「平坦な戦場でぼくらが生き延びること」は2018年にも切実な問いか。~『リバーズエッジ』について~
岡崎京子の話を2018年にするのは難しいなと思う。
『リバーズエッジ』の連載がはじまったのは1993年で、つまり阪神大震災も地下鉄サリン事件も起こっていない、インターネットもない時代だ。
その時代に岡崎京子が描いた高校生たちにとって、最大の関心は「退屈」だった。
それっぽく言えば「終わりなき日常」に波風を立てたフリをして、味気ない現実になんとか飽きないようにしなきゃ、この世界にもう飽きてしまった自分から目を背けなきゃ、というのが彼女たちの切実な願いだった。
UFOでも呼ばなきゃやってられなかった
見開き一杯の「平坦な戦場で戦場でぼくらが生き延びること」という詩が有名だけど( 今ここで, 「平坦な戦場で僕らが生き延びること」で有名なWilliam Gibson "THE BELOVED...)、それと同じくらい、次の台詞も印象的だ。
「UFO呼んでみようよ、もう1回やってみようよ」
もちろん主人公は、UFOなんていないことを知っている。呼んだって来ない、日常にさざなみさえ立たないこともわかっている。
それでも、UFOでも呼ばずにはいられないぐらい退屈で、「ここではないどこか」につながる細い可能性を握り締めていたわけだ。
この感覚は、とてもとてもよく分かる。
私がリバーズエッジに触れたのは1995年よりずっと後だったけど、それでも「この日常がずっと続いていくんだな」っていう絶望感は、ある世代の人たちに確実に共有されていたと思う。
AKIRAにせよエヴァにせよ、「この退屈な日常を終わらせてくれるなら、悪魔でも何でもでて来やがれ」という気分が背景にはあったのだ。
退屈は、安全さゆえの贅沢な悩みだった?
でもじゃあ2018年の若者にとって「退屈」は切実な問題なのかと考えて、どうも違うような気がした。
もちろん今だって「何か面白いことないかなー」ぐらいは思うだろうけど、かといって「どうせ自分の人生なんて、会社はいって30ぐらいで結婚して、60過ぎで定年して普通に死ぬんだろうな」とは思わないだろう。
正確に言えば、そんな風には「思えない」はずだ。
90年代にあれほど忌避されていた「日常」はいつの間にか愛でる対象になり、「日常系」というカテゴリまでできた。日常系の元祖と言われる『あずまんが大王』は2002年の作品だ。
その後も、社会の先が読めない不安感はどんどん強まって、自分だけでも幸せに生きたい、というサバイバルな雰囲気は増している。
自分の人生の先行き不安が大きくなれば退屈とか言ってられなくなるし、「まぁ普通になんとかなるさ」という楽観の底が抜ければ、川原の死体やUFOより就職活動の方がずっと切実になる。
仮想通過と異世界転生は「一発逆転願望」
だから『リバーズエッジ』は2018年にはタイムリーじゃない。……と、さっきまでは思っていた。
ただ書いてるうちに、本当にそうだろうか? と疑問がわいてきてしまった。
確かに自己啓発は数年前まで大ブームだったし、非モテ・貧困という身も蓋もない実存の話題も注目度が高かった。
その空気の中では、退屈は「自分が為すべきことを見つけられない敗者の問題」だったのだろう。
でもちょっと立ち止まって考えると、自己啓発の空気も一段落したし、「退屈」は最近また存在感を増してるのかもしれない、と気づいた。
きっかけは仮想通貨と、異世界転生小説&漫画。
一見関係ないこの2つだけど、どちらのブームも「普通の方法ではもはや勝機が薄いので、一発逆転で勝者になりたい」という参加者・読者を多く抱えているからこそこれだけのサイズになった側面が否定できない。
つまり「この退屈な日常を破壊してくれる何か」への待望を、下地として持っている。そもそも異世界転生なんて、主人公が死なないと話が始まらないわけだし。
そう考えると日常の退屈さはまたじわじわと水位を上げていて、存在感を増している可能性もある。
ノスタルジーか、ケーススタディか
だから、2018年の『リバーズエッジ』は両義的な作品だ。
「今となっては贅沢な話だけどさ、あの時私たちは確かにこう思っていたんだよ」という気分を再確認するノスタルジーにもなりうるし、
「最近また存在感を増してきた退屈に対して、前回の当事者だった若者たちはこのように行動しました」というケーススタディにもなりうる。
2つの震災といくつものテロ、そしてリーマンショックやスマートフォンの普及を経た2018年に、『リバーズエッジ』がどんなメッセージとして読み替えられるのかが楽しみだ。
どんなアップデートがなされているのか、はたまた90年代の空気を呼び出すことに徹したのかを確認するためにも、映画はたぶん観に行くと思う。
ただ一個だけ見る前に文句を言っておくと、高校生役に24歳とか23歳を使うのはほんともうやめよう。
ゲームが目的から手段に変わる時代に
ゲームってどういうものだっけ、という話が最近よく話題になる。
だいたいどれも、元を辿れば1つの「変化」にたどり着くと思うので、その話をしてみたい。
結論から言ってしまうと、色んな問題のきっかけになっている変化は「ゲームが目的から、手段になりつつある」ということだ。
ふわっとした言葉なので、まず言葉の使い方を決めておこう。
目的としてのゲーム=ゲームをプレーすることそのものが目的
手段としてのゲーム=お金や人気を得るためにゲームを手段として使う
この2つを前提に、考えをスタートしよう。
ゲームが目的でしかありえなかった時代
ほんの10年くらい前まで、ゲームは目的でしかありえなかった。
どれだけゲームが上手くても仕事にはならないと思われていたし、クラスやゲームセンターのスターになれる要素は多少あったにせよ、ゲームをするのは「それが楽しいから」というのがほぼ唯一の動機だった。
なのでこの時期に始まったイベントは、ほぼ全てがコミュニティのボランティアで運営されていて、「ゲーマーファースト」なんて言葉が入る余地がないぐらい、全てがゲーマーのためなのは当たり前だった。というより、他に気を使う相手がいなかった。
この時期から知名度があったウメハラさんやときどさんたちの世代が今も人気がある理由の1つには、彼らが「自分たちと同じように、ゲームを好きで好きで仕方ない人」に見えたという要素があると思う。
それが仕事になるとかモテるとか、そういう目に見えるご褒美があるわけでもないのに人生の膨大な時間をつぎ込んでゲームに熱中してしまう、そういう業(ごう)を共有する仲間感、連帯感があったのだ。
ゲームが手段「としても」使えるようになったことの副作用
しかしこの状況は徐々に変化してきた。
eスポーツという言葉が広まり、動画や生放送の配信者の中からスターが出始めると、ゲームは手段としても使えるようになった。つまり、ゲームを使ってお金や人気を得ることができるようになった。
基本的に、それはとてもいいことだ。ゲームをプレーしたり、配信したり、取材することが仕事になるなんて最高だ。これは皮肉ではなくて、本当にそう思う。
ただここから、話はちょっと複雑になる。
ゲームが手段「としても」使えるようになっただけなら、一見それはゲームの可能性や選択肢が単純に増えただけで、何も失われてはいないように見える。
ゲームを手段として使う人がいるからといって、ゲームを目的としてプレーすることが邪魔されるわけではないし、ゲームをプレーする人がすぐに減るわけでもない。
eスポーツも配信も嫌なら関わらなければいいのだから、影響はないという主張は一見、正しい。
でも実際には、ゲームを手段として使う人の出現によって、失われたものが確実にある。
失われたのは、「ゲームの周りにいる人は全員、自分たちと同じようにゲームを好きで好きで仕方ない人である」という信頼感だ。
誰かを見た時に、「この人はゲームが好きな人なのか、それともゲームを使って何か別のものを手に入れたい人なのか」という疑問が生まれるようになった。
これは、ゲームを手段として使うことの直接的な副作用だ。
ゲームが手段になるのは基本的にいいことだ。でも
そういう私も、eスポーツの周りで仕事をすることがある。つまり、ゲームを手段として使うことがある側の人間だ。
自分の立場を正当化するつもりはないけれど、ゲームが手段と使えるようになったこと自体は、基本的にいいことだと思っている。
ゲームをするのが仕事になる、ゲームをするのを人が見てくれて承認される。繰り返しになるけれど、どちらも最高だ。ゲームを取材してゲームのことだけ考えて生活できたら、それだって最高だ。多くのゲーマーが夢見ていたことだと言ってもいい。
現実問題として、手段として使えるものを「使うな」というのも無理な話で、この流れ自体は避けられない。誰だってお金も承認も欲しいのだ。
ただ、ゲームを手段として使う立場を運よく与えられた人は、隅っこにいる私を含めて、その立場の危うさも認識する必要があると思う。
eスポーツもゲーム配信も、ゲーマーコミュニティの「この辺りにいる人は全員、ゲームが好きで好きで仕方ない人だよね」っていう信頼感を前提にして、その信頼感に甘えて成立している部分がある。
でもゲームを雑に手段として扱っていると、その信頼感という資産を食いつぶしてしまう。
今はまだ「ゲームが好きな人」の延長に見えていても、これから産業として大きくなればなるほど、そこに参入する人が「お金や承認のためにゲームを利用する人」に見えるリスクは上がっていく。
「みんなゲーム好きだから分かってくれるよね」とアマチュア大会の運営者が言うのと、それを仕事にしてる人が言うのはやっぱり意味が違う。
ゲームを手段として使うということは、ゲーマーコミュニティの信頼感に依存しながら、一方でその信頼感の土台だった「アマチュア感」に手を突っ込む行為だ。
プロ化も産業化も最高だし、もう止まらない。でも自分たちが何をしているかについては意識的な方がいいし、謙虚でいる必要があると思う。自戒を込めて。
物を捨てるのが怖くなる体験。~カオスラウンジ『百五〇年の孤独』感想~
カオスラウンジというアート集団が、『百五〇年の孤独』という展示をやっている。
とても射程の長い印象的な作品で、日常レベルでも「物を捨てるのが怖くなる」という変化があったので、その話をしてみたい。
まずこの展示を簡単に説明しよう。
江戸時代が終わって明治時代がはじまった、今から150年前の話。明治政府は神道を国の真ん中に置くために、仏教との区別をハッキリさせる「神仏分離令」というのを出した。
つまり、「これからは神道で行きますよ」+「神道と仏教は別ですよ」という2つのメッセージを同時に発信したことになる。
仏教はダメだと明言したわけではないけれど、まぁそういう空気だったんだと思う。忖度なのか、もっと明らかな示唆・指示があったのかはわからないけれど、ともあれ当時の人々は強烈な行動に出た。
廃仏毀釈、つまりお寺を燃やし、仏像や墓石を打ち壊す運動が起こったのだ。るろうに剣心で安慈和尚のお寺が燃えたやつ、と言うと想像しやすい人もいるだろうか。
しばらく後にほとんどの地域ではお寺の再建が進んだが、福島県いわき市の泉藩だった場所ではほとんど再建されず、仏教という文化自体がこの町から消えた。
死生観など、日本の価値観の一部を引き受けていた仏教文化が消えたことの影響は、150年たった今でも泉の町で見つけることができる。
この「復興の失敗」と、2011年に起きた東日本大震災からの「復興」をオーバーラップさせて実際に泉の町を歩いてみた時に、さて何が見えますか、という展示である。
公式の黒瀬陽平さんの導入文がとても良いのでオススメ(カオス*ラウンジ » Blog Archive » カオス*ラウンジ新芸術祭2017 市街劇「百五〇年の孤独」)
私の決断は150年後から見てどうか、という視点
ざっくりまとめると、『百五〇年の孤独』は、1868年の廃仏毀釈について2018年の自分がどう思うかという経験と、2011年の震災について自分がどう思っているかという経験を、2つ一緒に歴史の年表の中に置きなおすアートだったと言える。
「なんでお寺壊しちゃったんだろうね」という2018年の素朴な感想と、「当時の人はお寺なんかもういらないと思ったんだろうな」という150年前への想像が合わさると、「じゃあ今自分たちが必要か不要かを決めてるものは、150年後からどう見えるんだろう」という疑問に自然につながる。
でも150年前の人の気持ちが正確に想像できないように、多分150年後の人も、2018年の人の気持ちは想像できないはずだ。同じ時代の人のこともわからないのに、時代が変わってしまったらなおさらだ。
こうやって「誰にも思い出してもらえないものがあることを覚えておく」と実生活にどんな影響があるかというと、一番は物を捨てるのがちょっと怖くなった。
『百五〇年の孤独』の中で、150年前に想像力を飛ばすための重要な手掛かりは、誰かが明確な意思を持って保存したわけではなく、たまたまとしか言いようがない形で残っていた資料だ。
この偶然は、自分が捨てようとしているものについて、本当に捨てていいのか、決して取り戻せないぞ、と1回立ち止まらせる力がある。同行者の1人も帰りがけに「ミニマリストってよくないのかなぁ」と呟いていた。
これはルールや慣習についても同じで、「このルール本当になくしていいんだっけ」という感覚が植え付けられた気がする。
私は年賀状とか冠婚葬祭とかあらゆる伝統儀礼・慣習について大体やめちまえと思っているタイプの人間なのだけど、それでも「現時点で考えると普通にいらないという結論になるけど、それは150年後から見てもそうか」と考えると、ちょっと躊躇する。だって、いくら考えても150年後の人の価値観は想像すらできないから。
まぁ最終的には150年後の人の気分より自分の感覚を優先することになるんだけど、この躊躇の積み重ねは色んなところにじわっと影響があると思う。
でも同時に、何を壊したって日常は続くんだ、というのも印象深い。
泉町の人たちがいま仏教の不在で困ってはいないのだろうし、何より150年間続いてきた日常について「それはあの時歪んでしまった日常なんですよ」と説明するのは傲慢というものだ。本来、なんて言葉で歴史にifを持ち込むのはご法度で、実際に起こったことこそが「本来」なのだから。
広江礼威の漫画『BLACKLAGOON』には、こんなセリフがある。
「でも、そうはならなかった。ならなかったんだよ、ロック。だから、この話はここでお終いなんだ」
昔の話をするのは嫌われがちだけど
『百五〇年の孤独』がやった、いま起きていること(=震災)について考えるために歴史(=廃仏毀釈)を呼び出すというのは、言ってしまえば良くある手だ。
この方法はたとえ話みたいなもので、物事の本質や隠れた意味を、連想によって伝えられるメリットがある。
でも実は、対象の出来事が大きければ大きいほど、歴史を呼び出す方法は嫌われる。
その理由は簡単で、歴史を参考にするとはつまり「今起きているのは、よくあることだ」という認識に立つことでもあるからだ。
この嫌われ方も、やっぱり震災で想像するとわかりやすい。
「東日本大震災は○○のようなものだ」
この文章の○○に何をいれても、正直怒られそうな気がする。
「東日本大震災は東日本大震災であって、他の何とも全くちがう。それ以上でもそれ以下でもないんだ。わかったようなことを言うな」みたいな感じで。
ああ、書くのをためらうレベルで怒られそうな気配がするよ。
もちろん人は誰でも自分の人生という一度しかない体験を生きているわけで、その人生を揺るがした巨大な出来事を「よくあること」と言われるのは気分が悪いだろう。それはわかる。
でもやっぱり、ある角度で切り取った時に、過去の出来事と共通点があったり、参考になるケースは山ほどあるはずだ。
経験に学ぶのが愚者のすることだとまでは思わないけど、歴史に先行ケースを探すことの有効性は捨てがたい。
そして『百五〇年の孤独』は、その感覚を再現することに成功していると思う。
じゃあ、どうすればいいのさ
文化が滅びたというとつい廃墟みたいな風景を想像しがちだけど、文化というのはもっと静かに滅びるんだということが、泉町を歩くと感じられる。
そして文化はどこまでいっても文化でしかなくて、たとえ何かが滅びても、人の生活は全然普通に続いていくこともわかる。
だから『百五〇年の孤独』の感想は、言葉にすると浅ーいものになる。
「大きな決断をする時は、もう一回よく考えよう」ぐらいの感じにどうしてもなってしまう。これでは何も言っていない。
でも、「何も壊しちゃいけない、何も変えちゃいけない」という老害作戦とも、「未来がどうなるかなんてわからないんだから、今思ったことをやるしかないんじゃないの」という開き直りとも違う道は、結局その浅ーい感じの近くにしかないのかも、と今は思っている。
直接対決型のゲームとハイスコア型のゲーム。
「Awesome Games Done Quick」って見ましたか?
ゲームの最速クリアを競うRTA(リアルタイムアタック)というジャンルのイベントで、たとえば初代『スーパーマリオブラザーズ』を5分以下で8-4までクリアするような、そういうチャレンジをいろんなゲームでするイベントです。マリオはこんな感じ。
これ、自分がやったことのあるゲームだと最高に面白いんですよね。
「そこそんなスピードで駆け抜けられるのか!」とか
「そのショートカット知らない」とか
「こいつ強いんだよな…」からの「そんな倒し方が!」とか。
Twitchに過去も含めてアーカイブがあるので、思い入れのあるゲームだけでも見たら懐かしさ爆発すると思います。(https://www.twitch.tv/gamesdonequick/videos/all)
個人的にはアクションもいいけれど、ギレンの野望とかダビスタとかシミュレーションゲームが見たいですね。
で、ここから本題に入るのですが、スポーツには大きく分けて2種類あります。
直接対決型:サッカーとかバスケとかボクシングとか、相手と直接戦って勝敗をつける競技
ハイスコア型:100m走とかフィギュアとかゴルフとか、ハイスコア(やタイム)を競う競技
この2分類はゲームにも当てはまって、ほとんどのeスポーツタイトル(格ゲー、MOBA、FPS……)は直接対決型です。
というかリアルスポーツでも、ゴルフとか一部の例外を除いてプロ競技はほぼ直接対決型です。
それには理由があって、ハイスコア型は基本的に相手のプレーに介入できないので、戦略や駆け引きが入る余地が小さく、何回やっても強い方が勝つ単調な結果になりやすいからです。
ウサイン・ボルトの100m走はエキサイティングでも、野球みたいに年間140回も見たい人は少ないでしょう。
ゴルフは、コースが変わる(≒毎回ルールが変わる)という部分で新鮮さを確保している数少ない例ですね。
やっとゲームの話に戻ってきますが、RTA文化はまさにこのハイスコア型です。だから毎日見るには厳しいけど、年に1回のお祭りとして最高に盛り上がるわけです。そしてこのRTA文化、もうちょっと大きくする余地があると思っています。
さらに文脈を追加すると、世界的に見ても日本は、ハイスコア型競技の人気がめちゃくちゃ高い国でもあります。
世界中どこの大会でも、フィギュアの会場が日本人で埋まるというのは有名な話。
日本が世界的に強い競技ということもあるけれど、同時にたぶん国の性質として、こういう職人的な、努力が報われる感じがする競技が好きなんだと思います。「負けたけど自己ベスト」という状況が発生する競技でもあります。
逆に言えば、相手の長所をつぶし合うような駆け引きや戦術的要素が多いゲームは、世界の平均と比べると苦手な人が多いのかもしれません。
この話の落としどころは難しくって、
「うまくやればパズドラのプロは需要あるかも」っていう話でもあるし、「日本でRTAは伸びしろありそう」っていう話でもあります。全体的にいうと、eスポーツには現時点で見えてない形の可能性がまだまだあるってことです。
マインクラフトでお題を出して制限時間内に何かを作って、採点で勝負を決める形とかもあるかもしれません。
私自身は直接対決型のゲームばかりやってきたのですが、ハイスコア型にポテンシャルがあるのも事実だと思うので、誰かにその道を切り開いてほしいなぁと思っています。
さらに余談。
PUBGが日本で(も)流行った理由の1つに、このハイスコア型の成分があるんじゃないかと思っていて、PUBGの結果って「勝ちor負け」の二択じゃないんですよね。
それよりもむしろ「100人のうちで何位だったか」というスコアが意識されやすいゲームです。
PUBGでは「勝ったor負けた」の要素が薄まるかわりに、自分のパフォーマンスが「良かったor悪かった」という方に意識がいくので、結果がダメだった時のダメージが小さいんだと思います。
PUBGは本当にいろんな意味で特徴的なゲームなので、いつか1回まとめたいなー。
ディズニーは、完全に本気だ~『スターウォーズ/最後のジェダイ』感想~
ネタばれをおおいに含みます。ご注意ください。
『スターウォーズ/最後のジェダイ』は、ここ数年ディズニーが掲げていた「女性をエンパワーしよう」というキャンペーンをさらに一歩進めたものだった。
その方法は強烈で、どのくらいかというと、私はエヴァンゲリオン旧劇場版を思い出した。庵野秀明がアニメ映画の中にエヴァマニアとネット掲示板の実写映像を入れ込んでまでファン批判をした、アレである。その話をしてみようと思う。
旧来のファンに対する、明確な「NO」
ディズニーがルーカスフィルムを買収してスターウォーズの新三部作を作ることになったその第1作・エピソード7は、多くの女性を含む新しいファンを獲得すると同時に、旧来のファンから2つの意味で評判が悪かった。
1つが「おれたちのスターウォーズを返してくれ=前と違うことをやるな」
もう1つが「エピソード4や6の焼き直しじゃないか=前と同じことをやるな」
これを受けてディズニーが「オッケー、本気だすわ」と作ったのが『最後のジェダイ』。
もちろん彼らの決断は、スターウォーズのお約束を全力で破壊しにかかること。全編で「スターウォーズならこうなるよね」という予想がこれでもかと裏切られ続ける。ぱっと思いつくだけでも、
・エースパイロットの独断専行が、逆に被害を拡大する
・シリーズで何度も成功してきた少数での潜入ミッションが失敗する
・人探しはフォースの導きで見つかるはずなのに、見つからない
・探し人の代わりに見つけた悪人面の奴が、「実は善人でした(ランドなど)」とならずに普通に裏切る
・彼の呼称はコードブレーカー、つまりスターウォーズのコード=お約束を破す者
・ルークがレイの修行をしない
・伝統の建物を守る魚人たち(≒守旧派のファン)は、新時代の象徴であるレイを嫌う
・ルークが後生大事に守ってきたジェダイの伝説の文献があっさり燃える(『君の名は。』みたいだ)
・さらにヨーダにダメ押しで「古いものは乗り越えられるのが最後の仕事」と言わせる
・決めゼリフ「フォースとともにあらんことを」がカブる。しかもその後レイアは譲ってしまって言わない
・暗黒面側のボスが、あっけなく死ぬ
・三部作の2本目ではルーク、アナキンの右腕が切られたけど、レイは切られない
・何よりレイが、ルークの娘じゃなくて借金で困った親に捨てられた子!
「おれたちのスターウォーズを返してくれ」というファンに、正面切って「あなたたちのような過去にしがみつく人の相手はしない」と言ってのけたのだ。
伝統の中には、もちろんジェンダーロールも含まれる
そしてもちろん、男女の対比もふんだんに出てくる。
・ポー(男性)率いる攻撃隊が敵戦艦を撃墜するが、女性がその犠牲になる
・ホルド(女性)からポーがクーデターで指揮権を奪うが、レイア(女性)に撃たれて失敗する
・自爆特攻で敵の大型砲を止めようとするフィン(男性)は、ローズ(女性)に助けられる形で妨害されて失敗(その直前に、ホルド(女性)の自爆特攻は成功している)
・ジェダイの伝統に縛られ、戦場に居合わせることもできないルーク(男性)、そのルーク(=伝統の象徴)に執着し恐れるあまり彼の幻影相手に滑稽な一人相撲を取るレン(男性)。
・逆にルークのもとを颯爽と巣立って新しい道を歩き始めるレイ(女性)、伝統の価値とその限界を深く知るがゆえにその縛りから自由なヨーダ(無性)
他にも数え上げればキリがないくらいで、全体を通じて男性のヒロイズムが女性によって否定される場面が極めて多い。
特に冒頭の敵戦艦撃墜では、「これまでのスターウォーズの男性のヒロイズムが、そのコストを女性(弱い立場の人)に押し付けることで成立していた」ことが明示される。
それでも、『最後のジェダイ』には、女性の優遇ではなくあくまでも対等性、フェアネスを目指した痕跡も見られる。
男性からヒロイズムを取り上げて女性に配分すると同時に、ポーを撃つレイアや、 自爆特攻するホルド、ファルコンの銃座に嬉々として座るレイ、爆弾を落とす女性、敵勢力の女性オペレーターなど、手を汚す役目も女性に割り振っている。
これまでの男性のヒロイズムは女性から権力を取り上げる一方で、「最前線で戦うことの免除」という特権を与えて保護していた側面がある。
しかしディズニーは、女性を前線に引っ張り出して、権力と一緒にそれに伴う負担と責任も与えようとしている。
スターウォーズでやったからこそ
旧ファンの反論で大きいのは「フェミニズムは結構だが、勝手にやっててくれ。スターウォーズに触ってくれるな」というものだが、まさにそこにこそ、ディズニーがこのシリーズに山盛りのフェミニズムを投入した理由もある。
日本から想像する以上に、『スターウォーズ』はアメリカではいわば宗教であり、伝統芸能である。つまり多くのコード=お約束があり、熱狂的なファンコミュニティを持っている。
彼らはスターウォーズの最大の顧客であると同時に、エピソード4~6の「初期三部作至上主義」ゆえに最凶のクレーマー集団でもある。
第2次三部作で加えられたジャージャー・ビンクスや、1997年の特別編で加えられた変更に頑強に抵抗するファンの様子は、『ザ・ピープルvsジョージ・ルーカス』(ザ・ピープルVSジョージ・ルーカス - Wikipedia)というドキュメンタリー映画にまでなった。
たとえば、ハン・ソロが賞金稼ぎとテーブルを挟んで話し合いをしていたものの、決裂してソロが相手を撃ち殺すシーン。
元祖バージョンではソロが先制攻撃で銃を撃つが、特別編では賞金稼ぎが先に撃ち、それをかわしてソロが相手を撃ち抜く。つまりより正当防衛っぽい状況を作っている。
これに対して一部のファンが「ソロは必要とあらば目の前の相手を殺すことも厭わないアウトローであり、それこそが彼のアイデンティティであり魅力なので、この変更は認められない」と怒った、とかそういう話だ。
つまりスターウォーズは映画界の伝統主義の象徴みたいなところがあって、その本丸に直球で挑戦状を放り込んできたのだ。凄い。
【余談:もちろんこの作品に難癖をつけるのは実は簡単で、男性/女性という差別構造に焦点を絞った結果、史上もっとも宇宙人の存在感が薄いスターウォーズになっている。
本来ならホルドやローズ、またはコードブレーカーのあたりに宇宙人を当てるところだと思うけれど、たとえばホルドを宇宙人にすると「人類を守るために宇宙人が自爆特攻」というこれまたエグいことになるし、あてはめていったら宇宙人のポジションがなかったのかもしれない。
差別問題と戦う時は常に「どうして他の差別ではなくて、その差別に今フォーカスするのか」という、正解のない問い返しに直面するのは避けられないので(他の差別だって本当は同じくらい大切だから答えられない)、今回は人間/宇宙人という線引きには目をつぶることにした、というしかないのだ。】
差別主義の権化から、それと戦う存在に変わったディズニー
ディズニー社を作ったウォルト・ディズニーが強烈な人種差別主義者、女性差別主義者だったのは有名な話だ。
彼が作った作品の中で王子様とヒロインはいつだって美形の白人だったし、彼は死ぬまでディズニー社の幹部に黒人と女性を入れなかった。もちろん支持政党は共和党だ。
だから初期ディズニー作品では、『白雪姫』も『シンデレラ』も『眠れる森の美女』も、女性は能動的なアクションをほとんど起こさず、王子様に選ばれるのを待っている。
眠れる森の美女のオーロラ姫にいたっては、森で寝てるだけ。というかこの話の原作は、オーロラ姫が何をしても起きないのをいいことにレイプされて妊娠するという、悪質な大学サークルかと勘違いするような話だ。よくそんなの原作にして子供向けの映画作ったな……。
という時代もさすがに終わり、『アラジン』あたりから人種的にはだいぶ平等が近づいてきた。そして2010年以降、ディズニーは男女差別に本気だ。
それまでディズニー自身が広めてきた「女の幸せは王子様に見初められ、結ばれること」というテンプレに、今度は一転して戦いを挑みはじめた。
男性との恋愛よりも姉妹愛・自己実現を優先させた『アナと雪の女王』が有名だけど、他にも『塔の上のラプンツェル』や『ズートピア』、実写版でも『イントゥザウッズ』や『マレフィセント』のような、能動的な女性をかっこよく描く作品が目立って増えてくる。
フェミニズムのアイコン的存在であるアンジョリーナ・ジョリーやエマ・ワトソンを起用するのも当然だ。
トランプ大統領の影を見るのはやりすぎ?
『スターウォーズ/最後のジェダイ』も、もちろんその流れの中にある。
そしてこのタイミングで男女差別から一歩踏み込んで、血統主義、伝統主義に挑戦を仕掛けたのは、たぶん大きく言えばトランプ大統領の影響もあると思う。
「Make America Great Again」なんて、そのまんま過去にこそ栄光があったという話で、世界を見渡しても伝統回帰や他民族排除の空気は広がっていて、ディズニー的には戦いどころだったということかなぁと想像する。
「未来が明るいことを信じる」というのはベイマックスの時にも感じた彼らの身振りで、それを貫くのなら進歩主義の旗は降ろせない。
とはいえ「スターウォーズらしい」部分も随所に残っていて、現代にも通用するいいところは残したいと思っているのも伝わってくる。
監督のJJエイブラムスはエピソード4を人生のベスト何本かに選ぶほどの筋金入りのスターウォーズファンなのだから、当然といえば当然だけど。
ということで、第1作の公開からちょうど40年後にできた『スターウォーズ/最後のジェダイ』は、40年分のアップデートを一気に詰め込んだエポックメイキングな作品になった。
エピソード7の時点では「まぁ8も9も大体想像はつくよね。観るけど」という温度だったのだけど、これを見せられた後では、9がどうなるのか全く想像がつかなくなってしまった。
その意味でも、本当にスペシャルな一本だったと思う。
あと、ポーグかわいい。
2017年に書いたもの
そんなに本数があるわけでもないのだけど、一覧で見られる場所がなくて自分でも不便だったので。
【League of Legend Japan League(LJL)】
Summer
YutoriMoyasiは、LJLを背負ってWCSに向かうのだ。
Broooock「エースはRokenia。でも僕にしかできないこともある」
苦しむBC、AstaroreとZerostが手に入れたいものは。
「実は僕の本性はかなり...」Ramuneが明かす“裏の顔”
Spring
実況でお伝えする、Spring Split Final 2時間後のRPG控え室
YutoriMoyasi & DaraがBotで育むコンビ愛
【SHIBUYA GAME】
LoLサークルに入る理由が「彼女がほしい」でもいいですか? ライアットゲームズ・LeagueU担当者に聞いてみた。
LoLサークルの学生たちに、ライアット「LeagueU」の担当者が伝えたいこと
【Number Web】
鳥栖戦の前にサッカーゲーム大会?クラブ社長が語ったeスポーツ戦略。
LoL日本代表「僕らが活躍すれば」eスポーツの命運を握る若きチーム。
プロゲーマーが日の丸を背負う時代。LoLトップ選手と“ゲームの代表戦”。
「1回目」のハードルが凄まじく低い。eスポーツはITとスポーツの申し子だ。
何度目かの「eスポーツ元年」到来。日本一を決める大会で感じた前進。
Twitchがゲーマー文化をすっかり塗りかえてしまう前に
100人のゲーマーがいるとする。
(1) 1人がゲームをプレーし、99人がその配信を見ている。
(2) 100人がゲームをプレーし、中には配信している人もいるが、視聴者は0人。
2つの状況のうち、「ゲーマー文化」にとって望ましいのはどっちだろうか。
ゲーマー文化が、ゲーマー=つまりゲームをプレーする人を中心とした文化だと考えると、基本的にはプレーヤーが多くいることこそが何よりも大切な要素なのだと思う。
でも実はTwitchをはじめとするゲーム配信サービスにとっては、この二択は難しい。配信の視聴者に広告を表示することで対価を得ている以上、ビジネスモデルの必然として彼らは(1)を選ばざるを得ない。
このズレがどんな結末をもたらすか、という話をしてみたい。
最初に自分の立場を表明しておくと、スマホにはTwitchとOPENRECをダウンロードしていて、LoLやHSやスト5の大会配信はもちろん、他タイトルも含めて個人配信もちょいちょい見ている。自分で配信はしていない。
ヘビーユーザーっていうほどではないけど、まぁ使ってる方だと思う。
だからもちろんTwitchを敵視してるわけじゃなくて、むしろ好きだし、なんなら最強のサービスだと思っている。
Twitchは確実にゲーマー文化を次の時代へ進めたし、ゲームを視聴する文化を作った功労者なのもたしかだ。
そう、Twitchはあまりにもサービスとして強い。
でも強すぎて、そして文化を塗りかえるスピードが速すぎて、「ゲーマー文化」を成立させていた要素のいくつかを掘り崩しはじめている。
Twitch自身にも、この流れは止められない
たとえば、昔なら1人でも延々とゲームをプレーしていたのに、徐々に配信を視聴するだけで満足するようになってプレー時間が減った人は多いだろう。
そこまでいかなくても、配信の上級者や人気者と自分を比べて劣等感を感じたり、自分でゲームをプレーするモチベーションが落ちた経験をした人はかなりの数いるはずだ。
配信をする人の視線で考えると、次にプレーするゲームを選ぶ時に、配信で視聴者が増えやすい、つまりインスタ映えならぬ「Twitch映え」しやすいゲームを選んだ人は結構いるはずだ。
あとは、ゲームをプレーすること自体が楽しいのか、それを人に見てもらって承認欲求が満たされることが嬉しいのかの区別が難しくなった人も絶対にいると思う。それが進めば、「配信外でゲームするのは無駄」と感じる人すらいるかもしれない。配信でお金まで手に入っちゃったらなおさらだ。
ただ、この流れを止めるのは不可能だと思う。
ゲーマーの欲求と視聴者の欲求を結びつける形ですでに配信文化は成立していて、もしTwitchが「ゲーマー文化の土台を掘り崩してしまう可能性があるので、進化のスピードを緩めましょう」と言ったとしても、YouTubeLiveやOPENRECがその横を走り抜けていくだけだからだ。
もちろん、トルネコの大冒険を4000回遊ぶ人(“1000回遊べるRPG”を4000回遊んだ男 「SFCトルネコの大冒険」に挑み続けるプレイヤーが語る「不思議のダンジョンには、まだ不思議がある」 - エキサイトニュース(1/12))はこれからも存在するだろうけれど、ほとんどのゲーマーは、多かれ少なかれこの影響を避けられない。
つまりTwitch自身にも、今の流れを止めることはできないのだ。
Twitchはゲーマーの味方であろうとしているけれど
それに、これまでゲーマー文化に寄り添い、共に歩こうとしてきたTwitchがゲーム配信最大手である世界の方が、YouTubeLiveが最大手になった世界よりよほどゲーマーに優しい世界だとも思う。
私個人としては、実はTwitchがゲーマーを尊重する意志について信頼していて、彼らは本気でゲーマー文化を大切にしていると思っている。
Twitchのビジネスモデルが必要としているのが、究極的にはゲーマーではなく視聴者(広告を見る人)だとしても、それゆえにゲーム以外の食事風景やビデオチャットチャンネルを作ったとしても、(動画配信サーヴィスのTwitchは、「ゲーム専門」から「オープンな公園」へと生まれ変わった|WIRED.jp)
彼らがゲーマーの数自体を増やそうとしていることもまた事実で、ゲーマーの人生を豊かにしたいと願っているのも嘘ではないだろう。たしかに、Twitchはゲーマーの味方であろうとし続けている。
でも残念ながら、意志と結果が同じとは限らない。Twitchという強すぎるサービスはものすごいスピードでゲーマー文化を塗りかえていて、その結末は彼ら自身を含めて誰にもまだ予測できていないのだ。
Twitchがゲーマー文化の救世主になる可能性もあるけれど、結果的に死神になってしまう可能性も余裕である。
大多数が「見る専」になる未来は楽しいか
もしこのゲーマー文化の進化の先にあるのが、野球やサッカーのような「少数の人がプレーするのを大多数の人が『見る専』として視聴する」形だとしたら、それはあんまり楽しくない未来だと思う。「見る専」はもちろんゲーマー文化の大切な一部だけど、真ん中にはやっぱりプレーヤーがいないと始まらない。
地位と名誉で惹きつけてプロになりたい人を集めて、プロを諦めた人から脱落していく、なんていうのはゲーマー文化とは程遠い。何歳までだって遊んでいられるのは、ゲーマー文化のいいところの1つなはずだ。
だから実はこれは、Twitchや配信文化の問題であると同時に、eスポーツの問題でもあったりする。
じゃあ配信文化によるゲーマー文化の塗りかえが加速する中で、何かできることはあるだろうか。
ある、と思う。
C4をはじめとするLANパーティーは「ゲームしよう」というメッセージを全力で発信しているし、そんな大規模じゃなくても、ゲーマー文化の中で守る価値がある部分を探して、Twitchがすべてをハックしきってしまう前に救出する方法を探すことだってできるかもしれない。
少なくとも、配信文化がゲーマー文化を塗り替えつつあることに多くの人が気づくだけでも結構変わりそうだ。
ゲーマー文化がすっかり塗りかえられた後に、「こんなはずじゃなかった」とゲーマーとTwitchが一緒に頭を抱えるのは、誰にとっても幸せじゃないのだから。
ここからは余談。世界で最も観客を集めるサッカークラブのCEOが、こんなことを言っている。(ドルトムントCEOが語った経営と愛。「日本人はそう思わないんですか?」 - 海外サッカー - Number Web - ナンバー)
「サッカーをプレーすることはサッカーを観ることよりも素晴らしい。サッカーの素晴らしさはプレーすることにあるのです。問題は時間に限りがあることです。私はもう経験しました。いつかプレーできなくなるときが来ます。どこかをケガして。その時、自らがプレーできることの素晴らしさを知るのです。この気持ちは誰にも説明できません」
巨大ビジネスになり、観客を動員することで富を得るサッカークラブのトップが、「プレーすることは観ることよりも素晴らしい」と言うのは、考えてみれば不思議な話だ。
もちろん彼のゲームへの偏見には同意しかねるけれど、プレーと視聴の関係についての価値観は、現在のゲームを取り巻く環境にもあてはまる部分があると思う。