葱と鴨。

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一度だけ弔辞を読んだことがある

一度だけ弔辞を読んだことがある。

父方の祖父の葬儀だった。他界した時点で80代半ばだったから、まあ大往生ということになるのだろう。祖父とは10代の数年間を一緒に暮らしたが、大学入学で私が東京へ移ってからは年に1、2度会うくらいの関係だった。それほど深い話をした記憶はない。

祖父の死の当日に連絡をもらったが何かの用事で通夜には間に合わず、葬儀の日の朝に東京をたった。いちど実家に寄って親や弟と合流し、サイズの合わない黒い服に着替えてタクシーで葬儀の会場へ向かう。ずっと暗い顔をしていたわけでもなく、車中では普通に近況などについて談笑していたような気がする。

母がタクシーによく知らないホールの名前を告げる。18歳まで暮らした町の、知らない地名。周囲を林に囲まれた白いホールに着くと、入口に見慣れた苗字が見慣れぬ筆文字で書かれていた。あれを見るのは2度目だ。

 

斎場についた私たちを見つけたのは祖父から見た娘、私にとっては叔母にあたる人だった。叔母はよくしゃべる明るい人で、少し目は赤かったが「遠くからありがとうね」と言う顔は笑っていた。

祖父の最後について少し話したあと、叔母はそのままの口調で「弔辞お願いね」と私に言った。そこは一親等の人の役目じゃないのと断っても「ああいうのは苦手だから、お願い」と譲らない。じゃんけんで決めようかと冗談で提案したら本当にじゃんけんになり、一回めで私が負けた。心からほっとした叔母の顔を見たらそれ以上ごねる気にもならなかった。

 

それから葬儀の間じゅう、私はずっと弔辞のことを考えていた。祖父の死そのものよりも、明らかに壇上で披露する作文に集中していた。始めの一言は何が効果的か、要素の順番はどうか、どこで間を取るか。頭の中で何度もリハーサルしては微調整を重ね、なんとか形が整った頃に斎場の進行係の人に私の名前が呼ばれた。

 

壇上に上がり、ほぼ暗記した文章を話しはじめようとした時、私はその日一番大きな悲しい気分の波に襲われた。何かしゃべると涙が出そうで、マイクの前で何度か深呼吸する。たぶん私は「今から悲しい話をする」というシチュエーションに酔っていたのだ。それでもどうにか気分を落ち着けると、リハーサル通りに頭の中の作文を読み上げた。

 

結果から言えば、私の弔辞は“好評”だった。ハンカチで顔を覆って肩を大きく上下させながら聞いていた叔母は、席へ戻った私の手を取ると「あんたに任せてよかった」と何度もうなずいた。

弟は「腕あるねぇ」と軽口を叩いたが、私は自分で作った陶酔感の余韻を引きずっていて、左腕をぽんぽんと2度たたいて見せるのが精いっぱいだった。

 

祖父が死んだのは何年も前だが、あの時話したことの半分くらいはまだ覚えている。いま思い出しても我ながら「よくできた弔辞」だと思う。

 

自分の作文が弔辞という思わぬ場面で有効に機能したことについて、私は明らかに達成感を感じていた。うまくやれたという誇らしい気持ちだった。

ただ同時に、後ろめたさも感じた。

仕事で身につけた文章技術を駆使して葬儀という場所で「うまいこと」を言おうとし、それが成功してしまったこと。その成功を誇らしく思ったこと。自分が演出した悲しい雰囲気に自分まで飲み込まれたこと。

弔事の中に嘘はひとつも入れていない。ただ少し言葉を選び、構成を組み立て、悲しい気分を強調するように、平たくいえば聞いた人が泣けるように演出しただけだ。

それのどこが後ろめたいのかと聞かれても私はクリアに答えることができない。誰かに責められる謂われもない。そもそも弔辞なんて大体そういう類のものだろう。

 

それでも親族の死を「作文スキルの披露場所」として利用した事実は、整理できない気持ち悪い記憶として今も私の中に残っている。