2017年に書いたもの
そんなに本数があるわけでもないのだけど、一覧で見られる場所がなくて自分でも不便だったので。
【League of Legend Japan League(LJL)】
Summer
YutoriMoyasiは、LJLを背負ってWCSに向かうのだ。
Broooock「エースはRokenia。でも僕にしかできないこともある」
苦しむBC、AstaroreとZerostが手に入れたいものは。
「実は僕の本性はかなり...」Ramuneが明かす“裏の顔”
Spring
実況でお伝えする、Spring Split Final 2時間後のRPG控え室
YutoriMoyasi & DaraがBotで育むコンビ愛
【SHIBUYA GAME】
LoLサークルに入る理由が「彼女がほしい」でもいいですか? ライアットゲームズ・LeagueU担当者に聞いてみた。
LoLサークルの学生たちに、ライアット「LeagueU」の担当者が伝えたいこと
【Number Web】
鳥栖戦の前にサッカーゲーム大会?クラブ社長が語ったeスポーツ戦略。
LoL日本代表「僕らが活躍すれば」eスポーツの命運を握る若きチーム。
プロゲーマーが日の丸を背負う時代。LoLトップ選手と“ゲームの代表戦”。
「1回目」のハードルが凄まじく低い。eスポーツはITとスポーツの申し子だ。
何度目かの「eスポーツ元年」到来。日本一を決める大会で感じた前進。
Twitchがゲーマー文化をすっかり塗りかえてしまう前に
100人のゲーマーがいるとする。
(1) 1人がゲームをプレーし、99人がその配信を見ている。
(2) 100人がゲームをプレーし、中には配信している人もいるが、視聴者は0人。
2つの状況のうち、「ゲーマー文化」にとって望ましいのはどっちだろうか。
ゲーマー文化が、ゲーマー=つまりゲームをプレーする人を中心とした文化だと考えると、基本的にはプレーヤーが多くいることこそが何よりも大切な要素なのだと思う。
でも実はTwitchをはじめとするゲーム配信サービスにとっては、この二択は難しい。配信の視聴者に広告を表示することで対価を得ている以上、ビジネスモデルの必然として彼らは(1)を選ばざるを得ない。
このズレがどんな結末をもたらすか、という話をしてみたい。
最初に自分の立場を表明しておくと、スマホにはTwitchとOPENRECをダウンロードしていて、LoLやHSやスト5の大会配信はもちろん、他タイトルも含めて個人配信もちょいちょい見ている。自分で配信はしていない。
ヘビーユーザーっていうほどではないけど、まぁ使ってる方だと思う。
だからもちろんTwitchを敵視してるわけじゃなくて、むしろ好きだし、なんなら最強のサービスだと思っている。
Twitchは確実にゲーマー文化を次の時代へ進めたし、ゲームを視聴する文化を作った功労者なのもたしかだ。
そう、Twitchはあまりにもサービスとして強い。
でも強すぎて、そして文化を塗りかえるスピードが速すぎて、「ゲーマー文化」を成立させていた要素のいくつかを掘り崩しはじめている。
Twitch自身にも、この流れは止められない
たとえば、昔なら1人でも延々とゲームをプレーしていたのに、徐々に配信を視聴するだけで満足するようになってプレー時間が減った人は多いだろう。
そこまでいかなくても、配信の上級者や人気者と自分を比べて劣等感を感じたり、自分でゲームをプレーするモチベーションが落ちた経験をした人はかなりの数いるはずだ。
配信をする人の視線で考えると、次にプレーするゲームを選ぶ時に、配信で視聴者が増えやすい、つまりインスタ映えならぬ「Twitch映え」しやすいゲームを選んだ人は結構いるはずだ。
あとは、ゲームをプレーすること自体が楽しいのか、それを人に見てもらって承認欲求が満たされることが嬉しいのかの区別が難しくなった人も絶対にいると思う。それが進めば、「配信外でゲームするのは無駄」と感じる人すらいるかもしれない。配信でお金まで手に入っちゃったらなおさらだ。
ただ、この流れを止めるのは不可能だと思う。
ゲーマーの欲求と視聴者の欲求を結びつける形ですでに配信文化は成立していて、もしTwitchが「ゲーマー文化の土台を掘り崩してしまう可能性があるので、進化のスピードを緩めましょう」と言ったとしても、YouTubeLiveやOPENRECがその横を走り抜けていくだけだからだ。
もちろん、トルネコの大冒険を4000回遊ぶ人(“1000回遊べるRPG”を4000回遊んだ男 「SFCトルネコの大冒険」に挑み続けるプレイヤーが語る「不思議のダンジョンには、まだ不思議がある」 - エキサイトニュース(1/12))はこれからも存在するだろうけれど、ほとんどのゲーマーは、多かれ少なかれこの影響を避けられない。
つまりTwitch自身にも、今の流れを止めることはできないのだ。
Twitchはゲーマーの味方であろうとしているけれど
それに、これまでゲーマー文化に寄り添い、共に歩こうとしてきたTwitchがゲーム配信最大手である世界の方が、YouTubeLiveが最大手になった世界よりよほどゲーマーに優しい世界だとも思う。
私個人としては、実はTwitchがゲーマーを尊重する意志について信頼していて、彼らは本気でゲーマー文化を大切にしていると思っている。
Twitchのビジネスモデルが必要としているのが、究極的にはゲーマーではなく視聴者(広告を見る人)だとしても、それゆえにゲーム以外の食事風景やビデオチャットチャンネルを作ったとしても、(動画配信サーヴィスのTwitchは、「ゲーム専門」から「オープンな公園」へと生まれ変わった|WIRED.jp)
彼らがゲーマーの数自体を増やそうとしていることもまた事実で、ゲーマーの人生を豊かにしたいと願っているのも嘘ではないだろう。たしかに、Twitchはゲーマーの味方であろうとし続けている。
でも残念ながら、意志と結果が同じとは限らない。Twitchという強すぎるサービスはものすごいスピードでゲーマー文化を塗りかえていて、その結末は彼ら自身を含めて誰にもまだ予測できていないのだ。
Twitchがゲーマー文化の救世主になる可能性もあるけれど、結果的に死神になってしまう可能性も余裕である。
大多数が「見る専」になる未来は楽しいか
もしこのゲーマー文化の進化の先にあるのが、野球やサッカーのような「少数の人がプレーするのを大多数の人が『見る専』として視聴する」形だとしたら、それはあんまり楽しくない未来だと思う。「見る専」はもちろんゲーマー文化の大切な一部だけど、真ん中にはやっぱりプレーヤーがいないと始まらない。
地位と名誉で惹きつけてプロになりたい人を集めて、プロを諦めた人から脱落していく、なんていうのはゲーマー文化とは程遠い。何歳までだって遊んでいられるのは、ゲーマー文化のいいところの1つなはずだ。
だから実はこれは、Twitchや配信文化の問題であると同時に、eスポーツの問題でもあったりする。
じゃあ配信文化によるゲーマー文化の塗りかえが加速する中で、何かできることはあるだろうか。
ある、と思う。
C4をはじめとするLANパーティーは「ゲームしよう」というメッセージを全力で発信しているし、そんな大規模じゃなくても、ゲーマー文化の中で守る価値がある部分を探して、Twitchがすべてをハックしきってしまう前に救出する方法を探すことだってできるかもしれない。
少なくとも、配信文化がゲーマー文化を塗り替えつつあることに多くの人が気づくだけでも結構変わりそうだ。
ゲーマー文化がすっかり塗りかえられた後に、「こんなはずじゃなかった」とゲーマーとTwitchが一緒に頭を抱えるのは、誰にとっても幸せじゃないのだから。
ここからは余談。世界で最も観客を集めるサッカークラブのCEOが、こんなことを言っている。(ドルトムントCEOが語った経営と愛。「日本人はそう思わないんですか?」 - 海外サッカー - Number Web - ナンバー)
「サッカーをプレーすることはサッカーを観ることよりも素晴らしい。サッカーの素晴らしさはプレーすることにあるのです。問題は時間に限りがあることです。私はもう経験しました。いつかプレーできなくなるときが来ます。どこかをケガして。その時、自らがプレーできることの素晴らしさを知るのです。この気持ちは誰にも説明できません」
巨大ビジネスになり、観客を動員することで富を得るサッカークラブのトップが、「プレーすることは観ることよりも素晴らしい」と言うのは、考えてみれば不思議な話だ。
もちろん彼のゲームへの偏見には同意しかねるけれど、プレーと視聴の関係についての価値観は、現在のゲームを取り巻く環境にもあてはまる部分があると思う。
プロゲーマーのライセンス制度が炎上したのは名前のせい
プロゲーマーライセンス制度、炎上しています。
スト5で活躍するももちさんに「なぜ新設される予定の団体に“プロを定義する”資格があるのか」とまっとうな指摘をされ、(日本国内におけるプロゲーマーのライセンス制度について | 株式会社 忍ism(シノビズム))
DETONATORの江尻勝さんに「なぜここまで現場の声に耳を傾けずに進めるのか」と皮肉られています。(【コラム】”業界に思う事と未来”DETONATOR代表 江尻 | DeToNator Pro Gaming Team)
この強い反発の理由として、名前の問題が結構大きいんじゃないかと思ってます。
これが例えば「日本eスポーツ団体公認 eアスリートライセンス」だったら、たぶんそこまで燃えてないと思うんです。せいぜい「どうぞ好きにやれば。こっちはこっちで好きにやるよ」ぐらいで済んだんじゃないかな、と。
Jリーグ機構がJクラブの資格を認定するように、eスポーツの新団体が自分の組織に所属するチームやメンバーのライセンスを発行したって、それは外側にいる人にとっては関係ないことですから。
だけど「プロゲーマー」というかなり広い範囲を指し、すでにその肩書を名乗っている人がいる一般名詞を使ってしまった。ももちさんの言うように、勝手にプロを定義する資格なんて誰にもないのに、です。
そんなことしたら、「じゃあそのライセンスがなきゃプロじゃないの?」「っていうかもうプロ活動してるんだけど?」という反応が来るのは彼らだってわかっていたはずだけど、「プロゲーマー」という言葉の一般認知度を優先してしまった。
でも大体、League of Legendsの選手も入っていない状態で「プロゲーマー」を包括しようだなんてどだい無理があるわけです。
なので普通に考えれば、実際に制度ができる時には「プロゲーマー」という大きすぎる言葉ではなくて、うちの団体の公認だよっていうことを伝える「公認eアスリート」的な控えめな名前になるんじゃないかと予想しています。
この状況で「プロゲーマー」という名称を認知度優先で起用するとしたら、それは結構パワープレーですよね。
ライセンス制度自体は、そこまで悪い試みでもないはず
それとは別に、個人的にはライセンス制度の第一報を聞いた時に思ったのは、「スポンサーへの説得材料」としてライセンスを必要としている人がいるのだろう、ということでした。オリンピックについても大体同じ感覚です。
ライセンスを発行したから、オリンピック種目になったからという理由だけでeスポーツが日本で爆発的に流行ることはありません。
でも「それっぽい組織が発行するプロライセンスが存在し、ある選手がその資格を持っていること」や、「ある選手がオリンピックに出場すること」は、その選手をスポンサードするか迷っている企業の決定権者がOKを出す理由としては、そこそこ意味がある。
他にも新しくeスポーツ業界に投資したり参入しようとする個人・企業にとってみれば、ライセンスを持った選手を起用すれば「最低限の」保証になる。少なくとも、酷い詐欺にあうようなリスクは下がる。
なので、新しくできる団体の主導権争いとか、まともに運用できるのかとかの心配を脇におけば、ライセンス制度自体は別に悪い制度じゃないと感じました。この第一感は、実は今もそんなに変わってません。
ただ、ももちさんや江尻さん、他にもかずのこさんなど第一線の方々が反発を隠さないのを見ると、今回の発表にはやっぱりだいぶ無理があったんだろうと思うようになりました。
バスケットボールの協会が結局外部の力を借りずには合流できなかったことを考えれば、eスポーツの各団体が合流に向けて動き出していること自体は歓迎していい事態だと思います。
teruyastarさんが調べているように(プロゲーマーライセンスを発行する人達は一体何者なのか? - teruyastarはかく語りき)、団体の中の人たちは別に邪悪な思惑で動いているわけでもないでしょうし(たぶん)、ライセンス制度を含めて新団体がいい形に落ち着くことを願っています。
虚淵殺すにゃ刃物はいらぬ、大手の配給つけりゃいい。~『GODZILLA 怪獣惑星』感想~
『GODZILLA 怪獣惑星』を観てきた。アニゴジ、というやつだ。
何かを観にいった映画館で予告編が始まった時は「ゴジラのアニメ化かー」ぐらいに思ったのだけど、脚本・虚淵玄という文字に目が止まって観にいくことにした。
ただ残念ながら、アニメ版ゴジラはとても凡庸な作品だったと言わざるをえない。
一言で「虚淵殺すにゃ刃物はいらぬ、大手の配給つけりゃいい」だった。
虚淵玄という人は基本的にヒューマンな人だ。
本人がいつかのインタビューで答えた「心温まる物語を書きたい」という発言は嘘でもポーズでもなんでもなくて、完全に本音だと思う。
その表れとして、これまでの虚淵玄作品はたとえそれがR18のPCゲームであろうと、深夜アニメであろうと、東宝や東映がついた劇場作品であろうと、テーマ・関心は一貫して同じものだ。一言でいえば
「人は何のために生き、何のために死に、その目的のためならばどんな非道な選択肢すら選び取ってしまうのか」
というような表現になると思う。
つまりまとっているイメージとは裏腹に、虚淵玄のテーマ設定は驚くほど普遍的でヒューマンで、そこに特別さや鬼才性はまったくない。
では何が彼を特別たらしめているかというと、「生きる目的」や「非道な選択肢」の部分にエロやグロを含むディティールを配置することで、キャラクターを過酷な選択に直面させる能力が図抜けて高いのだ。
PCゲームについては詳しくないのだけど、『まどマギ』でも『サイコパス』でも『Fate』でも、虚淵玄は視聴者が「そんなエグい選択をキャラに強いるのはやめてくれ」と叫びたくなるシチュエーションを作り出し、物語に独特の強度を与えてきた。その苛烈さは、中毒性すら帯びている。
ただそれができたのは、作品が深夜アニメやPCゲームであり、マスを狙う必要がなかったからだとも言える。
そして皮肉にも、マスを狙わないことによって虚淵玄のセンスが存分に発揮され、普遍的なテーマと相まって結果的に多くの人に届く作品になったわけだ。
ところが『楽園追放』やアニメ版ゴジラのような「大手の配給がついてある程度の興行収入が求められる作品」では、虚淵玄といえどエロも、グロも、非道なシチュエーションも、不都合な結末も使うことができない。
つまり全ての得意技を封印されたうえで、普遍的なテーマと向き合うことになる。
「人は何のために生き、そのために何を犠牲にできるのか」というテーマ自体は汎用性が高いので、どんな作品でもどんな縛りがあっても、破綻のない脚本を作り上げる能力をプロフェッショナルとしての彼は持っている。
ただその結果として、虚淵玄である必要が薄い普通の作品ができあがってしまうのだ。
それでも『楽園追放』には、虚淵玄のSF的な趣味が見て取れて楽しかった。無限の時間の過ごし方、人と無機物の相互理解、というのはSFにとって正統のテーマで、それに彼なりの答えを出して見せていた。「仁義」というキーワードもそれなりに効いていた。
ただアニメ版ゴジラは、本当に何もなかった。考え直しても、思い出されるのは小野大輔のセリフぐらいしか褒めるところがない。
本当に残念だ。
もちろん虚淵玄自身が、普遍的なテーマを普遍的な描き方で書ける人になりたい、つまり「おれだって新海誠になりたい」という願望を捨てきれないのなら、この展開は仕方がない。
ただ名前に集客力がついたことで大手配給の作品に呼ばれるようになり、とはいえ庵野秀明ほど好き勝手に自分の意志を作品に反映できないぐらいの立場ならば、一度メジャー作品から手を引いて自分の能力をフルに発揮できる場所で活躍する、というのもアリだと思う。というより個人的にはぜひそうして欲しい
言うまでもなく『まどマギ』も『サイコパス』も『Fate』も素晴らしかったし、虚淵玄が作るギミックによって普遍的な問いは何度でも形を変えて甦ると思うからだ。
あとこれは余談だけど、この映画を観て「虚淵絶対に許さない」とか「さすが虚淵」っていうのは伝統芸能、定型コメントだとしてもさすがに厳しいかなぁと思った。
1800円払ったのだからそれぐらい言って盛り上がりでもしないと損した気分になる、という言い分もわかるのだけど、それにしたってアニメ版ゴジラは虚淵玄の傑作じゃないし、佳作にも入れづらい。
BLへの期待を手放すまで
BLが趣味の1つだった時期、というのがある。
乙女ロードで時に怪訝な表情をされ、時には露骨に煙たがられながら漫画を探していたのも今となってはいい思い出だ。
私がBLを好きになっていった理由は「男らしさ、女らしさが息苦しかったから」だ。たぶん、割とメジャーな理由だと思う。
一応百合も似たような文脈で気にはなっていたけれど、女性を性的な記号として扱うのは直球で男性社会の振舞いだよなぁと思ったのか、BLほどは過剰な意味付けをしなかった気がする。
BLは基本的に男性×男性の世界なので、必然的に「優しさ」「強引」「受け身」「繊細」とかそういう性質を全て男性同士で割り振ることになる。そして、その全てが基本的には肯定される。
つまり「男らしくない男」が肯定される世界に見えたのだ。「男らしさ」を押し付けられることが苦しかった人間には、この世界は楽園に見えた。
でも、今の私は以前ほどBLに期待していない。
理由はこれまた簡単で、BLの世界も男らしさ、女らしさから全く自由ではなかったからだ。
もちろん例外は多くあるけれど、基本的には既存の「男らしさ」「女らしさ」を配分、あてはめるケースが多いことに、すぐに気がついてしまった。
そうすると、これはキツイ。
見たまんま男尊女卑のオジサンに対応することは、一通りできるようになった。遭遇機会も多いし、相手が使っているコードもわかりやすいから。同調しすぎず、かと言って相手を不快にもしない程度の対応、というのは働くようになって割とすぐ身に着いた。最初からガードを上げておけばいいのなら、それはそれで簡単だ。
ただBLについては、その人や作品が既存の男らしさ・女らしさを解体したい側なのか、むしろその体制が維持されないと萌えを発声させられなくて困る側なのか、を最初に見極めないといけない分疲れる。しかもほとんど場合、驚くほどその男女観はレトロで保守的だった。
だから自然と、BLを手に取る機会は減っていった。
この推移から「女の敵は女だ」なんて結論を導くのはさすがに安直すぎる。いつだって男女観に縛られたくないと思う人の敵は、それが男であれ女であれ、男女観で人を縛りたい人でしかないのだから。
また別の場所で、男性同性愛者の世界では、「男役」「女役」がそれぞれのらしさをとても忠実に演じようとするという話も聞いたことがある。既存の男らしさ、女らしさの重力は、そこから離れた人間にとってこそ強く働く、という意味では似た話なんだと思う。
日本のeスポーツにヤンキー化以外の道はあるんだろうか
日本のeスポーツシーンについてずっと気になっていることがあるので、その話。
たとえばこんな場面、見たことありませんか。
観客を煽ってコール&レスポンスをする
会場の端から端へウェーブを作る
試合の合間の時間にHIPHOPのライブが入る
司会者が外見、ノリともにクラブDJ
もちろん、どれも別に悪いことではないんですよ。
会場の「盛り上がってる感」ってやっぱり運営側としては成功のバロメーターの1つだし、足を運んだ人にとっても、一体感とかそういうオフライン特有の雰囲気は特別な体験として記憶されやすいものだと思います。
ただ何度か居合わせた人間として感じるのは、客層とちょっと距離があるのでは……というところで、要は「そういうのいいから」と思ってるお客さんが多そう、ということです。
やっぱりeスポーツのファンとか視聴者ってゲーマーであることが多くて、ヤンキーというよりはナード、体育会系というよりは文化系なんですよ。
その彼らに、野球やサッカーの応援団と同じ振る舞いを要求するのが本当にいいことなのか、ちょっとわからないんですよね。
でも今のヤンキー型のスタイルにも当然理由があって、特にサイバーエージェントグループのRAGEとか、レッドブルの5Gとかでこの傾向は強いんです。で、その背景には、
「日本では、ヤンキー層に浸透しないものは大規模化しない」
という日本市場についての知見があるんじゃないかなーと想像してます。
特にサイバーは、格闘技イベントRIZINをほぼ一社で買いきってコア層というよりはライト層向けの対戦カードを揃えたうえで、そこにスマホゲームのCMを大量に投入するっていうことをしていて、アメーバブログ以来、ターゲット層がずれてない印象があります。
それでも、eスポーツがこれから日本で流行るのか、流行るとしたらどんな形なのか、という分岐点のタイミングで、別のルートが本当にないのか、というのは興味があります。
私が期待してるのはサッカーより相撲的な、あるいは将棋電王戦的な、一体感はTwitterとか動画サイトのコメントで調達したうえで、あんまり大声は出さずに知人と座ってバラバラに見る、ぐらいの感じなんですよね。
どのルートが日本で成功するのか、はたまた住み分けるのかはわかんないけど、コール&レスポンスでアガるお客さんと、それで敬遠するお客さんは確実に両方いて、どっちがより大事で、大きいかについては案外まだわかんなくって、だからヤンキー化じゃない方法で大規模イベントを成立させるタイトル、運営方式も現れるといいなと思ってます。
コミュニケーションのコストって結局下がってるの?
対面から始まって、電話、ファックス、メール、LINE、それにSNSと、「コミュニケーションのコストを下げたい」というのは多分おおくの人の悲願だったんだと思う。
気まずい話はもちろん、楽しい話でも直接言うのはやっぱり面倒で、反応も読めないし、まして仕事の事務連絡なんかはいちいち気を使ってコミュニケーションすると効率が悪いから「このコストを下げたい」というのは確かに自然ではあるし、とても多くの人が賛同する話だと思う。
対面→電話→メールと、リアルタイムの反応が必要なくなって、表情も声も服装も相手にバレずにコミュニケートできるようになったし、LINEはフォーマットを対話形式にすることで、「一回の送信は短くてもいいんだ」という雰囲気を醸し出した(対話形式自体は、大々的に流行ったのはiphoneのSMSが最初だったのだと思うけれど)。あとは文章の中に使う絵文字じゃなくて、1個で完結したスタンプっていうのも、文章を考えるコストを削減する発明だった。
ただ2016年冬時点で考えると、「コミュニケーションをスタートするコスト」がここまで順調に下がってきたことで、別の問題が発生しているような気はしていて、それが「コミュニケーションを維持するコスト」とか「コミュニケーションを打ち切るコスト」、そして「コミュニケーションをいつでもスタートされてしまうコスト」とか、そういうものへの対処が後回しになっていると思うわけです。
で、LINEスタンプが劇的に流行ったのは、この維持コストと打ち切りコストを下げたからだと私は思ってて、適当に相槌を打ったり、おやすみなさいと会話を切り上げるときに、文字よりもスタンプの方がやりやすい。「どっちが電話切るか問題」みたいなことも発生しないし。文中に使う顔文字じゃなくて、単体で完結したスタンプ、というのが発明だったんじゃないかなぁという。
ただ、それでもコミュニケーションのスタート部分が技術主導で急速にコストが下がってきたのに比べると、「始まってしまったコミュニケーションを終わらせるコスト」は技術だけではどうしようもない部分が大きいから、結果的に割高感がでてきちゃってるんだよね。
だから次に流行るのは、そのコミュニケーションの終わらせ方を発明したコミュニケーションツールなのだと思う。FACEBOOKのように投稿方式ではなくて、LINEのようにリアルタイムに見えるものでありながら、終わらせることが簡単なコミュニケーション。浅はかに思いつくところだと、文字を打つ代わりに相手に選択肢を表示して、押すだけにする、とかね。それをものすごい数先に用意しておいて、スタンプみたいに選ぶだけ、みたいな。
まー何が言いたいかというと、コミュニケーションのコストがいろんな場面で下がってきてるとは思うんだけど、終わらせ方、切り離され方っていうのがまだ発明されてないから誰か発明して、ということです。
それやるとアプリの滞在時間とか減るから、広告表示する機会とかも減って損じゃん、っていうのがネックなんだろうけど、使う側のニーズ的には絶対大きいから結局誰かやると思うし、それならうちがやる、っていうところはあるんじゃないかなーという期待でした。