごとにテーマと思想性を前進させてるから。

アベンジャーズアイアンマン3、シビル・ウォーの展開は完全に想像を超えてきた。だからエンドゲーム完走者には「ほお君はいまその段階にいるわけだね」とニヤニヤしながら見てもらえたら嬉しい。



まず私はMCUを、トニー・スターク=アイアンマンとスティーブ・ロジャースキャプテン・アメリカの思想対立の話だと思っている。

進歩主義vs.保守主義、科学への信頼vs.科学への警戒、自由主義vs.民主主義、グローバリズムvs.ナショナリズム、……。トニーは民主党的であり、キャプテンは共和党的、と言っても大きくは外していないだろう。あらゆる価値観が2人の間で衝突する。

 

そしてMCUにはほぼすべての作品に「問題を解決するのは科学だ」という通奏低音が流れている。アイアンマン、ハルク、アントマンはまんま主人公が理系の技術者だし、他の作品にも科学者が重要なポジションで登場する。ヤンキー気質のマイティ・ソーでさえヒロインは宇宙学者だ。

なのでMCU全体としての主人公ポジションは、キャプテンというよりトニーである。世界は進歩する、21世紀の魔法の杖はサイエンスだ。

その世界で、古き佳きアメリカの象徴たるキャプテンの立ち位置は難しい。アベンジャーズ1でも、状況を打開したのはトニーとバナーの自称マッドサイエンティスト2人組の科学への無限の欲望だった。キャプテンの倫理観は善良だが旧弊に映る――。

 

というのがシビル・ウォーまでの2人の位置関係だ。

シビル・ウォーは、アベンジャーズが世界中で自由に活動することに国際社会が難色を示すところから物語が始まる。

そして「国連の指揮下に入れ」という要請をトニーが受け入れ、キャプテンが拒否したとき、私はまず驚いて、その後に深く納得した。解説しよう。

 

シビル・ウォーの前まで、トニーは圧倒的に個人主義者に見える。キャプテンは出自が兵士ということもあり、組織の結束を重視する。アベンジャーズ1でも「小異を捨てて大同につけ」とトニーを説得して、それをトニーは「ポリシーに反する」とつっぱねている。

しかし国連との関係では、アベンジャーズ内の結束をあれほど主張したキャプテンの側が提携を拒む。これはものすごくアメリカ的だ。しかも第2次世界大戦前の、キャプテンが生きていた時代のアメリカだ。

世界史に出てきたモンロー主義という言葉を覚えている人もいるかもしれないが、アメリカは第2次大戦が始まるまで、孤立外交が基本だった。これは個人も同じで、国家は孤立外交、個人は銃と車で自衛して自己完結。そして自分に関わる決定について一切誰の指図も受けないという自決精神がアメリカの骨法だ。それをキャプテンは体現している。

第2次大戦のスーパーソルジャーであると同時に、1922年にマンハッタンで生まれて23年間その時代を生きた青年でもあることがキャラに染み込んでいるのだ。なんて重層的な人物造形だろう。

そしてアベンジャーズ1まで、キャプテンはアベンジャーズを疑似家族にしようと試みている。シビル・ウォーの冒頭でもまだその希望を持っている。しかしカーターを失って完全に孤独になった後に、自分と同じ時代からやってきたバッキーとアベンジャーズの二択を迫られ、彼の個人主義は幼馴染を優先するのだ。そこに論理はない。ビジョンもない。「俺はそうする」というだけだ。

 

シビル・ウォーの最後でキャプテンは「僕が信じているのは一人一人の個人だ(My faith is in people, I guess, indivisuals)」と言う。フェアネスや組織ではなく、1対1関係、自分の感覚を信じている。それしか信じていない。

ここで、MCUにおけるトニーとキャプテンの立ち位置が逆転する。個人主義に見えたスタークが実は巨大なルールを志向するグローバリストで、集団主義に見えたキャプテンは自己の信念だけを貫く孤立主義者であることが明らかになる。

 

別の言い方をすると、トニーは世界の人々のフェアネスを重視するグローバルエリートだ。トニーの精神の同心円は自分<親しい人々<世界である。アメリカという国家への忠誠心は薄いが、世界を覆うフェアで巨大なルールを作ることの価値は疑わない。進歩主義だ。

しかしキャプテンの同心円は自分<親しい人々<<<アメリカである。

彼の価値観に「世界」はない。アメリカへの忠誠心は一見強いが、国家の都合は絶対に「自分の都合」に及ばない。そこに論理はない。親密度に基づく決断しかない。ある意味無敵だ。

それでもトニーとキャプテンは、人間としての信頼感で繋がっている。正義でもフェアネスでも価値観の一致でもなく、「あなただから信じる」という身勝手な理由だけが2人をつないでいる。そしてそれはキャプテンの土俵だ。

この瞬間、トニーとキャプテンの力関係もひっくり返る。トニーの正義はキャプテンを説得するには力不足で、協力関係の主導権はキャプテンの側に移っている。次作で2人の関係性がどう更新されるのか、どんな舞台設定がそれを導くのか気になって仕方がない。

 

シビル・ウォーが公開されたのは2016年5月6日、ドナルド・トランプが大統領選への立候補を表明する1カ月前だ。民主党共和党に引き裂かれるアメリカを目の前にして、双方の陣営の精神性を描き、アメリカが没落するとしたら外敵にやられる時ではなく内戦=シビル・ウォーによって崩壊した時だと警告する。

(映画のパッケージでは、キャプテンが青く、トニーが赤く描かれている。青は民主党、赤は共和党の色なのでここでも反転が起こっている。そして青と赤が揃ってこそアメリカなのだ)

これは分断が進むアメリカに友愛をもたらそうとしたディズニーの闘争だ。お気楽なだけのヒーロー映画ではない。

ほとんどが民主党支持者のハリウッドで、リベラルを奉じるディズニーが、ここまでフェアにトニーの弱点を描き、キャプテンを魅力的に描く映画を作ったことも感動的だ。紛れもない傑作だと思う。

2020年のお仕事一覧

<Wellplayed Jounal>

 

<NumberWeb>

 

 

大塚食品 e3特設サイト>

ときどさん、豊田風佑さん、SHORIさん、マゴさん、大須晶さん、アールさん、カプコン綾野智章さん、マウスコンピュータ杉澤竜也さん、RIZest古澤明仁さん、ファミ通上床光信さん、岸大河さん、はつめさんインタビュー

https://bsd-e3.com/

「推し」と「萌え」の違いは、選択可能性ではないか

「推す」という感覚についてしばらく考えていたところへ、シロクマ先生が「萌え」と「推し」の話をしていたので、長らく寝かせていた原稿をいったん形にしてみる。
昔は「好き」とか「ファン」とかという言葉で表現されていた行動様式が、いつからか「推す」という動詞で表現されるようになり、対象は「推し」と呼ばれるようになってきた。

AKBの活動スタートが2005年なので、この言葉が定着してから軽く10年は経っていることになる。

これが「推す」動詞であるところに、私は時代の空気を色濃く感じている。

 

「萌え」との比較でいうと、「推し」はより能動的な、自分が主役の言葉と言える。

「萌える」というのは主体的な行動というよりも、対象に「どうしようもなく萌えさせられてしまう」受け身な性質の強い言葉だ。焦るとか困るとか、そういう種類の言葉だ。なので、萌えるキャラのように対象の性質を表す形容詞として使われることも多かった。

 

対して「推す」は、推している自分に重点がある。応援者≒消費者としての自分こそが行動の起点であり、推すかどうか、誰を推すかは選択可能であるというニュアンスが強い。

「推せるor推せない」または「推さざるを得ない」という形で対象の属性にフォーカスする用法もあるがあくまでも変形であって、萌えるほど受け身度は高くない。

 

この、避けがたい運命ではなく自分が能動的に選べるものとして何かを好きな気持ちを扱う感性が拡大した背景の少なくとも1つの理由は「消費社会の徹底」だろう。

自己決定と自己責任が内面化された社会では、価値観は外部からではなく、自分の内面から調達する必要がある。つまり受け身でいることは悪であり、すべてを自分で決め、責任を引き受けなければならない。

すでに人気である誰か・何かが先に存在してそれを好きにさせられたのではなく、自分のセンスによって消費対象、信仰対象を選択したというストーリーに落とし込む必要がある。

となれば、「萌え」の受け身さはしっくりこない。

 

そのさらに下敷きとしては、「お前が何者であるか、簡潔にアイデンティファイせよ」という社会圧もある。

「自分は○○オタクである」「○○にハマっている」という語りで自分のキャラ、アイデンティティを提示することは1990年代には一般化していた。みうらじゅんが「マイブーム」という言葉をテレビで使って話題になったのは1994年の出来事だ。この国ではアイデンティティが値上がりしっぱなしである。

 

この消費社会と自分語り圧が悪魔合体したものが「推し」である、というのが私の仮説だ。

なので印象として、「推し」には「萌え」ほどの独りよがりな病的さは少ない。もっと地に足のついた、現実の社会性や市場原理に適応した言葉に見えるのだ。

「萌え」がはらむ対象との一体化、所有欲、降伏感といった雰囲気と比べれば、「推し」はどうしたって少し距離がある。その距離が心の安全につながるのか、逆に不完全燃焼感につながるのか、それがここから何十年のスパンで証明されていくのが楽しみである。

今さらオルフェンズがおもしろかった話

ガンダムオルフェンズの全50話をいまさら一気に観た。

周りから「2期がひどい」と聞いていたのだけど、個人的にはむしろ1期から2期に入って面白くなり、「いつ破綻するんだろう」と思っていたらどんどん魅力的になっていって完結した。

とても議論の全ては追いきれないのですでに誰かが言いつくしたことかもしれないけど、私なりの感想を置いておきたい。

 

オルフェンズの物語には、大きく分けて2つのレイヤーが存在している。

1つが蒔苗やクーデリア、初期マクギリスが所属する「政治的闘争≒価値観」のレイヤー。

もう1つが鉄華団テイワズが所属する「経済的闘争≒金を稼いで成り上がる」のレイヤー。

この2つのレイヤーが基本的に独立して進行し、戦争=武力決着の場面でのみ合流する。

 

オルフェンズの最大の特徴は、主人公である鉄華団の戦いを「政治的闘争」ではなく「経済的闘争」に設定したことにある(過去作をすべて観ているわけではないけれど近いのはGガンダムか)。

ガンダムシリーズは主人公がモビルスーツパイロット≒武力担当であるという物語の構造上、主人公が直接理想を掲げることは少ないが、それでもWのリリーナやターンエーのディアナ、00のシュヘンベルグのような「理想を語る主人公サイドの人物」が配置されていることが多かった。

しかし鉄華団に目指すべき社会像や理想はなく、戦いの理由は単純に資本主義の中で成り上がること、つまり金と権力だ。

 

ガンダムの歴史をこの視点で振り返ると、1979年のファーストからしばらく戦いの舞台は「政治的に思想のことなる複数の陣営の戦争」である。背景にはもちろん、真っ最中だったアメリカとソ連の冷戦がある。

その後も時代の変化に応じてテロや非戦をテーマに取り入れてきたが、ほとんどの作品の中心には「政治的闘争」があった。能動的に参加するにせよ、受動的に翻弄されるにせよ、少年たちが戦う理由はある種の価値観・理想だった。

しかし2015年時点で少年少女が巻き込まれている闘争は何かと現実社会を見渡せば、それは明らかに経済的闘争であったことだろう。格差論が定着し、自己啓発もそれへの批判も一周して、それでもどうやっても逃れられない資本主義こそが現代の戦場だ。

 

その中で、鉄華団は敵のいない終わりのない闘争に突入していく。理想は実現すれば終わるが、成り上がりに終わりはない。一度は設定した「上がり」に到達できたとしても、すぐにまた次の闘争は始まってしまう。否、自ら始めずにはいられない。それが資本主義の重力だ。

 

1期ではクーデリア・蒔苗、2期ではマクギリスという政治的闘争を戦うキャラクターと手を組むことで話のスケール自体を大きく見せてはいるが、鉄華団は最後まで政治的理想を掲げることはしない。彼らを動かすモチベーションは徹頭徹尾「成り上がりたい」だけである。

それでも1期は辛うじて鉄華団とクーデリア・蒔苗の間で最低限の価値観の一致が保たれているが、2期に入ってマクギリスがパートナーになるとそれも消える。

しかもクーデリアは黒い商人のノブリスやヤクザのテイワズと手を組むタイプの手段を問わない政治家であり、マクギリスとラスタルの争いも単純な権力闘争である。つまりオルフェンズには「理想に準じる人」が登場しない。

その中で自分が組んだ相手の成り上がりに賭け、権勢を手にすることだけがオルガの行動原理になる。彼がよくいう「一度手を組んだら裏切らない」というのは、パートナーの価値観の正邪を問わず思考停止するという意味だ。

 

思考停止といえば、登場人物間の信頼関係の根拠が示されないのもオルフェンズの特徴だろう。オルガと三日月を筆頭に、オルガと鉄華団メンバー、蒔苗と支持者、マクマードと名瀬、ラスタルジュリエッタラスタルとガランモッサ、イオク様と部下、カルタ様と部下など、「固い信頼関係があるらしいが理由が明示されない」ペアがあまりにも多い。信頼関係の根拠がまともに説明されたのはタービンズぐらいだ。

なので、普通に考えると裏切りフラグが揃っているような時でも(蒔苗は裏切られると思ったし、ガランモッサも裏切ると思った)、彼らは既存の人間関係の通りに行動する。そこにあるのは関係性の変わらなさ、思考停止だ。あらゆる勢力のあらゆる人物が、驚くくらいに思考停止している。

なまじ昭弘やガエリオなどサブキャラクターの周辺では人格の更新が起こる分、主要キャラクターの変わらなさ、成長しなさがさらに浮き彫りになっている。

この言い落としが意図するところを想像すると、こんな仮説が成り立つ。

「その人間が誰を信頼するかは偶然に属することで、意思決定や選択や、まして価値観の一致などというものではない」

そんな、シニカルで決定論的な世界観。正義の実行ではなく、ただの戦争、ただの闘争を描く。その意味で、オルフェンズはファーストの意志を継ぐ存在とも言えると思う。

人は理由なく簡単に死ぬし、全てを見通す英雄はいない。誰もが状況に翻弄されながら目の前の決断をする。それが集まって偶然的に悲喜劇が生み出される。

「ごろっと世界を提出して何を感じるかはお任せ」系の作品であるのは間違いないので読後感がクリアとは言い難いけれど、多くのものを引き出せる豊かな作品であると感じた。オルフェンズについてはもうしばらく考えてみたい。