イーストウッドと情報の取捨選択。『15時17分、パリ行き』感想
テロリストを、同じ列車に乗り合わせた3人の男が取り押さえた。
『15時17分、パリ行き』は、一言でいえばそれだけの映画だ。
2015年に起きた高速鉄道のテロ事件を題材にしたクリント・イーストウッド監督のノンフィクション映画だが、映画の内容自体はいたってシンプル。
ではこの映画の何が論点かというと、「主役の3人を、実際にテロリストを取り押さえた本人たちが演じて(再現して)いる」という手法に尽きる。その手法は何を意味しているのだろう、という話をしてみたい。
世界の解像度を操作する
映像に限らず何かを人に伝える時は通常、2つの段階が存在する。
まず、世界の解像度をマックスまであげて、いかなる小さな凹凸も見逃さない手つきで世界を認識する。
そして、今度は解像度をぐっとさげて、ある視点(テーマ)から必要な部分と不要な部分を整理する。
世界の解像度をあげると、何が拾えるか。
たとえば、主人公は何歳? 身長・体重は? 何人? 顔は? 肌は? 声は? イントネーションは? 髪型は? 職業は? 好みのタイプは? 幼少期はどんな子? その日の朝食は? 好きな飲み物は? 飼ってる犬の名前は? 自分の部屋から見える空の広さは?
こんな風に、事実は無限に存在する。その日地球の裏側で何が起きていたか、だってもちろん含まれる。
その膨大な要素の中には、テロリストを取り押さえるという英雄的な行為とは全く無関係に見える要素もあるし、色濃く関係しているように見える要素もある。
だから普通は、選択したテーマに関係がある要素を選び、つなぎ、時に並べ替えて、クライマックスが劇的に伝わる形に整える。
それが編集とか、構成とか呼ばれる作業だ。
情報の取捨選択を、視聴者に委ねる
しかし近年のイーストウッドは明らかに、世界の解像度を上げるだけ上げて、そのまま観客に提示する傾向を強めている。
『J・エドガー』、『ジャージー・ボーイズ』、『アメリカン・スナイパー』、『ハドソン川の奇跡』、そして今回の『15時17分、パリ行き』と、イーストウッドが監督した映画はこれで5本連続でノンフィクションとなった。
後の作品になるほど演出は控え目になり、本筋と関係があるのかないのか微妙な要素を大切に扱うようになっている。
つまり、制作者が要素を取捨選択することを避け、起こった事実をできるだけ精緻に再現しようとしているように見える。
その究極が、本人に本人を演じさせるという手法なわけだ。どんなに演技がうまい俳優だって、本人を再現する度合いは本人には届かない。
ではこの思想を突き詰めていくと、何にたどり着くか。
「何かが起きたときに、そこでGoProが回ってるのが理想」
当然こうなる。
それは言わば、ストーリーテリングの否定だ。現実をそのまま映しとることにこそ価値があり、誰かの視点を介在させることはノイズでしかない、という思想である。
ただ今作の注意点として、当事者たちから聞き取ったことを再現した結果、「自分に起きたことを物語的に理解して再構成した当事者」の視点がストーリーとして現実に再介入してくる、という興味深い現象もこの映画では発生している。(主人公の1人の父が牧師で、キリスト教的なストーリーにこの出来事を再構成している)
「誰かの意図」に対する拒否感
この「現実こそ最強」という発想はイーストウッドの発明ではなくて、すでにあらゆるジャンル・場面で進行している、「いまの流行」でもある。
音楽業界ではロックやポップスよりもヒップホップが優位になり、
情報の入手元はマスメディアからSNSにうつり、
演出過剰なテレビタレントよりも、素に“見える”Youtuberに人気が集まり、
映像編集が可能なYoutubeから生配信に人が流れている。
まとめれば
「誰かの意図・編集が入り込まない生の現実」を求める感覚が広がっている。
「誰かが意図を持って編集したストーリー」への拒否感が強まっている、ともいえる。
その状況でフィクションの映画を作ることは難しいし、ノンフィクションだとしても意図が透ける演出をすることは難しい。その流れにイーストウッドはいち早く乗った、ということだ。
映画界のど真ん中にいるにもかかわらず、イーストウッドの転進が早かった理由はいくつか想像がつく。
・「一般人が普通にわかること」を重視・信頼する保守主義者であり、編集された映像によって観客を啓蒙・啓発しようという意志が小さい
・普遍的に正しい価値判断などというものはない、という伝統派の思想
・年齢的にもキャリア的にも、今後映画の世界でお金を稼ぎ続ける必要性が低い
フィクション映画の限界を悟ったイーストウッドは『J・エドガー』以降ノンフィクションしか撮らなくなり、『15時17分、パリ行き』ではノンフィクションの限界すらも悟って俳優を起用しない段階へ進んだのだ。
映画として、というよりも
映画公式サイトのインタビューで、イーストウッドは「観客がどう思うかなんて予想できない」と話している。情報過多の世界を、情報過多のまま観客に提示しているのだから、このコメントには真実味がある。
山ほど伏線を張り、クライマックスでBGMを流し、スローモーションまで使って全力で「ここが泣くところですよ」と全力で伝える映像を作る人に「観た人が考えてくればいい」と言われても、さすがにそれを鵜呑みにはできない。
しかしイーストウッドが言うからこそ、「自分は世界を、人間の認識力を信頼している」という信念の言葉として響く。
総合して『15時17分、パリ行き』が「映画として傑作か」と聞かれると、これはなかなか難しい。
『許されざる者』や『ミリオンダラーベイビー』、ノンフィクションでも『アメリカン・スナイパー』や『J・エドガー』と比べれば完成度は一歩ゆずる。
ただ映画という表現形式を問い直す契機としては、『15時17分、パリ行き』は大きな意味を持っているように見える。
特権的な監督=演出家=作家=プロデューサーによる編集・物語化を排除した先にどういうものができるかという実験作として、イーストウッドが何を試し、どんな成功を納め、どんな限界に制限されたか。時間がたった時に、改めて意味が付与される映画な気がする。
個人的な感想としては、映画という形式を取った時点で「なぜその人・その話なのか」という恣意性を引き受けざるをえないので、特権的な視点の排除は難しい方法だと思う。
たしかにストーリーテリングには、「この複雑で情報過多の世界を、私が見事に切り取ってみせましょう」という胡散臭さがどうしてもついて回る。
だとしてもその地点から、「観客に悟られない巧妙な編集」に行くか、「特権的な視点の徹底排除」に行くか、はたまた開き直って「視点の特権性を魅力に変えるか」、何にせよその一歩を見せて欲しかったかなという希望は残った。
後で観直すとまた感想が変わりそうだけど、現時点ではそんな感じ。
ウメハラというアンビバレントな絶対神 ―ときどの涙とリビングザゲーム―
「ゲームの中でぐらいは勝ちたかったんですけど」
3月10日の『獣道』10本先取マッチでウメハラに敗れて、ときどは涙をこらえてそう言った。
ウメハラは「ゲーム以外全部(ときどが)勝ってると思うんですけど」とはぐらかしたが、ときどが何の話をしたか、どの部分でウメハラに敵わないと感じているか、本当はわかっていたはずだ。
そんな風に思ったのはたぶん、映画『リビングザゲーム』を観た直後だったからだと思う。
撮影された瞬間にはその価値がわからなかった映像が、期せずして貴重なドキュメンタリーになった――。
『リビングザゲーム』は、そんな映画だった。
プロゲーマーのウメハラとももちを中心に追いかけた本作の撮影期間は2013年~2015年、つまりちょっと昔の話である。
では古い話かというと、そうではない。この映画の価値について考えれば、2015年末よりもむしろ2018年の今の方がタイムリーに見える。それが興味深い。
全く違う道を歩くウメハラとももち
2018年現在、ウメハラとももちの格闘ゲーム界における立ち位置はほぼ対極と言える。
レッドブル、サイバーエージェントグループのバックアップを受け、業界の旗艦として存在感を増すウメハラ。
カプコンプロツアー100位以内の日本人でただ1人プロゲーマーライセンスを受け取らず、自分で会社とチームを立ち上げて独立独歩を貫くももち。
その分岐点がどこにあったかと考えたときに、『リビングザゲーム』は2人の道が別れるきっかけの、少なくとも一部分を捉えている。
映画からは、格闘ゲーム界のど真ん中にいるウメハラを超えたいけれど、成績で上回っても超えられないならどうすればいいんだよ、と途方に暮れるももちの心情がひしひしと伝わってくる。
そしてウメハラが、自分の立場の特別さを自覚して、格闘ゲーム界のために自分の役割を果たそうとしていることも。
超える方法が見当たらない壁
ウメハラに対して敬意と疎ましさが同居するアンビバレントな感情を、ももちは隠さない。
努力して、結果を出して、それでも全然追い付ける気がしない。最初から勝負はついているんじゃないか……そんな諦めに抗うももちを、つい応援したくなる。
このももちの感情は、2018年時点から見るとよりリアルだ。
大会での成績を考えれば、ここ数年で最も高いパフォーマンスを出してきた日本人はウメハラではない。EVO2017で優勝したときどを筆頭に、何人かの選手の名前があがる。
しかし現在、格闘ゲーム界のど真ん中は文句なしにウメハラの定位置だ。揺らぐどころか一極集中は加速している。
ときどが「ゲームの中ぐらい勝ちたかった」というのは、まさにこの話に他ならない。
ウメハラの特別さは理屈じゃない
でもこの映画が、というよりもウメハラが特別なのは、彼が現時点で世界一の位置にいる選手じゃないと知ったうえで、それでも他の誰よりもウメハラのプレーを見たい人が大勢いることだ。
それが彼が積み重ねてきた歴史なのか、あの独特の語り口なのか、もしかしたら外見も影響しているのか、理由ははっきりしないけれど、「ウメハラは特別」だと感じている人が大勢いることは否定しようがない。
私も実は、ウメハラのリュウを見ると条件反射で涙が出る、という持病がある。
しかも今でも、10本先取というごまかしが利かないルールでときどに勝ってみせる。ウメハラの勝負強さは「持っている」なんて表現ではとても足りない。
(直近でその勝負強さを見せつけたInfiltrationとの10本先取とその本人解説動画ウメハラ (Daigo) Infiltration 豪鬼戦解説&感想戦 『勝負論 ウメハラの流儀』 Oct 31, 2013 - YouTube は本当に何回見たかわからないぐらい見ている)
英雄を必要とする時代
「英雄がいない時代は不幸だが、英雄を必要とする時代はもっと不幸だ」
このベルトルト・ブレヒトの名言になぞらえるならば、英雄=ウメハラを必要とする今の格闘ゲーム業界は幸福ではない、と言えるのかもしれない。
ただ英雄がいなくなれば多くの人が困るのは自明で、どうせ英雄が必要ならその役目がウメハラでよかった、というのも概ね一致するところなのだと思う。
だとすればできることは、英雄が健在なうちに次の英雄を探すか、英雄なしでやっていける状態を模索するかしかない。平凡な結論だが、たぶんそれしかない。
そして幸いなことに、ウメハラはその必要性に自覚的で、行動を変化させてもいる。BeasTVも、ゲーマーライセンス座談会も、数年前の彼ならやらなかったんじゃないだろうか。
最後に映画の話に戻ると、『リビングザゲーム』は観終わった後に、登場人物全員に対して好感度がアップする映画だと思う。ウメハラも、ももちも、ジャスティンも、ゲーマービーも、他の人たちも。
それだけで十分にチケット代ぐらいの価値はあると思うし、それに数年前、彼らがどんな風にしゃべっていてどんな風に行動していたかは、今の時点から見た方が一層おもしろい。
ウメハラが賞金について何を話していたか、ももちが自分の道をどう見定めたか。
数年で人は大きくは変わらないけど、それでもやっぱり彼らの喋り方は今とは少しずつ違う。それを観るのもなんだか感慨深かった。
ときどさんの無念が心に残りすぎて、勢いで書いたら登場人物が呼びつけになってしまったことをあらかじめ謝っておきます。文中敬称略、です。
試合の動画と映画の公式サイトだけおいときますね。
「平坦な戦場でぼくらが生き延びること」は2018年にも切実な問いか。~『リバーズエッジ』について~
岡崎京子の話を2018年にするのは難しいなと思う。
『リバーズエッジ』の連載がはじまったのは1993年で、つまり阪神大震災も地下鉄サリン事件も起こっていない、インターネットもない時代だ。
その時代に岡崎京子が描いた高校生たちにとって、最大の関心は「退屈」だった。
それっぽく言えば「終わりなき日常」に波風を立てたフリをして、味気ない現実になんとか飽きないようにしなきゃ、この世界にもう飽きてしまった自分から目を背けなきゃ、というのが彼女たちの切実な願いだった。
UFOでも呼ばなきゃやってられなかった
見開き一杯の「平坦な戦場で戦場でぼくらが生き延びること」という詩が有名だけど( 今ここで, 「平坦な戦場で僕らが生き延びること」で有名なWilliam Gibson "THE BELOVED...)、それと同じくらい、次の台詞も印象的だ。
「UFO呼んでみようよ、もう1回やってみようよ」
もちろん主人公は、UFOなんていないことを知っている。呼んだって来ない、日常にさざなみさえ立たないこともわかっている。
それでも、UFOでも呼ばずにはいられないぐらい退屈で、「ここではないどこか」につながる細い可能性を握り締めていたわけだ。
この感覚は、とてもとてもよく分かる。
私がリバーズエッジに触れたのは1995年よりずっと後だったけど、それでも「この日常がずっと続いていくんだな」っていう絶望感は、ある世代の人たちに確実に共有されていたと思う。
AKIRAにせよエヴァにせよ、「この退屈な日常を終わらせてくれるなら、悪魔でも何でもでて来やがれ」という気分が背景にはあったのだ。
退屈は、安全さゆえの贅沢な悩みだった?
でもじゃあ2018年の若者にとって「退屈」は切実な問題なのかと考えて、どうも違うような気がした。
もちろん今だって「何か面白いことないかなー」ぐらいは思うだろうけど、かといって「どうせ自分の人生なんて、会社はいって30ぐらいで結婚して、60過ぎで定年して普通に死ぬんだろうな」とは思わないだろう。
正確に言えば、そんな風には「思えない」はずだ。
90年代にあれほど忌避されていた「日常」はいつの間にか愛でる対象になり、「日常系」というカテゴリまでできた。日常系の元祖と言われる『あずまんが大王』は2002年の作品だ。
その後も、社会の先が読めない不安感はどんどん強まって、自分だけでも幸せに生きたい、というサバイバルな雰囲気は増している。
自分の人生の先行き不安が大きくなれば退屈とか言ってられなくなるし、「まぁ普通になんとかなるさ」という楽観の底が抜ければ、川原の死体やUFOより就職活動の方がずっと切実になる。
仮想通過と異世界転生は「一発逆転願望」
だから『リバーズエッジ』は2018年にはタイムリーじゃない。……と、さっきまでは思っていた。
ただ書いてるうちに、本当にそうだろうか? と疑問がわいてきてしまった。
確かに自己啓発は数年前まで大ブームだったし、非モテ・貧困という身も蓋もない実存の話題も注目度が高かった。
その空気の中では、退屈は「自分が為すべきことを見つけられない敗者の問題」だったのだろう。
でもちょっと立ち止まって考えると、自己啓発の空気も一段落したし、「退屈」は最近また存在感を増してるのかもしれない、と気づいた。
きっかけは仮想通貨と、異世界転生小説&漫画。
一見関係ないこの2つだけど、どちらのブームも「普通の方法ではもはや勝機が薄いので、一発逆転で勝者になりたい」という参加者・読者を多く抱えているからこそこれだけのサイズになった側面が否定できない。
つまり「この退屈な日常を破壊してくれる何か」への待望を、下地として持っている。そもそも異世界転生なんて、主人公が死なないと話が始まらないわけだし。
そう考えると日常の退屈さはまたじわじわと水位を上げていて、存在感を増している可能性もある。
ノスタルジーか、ケーススタディか
だから、2018年の『リバーズエッジ』は両義的な作品だ。
「今となっては贅沢な話だけどさ、あの時私たちは確かにこう思っていたんだよ」という気分を再確認するノスタルジーにもなりうるし、
「最近また存在感を増してきた退屈に対して、前回の当事者だった若者たちはこのように行動しました」というケーススタディにもなりうる。
2つの震災といくつものテロ、そしてリーマンショックやスマートフォンの普及を経た2018年に、『リバーズエッジ』がどんなメッセージとして読み替えられるのかが楽しみだ。
どんなアップデートがなされているのか、はたまた90年代の空気を呼び出すことに徹したのかを確認するためにも、映画はたぶん観に行くと思う。
ただ一個だけ見る前に文句を言っておくと、高校生役に24歳とか23歳を使うのはほんともうやめよう。
ゲームが目的から手段に変わる時代に
ゲームってどういうものだっけ、という話が最近よく話題になる。
だいたいどれも、元を辿れば1つの「変化」にたどり着くと思うので、その話をしてみたい。
結論から言ってしまうと、色んな問題のきっかけになっている変化は「ゲームが目的から、手段になりつつある」ということだ。
ふわっとした言葉なので、まず言葉の使い方を決めておこう。
目的としてのゲーム=ゲームをプレーすることそのものが目的
手段としてのゲーム=お金や人気を得るためにゲームを手段として使う
この2つを前提に、考えをスタートしよう。
ゲームが目的でしかありえなかった時代
ほんの10年くらい前まで、ゲームは目的でしかありえなかった。
どれだけゲームが上手くても仕事にはならないと思われていたし、クラスやゲームセンターのスターになれる要素は多少あったにせよ、ゲームをするのは「それが楽しいから」というのがほぼ唯一の動機だった。
なのでこの時期に始まったイベントは、ほぼ全てがコミュニティのボランティアで運営されていて、「ゲーマーファースト」なんて言葉が入る余地がないぐらい、全てがゲーマーのためなのは当たり前だった。というより、他に気を使う相手がいなかった。
この時期から知名度があったウメハラさんやときどさんたちの世代が今も人気がある理由の1つには、彼らが「自分たちと同じように、ゲームを好きで好きで仕方ない人」に見えたという要素があると思う。
それが仕事になるとかモテるとか、そういう目に見えるご褒美があるわけでもないのに人生の膨大な時間をつぎ込んでゲームに熱中してしまう、そういう業(ごう)を共有する仲間感、連帯感があったのだ。
ゲームが手段「としても」使えるようになったことの副作用
しかしこの状況は徐々に変化してきた。
eスポーツという言葉が広まり、動画や生放送の配信者の中からスターが出始めると、ゲームは手段としても使えるようになった。つまり、ゲームを使ってお金や人気を得ることができるようになった。
基本的に、それはとてもいいことだ。ゲームをプレーしたり、配信したり、取材することが仕事になるなんて最高だ。これは皮肉ではなくて、本当にそう思う。
ただここから、話はちょっと複雑になる。
ゲームが手段「としても」使えるようになっただけなら、一見それはゲームの可能性や選択肢が単純に増えただけで、何も失われてはいないように見える。
ゲームを手段として使う人がいるからといって、ゲームを目的としてプレーすることが邪魔されるわけではないし、ゲームをプレーする人がすぐに減るわけでもない。
eスポーツも配信も嫌なら関わらなければいいのだから、影響はないという主張は一見、正しい。
でも実際には、ゲームを手段として使う人の出現によって、失われたものが確実にある。
失われたのは、「ゲームの周りにいる人は全員、自分たちと同じようにゲームを好きで好きで仕方ない人である」という信頼感だ。
誰かを見た時に、「この人はゲームが好きな人なのか、それともゲームを使って何か別のものを手に入れたい人なのか」という疑問が生まれるようになった。
これは、ゲームを手段として使うことの直接的な副作用だ。
ゲームが手段になるのは基本的にいいことだ。でも
そういう私も、eスポーツの周りで仕事をすることがある。つまり、ゲームを手段として使うことがある側の人間だ。
自分の立場を正当化するつもりはないけれど、ゲームが手段と使えるようになったこと自体は、基本的にいいことだと思っている。
ゲームをするのが仕事になる、ゲームをするのを人が見てくれて承認される。繰り返しになるけれど、どちらも最高だ。ゲームを取材してゲームのことだけ考えて生活できたら、それだって最高だ。多くのゲーマーが夢見ていたことだと言ってもいい。
現実問題として、手段として使えるものを「使うな」というのも無理な話で、この流れ自体は避けられない。誰だってお金も承認も欲しいのだ。
ただ、ゲームを手段として使う立場を運よく与えられた人は、隅っこにいる私を含めて、その立場の危うさも認識する必要があると思う。
eスポーツもゲーム配信も、ゲーマーコミュニティの「この辺りにいる人は全員、ゲームが好きで好きで仕方ない人だよね」っていう信頼感を前提にして、その信頼感に甘えて成立している部分がある。
でもゲームを雑に手段として扱っていると、その信頼感という資産を食いつぶしてしまう。
今はまだ「ゲームが好きな人」の延長に見えていても、これから産業として大きくなればなるほど、そこに参入する人が「お金や承認のためにゲームを利用する人」に見えるリスクは上がっていく。
「みんなゲーム好きだから分かってくれるよね」とアマチュア大会の運営者が言うのと、それを仕事にしてる人が言うのはやっぱり意味が違う。
ゲームを手段として使うということは、ゲーマーコミュニティの信頼感に依存しながら、一方でその信頼感の土台だった「アマチュア感」に手を突っ込む行為だ。
プロ化も産業化も最高だし、もう止まらない。でも自分たちが何をしているかについては意識的な方がいいし、謙虚でいる必要があると思う。自戒を込めて。
物を捨てるのが怖くなる体験。~カオスラウンジ『百五〇年の孤独』感想~
カオスラウンジというアート集団が、『百五〇年の孤独』という展示をやっている。
とても射程の長い印象的な作品で、日常レベルでも「物を捨てるのが怖くなる」という変化があったので、その話をしてみたい。
まずこの展示を簡単に説明しよう。
江戸時代が終わって明治時代がはじまった、今から150年前の話。明治政府は神道を国の真ん中に置くために、仏教との区別をハッキリさせる「神仏分離令」というのを出した。
つまり、「これからは神道で行きますよ」+「神道と仏教は別ですよ」という2つのメッセージを同時に発信したことになる。
仏教はダメだと明言したわけではないけれど、まぁそういう空気だったんだと思う。忖度なのか、もっと明らかな示唆・指示があったのかはわからないけれど、ともあれ当時の人々は強烈な行動に出た。
廃仏毀釈、つまりお寺を燃やし、仏像や墓石を打ち壊す運動が起こったのだ。るろうに剣心で安慈和尚のお寺が燃えたやつ、と言うと想像しやすい人もいるだろうか。
しばらく後にほとんどの地域ではお寺の再建が進んだが、福島県いわき市の泉藩だった場所ではほとんど再建されず、仏教という文化自体がこの町から消えた。
死生観など、日本の価値観の一部を引き受けていた仏教文化が消えたことの影響は、150年たった今でも泉の町で見つけることができる。
この「復興の失敗」と、2011年に起きた東日本大震災からの「復興」をオーバーラップさせて実際に泉の町を歩いてみた時に、さて何が見えますか、という展示である。
公式の黒瀬陽平さんの導入文がとても良いのでオススメ(カオス*ラウンジ » Blog Archive » カオス*ラウンジ新芸術祭2017 市街劇「百五〇年の孤独」)
私の決断は150年後から見てどうか、という視点
ざっくりまとめると、『百五〇年の孤独』は、1868年の廃仏毀釈について2018年の自分がどう思うかという経験と、2011年の震災について自分がどう思っているかという経験を、2つ一緒に歴史の年表の中に置きなおすアートだったと言える。
「なんでお寺壊しちゃったんだろうね」という2018年の素朴な感想と、「当時の人はお寺なんかもういらないと思ったんだろうな」という150年前への想像が合わさると、「じゃあ今自分たちが必要か不要かを決めてるものは、150年後からどう見えるんだろう」という疑問に自然につながる。
でも150年前の人の気持ちが正確に想像できないように、多分150年後の人も、2018年の人の気持ちは想像できないはずだ。同じ時代の人のこともわからないのに、時代が変わってしまったらなおさらだ。
こうやって「誰にも思い出してもらえないものがあることを覚えておく」と実生活にどんな影響があるかというと、一番は物を捨てるのがちょっと怖くなった。
『百五〇年の孤独』の中で、150年前に想像力を飛ばすための重要な手掛かりは、誰かが明確な意思を持って保存したわけではなく、たまたまとしか言いようがない形で残っていた資料だ。
この偶然は、自分が捨てようとしているものについて、本当に捨てていいのか、決して取り戻せないぞ、と1回立ち止まらせる力がある。同行者の1人も帰りがけに「ミニマリストってよくないのかなぁ」と呟いていた。
これはルールや慣習についても同じで、「このルール本当になくしていいんだっけ」という感覚が植え付けられた気がする。
私は年賀状とか冠婚葬祭とかあらゆる伝統儀礼・慣習について大体やめちまえと思っているタイプの人間なのだけど、それでも「現時点で考えると普通にいらないという結論になるけど、それは150年後から見てもそうか」と考えると、ちょっと躊躇する。だって、いくら考えても150年後の人の価値観は想像すらできないから。
まぁ最終的には150年後の人の気分より自分の感覚を優先することになるんだけど、この躊躇の積み重ねは色んなところにじわっと影響があると思う。
でも同時に、何を壊したって日常は続くんだ、というのも印象深い。
泉町の人たちがいま仏教の不在で困ってはいないのだろうし、何より150年間続いてきた日常について「それはあの時歪んでしまった日常なんですよ」と説明するのは傲慢というものだ。本来、なんて言葉で歴史にifを持ち込むのはご法度で、実際に起こったことこそが「本来」なのだから。
広江礼威の漫画『BLACKLAGOON』には、こんなセリフがある。
「でも、そうはならなかった。ならなかったんだよ、ロック。だから、この話はここでお終いなんだ」
昔の話をするのは嫌われがちだけど
『百五〇年の孤独』がやった、いま起きていること(=震災)について考えるために歴史(=廃仏毀釈)を呼び出すというのは、言ってしまえば良くある手だ。
この方法はたとえ話みたいなもので、物事の本質や隠れた意味を、連想によって伝えられるメリットがある。
でも実は、対象の出来事が大きければ大きいほど、歴史を呼び出す方法は嫌われる。
その理由は簡単で、歴史を参考にするとはつまり「今起きているのは、よくあることだ」という認識に立つことでもあるからだ。
この嫌われ方も、やっぱり震災で想像するとわかりやすい。
「東日本大震災は○○のようなものだ」
この文章の○○に何をいれても、正直怒られそうな気がする。
「東日本大震災は東日本大震災であって、他の何とも全くちがう。それ以上でもそれ以下でもないんだ。わかったようなことを言うな」みたいな感じで。
ああ、書くのをためらうレベルで怒られそうな気配がするよ。
もちろん人は誰でも自分の人生という一度しかない体験を生きているわけで、その人生を揺るがした巨大な出来事を「よくあること」と言われるのは気分が悪いだろう。それはわかる。
でもやっぱり、ある角度で切り取った時に、過去の出来事と共通点があったり、参考になるケースは山ほどあるはずだ。
経験に学ぶのが愚者のすることだとまでは思わないけど、歴史に先行ケースを探すことの有効性は捨てがたい。
そして『百五〇年の孤独』は、その感覚を再現することに成功していると思う。
じゃあ、どうすればいいのさ
文化が滅びたというとつい廃墟みたいな風景を想像しがちだけど、文化というのはもっと静かに滅びるんだということが、泉町を歩くと感じられる。
そして文化はどこまでいっても文化でしかなくて、たとえ何かが滅びても、人の生活は全然普通に続いていくこともわかる。
だから『百五〇年の孤独』の感想は、言葉にすると浅ーいものになる。
「大きな決断をする時は、もう一回よく考えよう」ぐらいの感じにどうしてもなってしまう。これでは何も言っていない。
でも、「何も壊しちゃいけない、何も変えちゃいけない」という老害作戦とも、「未来がどうなるかなんてわからないんだから、今思ったことをやるしかないんじゃないの」という開き直りとも違う道は、結局その浅ーい感じの近くにしかないのかも、と今は思っている。
直接対決型のゲームとハイスコア型のゲーム。
「Awesome Games Done Quick」って見ましたか?
ゲームの最速クリアを競うRTA(リアルタイムアタック)というジャンルのイベントで、たとえば初代『スーパーマリオブラザーズ』を5分以下で8-4までクリアするような、そういうチャレンジをいろんなゲームでするイベントです。マリオはこんな感じ。
これ、自分がやったことのあるゲームだと最高に面白いんですよね。
「そこそんなスピードで駆け抜けられるのか!」とか
「そのショートカット知らない」とか
「こいつ強いんだよな…」からの「そんな倒し方が!」とか。
Twitchに過去も含めてアーカイブがあるので、思い入れのあるゲームだけでも見たら懐かしさ爆発すると思います。(https://www.twitch.tv/gamesdonequick/videos/all)
個人的にはアクションもいいけれど、ギレンの野望とかダビスタとかシミュレーションゲームが見たいですね。
で、ここから本題に入るのですが、スポーツには大きく分けて2種類あります。
直接対決型:サッカーとかバスケとかボクシングとか、相手と直接戦って勝敗をつける競技
ハイスコア型:100m走とかフィギュアとかゴルフとか、ハイスコア(やタイム)を競う競技
この2分類はゲームにも当てはまって、ほとんどのeスポーツタイトル(格ゲー、MOBA、FPS……)は直接対決型です。
というかリアルスポーツでも、ゴルフとか一部の例外を除いてプロ競技はほぼ直接対決型です。
それには理由があって、ハイスコア型は基本的に相手のプレーに介入できないので、戦略や駆け引きが入る余地が小さく、何回やっても強い方が勝つ単調な結果になりやすいからです。
ウサイン・ボルトの100m走はエキサイティングでも、野球みたいに年間140回も見たい人は少ないでしょう。
ゴルフは、コースが変わる(≒毎回ルールが変わる)という部分で新鮮さを確保している数少ない例ですね。
やっとゲームの話に戻ってきますが、RTA文化はまさにこのハイスコア型です。だから毎日見るには厳しいけど、年に1回のお祭りとして最高に盛り上がるわけです。そしてこのRTA文化、もうちょっと大きくする余地があると思っています。
さらに文脈を追加すると、世界的に見ても日本は、ハイスコア型競技の人気がめちゃくちゃ高い国でもあります。
世界中どこの大会でも、フィギュアの会場が日本人で埋まるというのは有名な話。
日本が世界的に強い競技ということもあるけれど、同時にたぶん国の性質として、こういう職人的な、努力が報われる感じがする競技が好きなんだと思います。「負けたけど自己ベスト」という状況が発生する競技でもあります。
逆に言えば、相手の長所をつぶし合うような駆け引きや戦術的要素が多いゲームは、世界の平均と比べると苦手な人が多いのかもしれません。
この話の落としどころは難しくって、
「うまくやればパズドラのプロは需要あるかも」っていう話でもあるし、「日本でRTAは伸びしろありそう」っていう話でもあります。全体的にいうと、eスポーツには現時点で見えてない形の可能性がまだまだあるってことです。
マインクラフトでお題を出して制限時間内に何かを作って、採点で勝負を決める形とかもあるかもしれません。
私自身は直接対決型のゲームばかりやってきたのですが、ハイスコア型にポテンシャルがあるのも事実だと思うので、誰かにその道を切り開いてほしいなぁと思っています。
さらに余談。
PUBGが日本で(も)流行った理由の1つに、このハイスコア型の成分があるんじゃないかと思っていて、PUBGの結果って「勝ちor負け」の二択じゃないんですよね。
それよりもむしろ「100人のうちで何位だったか」というスコアが意識されやすいゲームです。
PUBGでは「勝ったor負けた」の要素が薄まるかわりに、自分のパフォーマンスが「良かったor悪かった」という方に意識がいくので、結果がダメだった時のダメージが小さいんだと思います。
PUBGは本当にいろんな意味で特徴的なゲームなので、いつか1回まとめたいなー。
ディズニーは、完全に本気だ~『スターウォーズ/最後のジェダイ』感想~
ネタばれをおおいに含みます。ご注意ください。
『スターウォーズ/最後のジェダイ』は、ここ数年ディズニーが掲げていた「女性をエンパワーしよう」というキャンペーンをさらに一歩進めたものだった。
その方法は強烈で、どのくらいかというと、私はエヴァンゲリオン旧劇場版を思い出した。庵野秀明がアニメ映画の中にエヴァマニアとネット掲示板の実写映像を入れ込んでまでファン批判をした、アレである。その話をしてみようと思う。
旧来のファンに対する、明確な「NO」
ディズニーがルーカスフィルムを買収してスターウォーズの新三部作を作ることになったその第1作・エピソード7は、多くの女性を含む新しいファンを獲得すると同時に、旧来のファンから2つの意味で評判が悪かった。
1つが「おれたちのスターウォーズを返してくれ=前と違うことをやるな」
もう1つが「エピソード4や6の焼き直しじゃないか=前と同じことをやるな」
これを受けてディズニーが「オッケー、本気だすわ」と作ったのが『最後のジェダイ』。
もちろん彼らの決断は、スターウォーズのお約束を全力で破壊しにかかること。全編で「スターウォーズならこうなるよね」という予想がこれでもかと裏切られ続ける。ぱっと思いつくだけでも、
・エースパイロットの独断専行が、逆に被害を拡大する
・シリーズで何度も成功してきた少数での潜入ミッションが失敗する
・人探しはフォースの導きで見つかるはずなのに、見つからない
・探し人の代わりに見つけた悪人面の奴が、「実は善人でした(ランドなど)」とならずに普通に裏切る
・彼の呼称はコードブレーカー、つまりスターウォーズのコード=お約束を破す者
・ルークがレイの修行をしない
・伝統の建物を守る魚人たち(≒守旧派のファン)は、新時代の象徴であるレイを嫌う
・ルークが後生大事に守ってきたジェダイの伝説の文献があっさり燃える(『君の名は。』みたいだ)
・さらにヨーダにダメ押しで「古いものは乗り越えられるのが最後の仕事」と言わせる
・決めゼリフ「フォースとともにあらんことを」がカブる。しかもその後レイアは譲ってしまって言わない
・暗黒面側のボスが、あっけなく死ぬ
・三部作の2本目ではルーク、アナキンの右腕が切られたけど、レイは切られない
・何よりレイが、ルークの娘じゃなくて借金で困った親に捨てられた子!
「おれたちのスターウォーズを返してくれ」というファンに、正面切って「あなたたちのような過去にしがみつく人の相手はしない」と言ってのけたのだ。
伝統の中には、もちろんジェンダーロールも含まれる
そしてもちろん、男女の対比もふんだんに出てくる。
・ポー(男性)率いる攻撃隊が敵戦艦を撃墜するが、女性がその犠牲になる
・ホルド(女性)からポーがクーデターで指揮権を奪うが、レイア(女性)に撃たれて失敗する
・自爆特攻で敵の大型砲を止めようとするフィン(男性)は、ローズ(女性)に助けられる形で妨害されて失敗(その直前に、ホルド(女性)の自爆特攻は成功している)
・ジェダイの伝統に縛られ、戦場に居合わせることもできないルーク(男性)、そのルーク(=伝統の象徴)に執着し恐れるあまり彼の幻影相手に滑稽な一人相撲を取るレン(男性)。
・逆にルークのもとを颯爽と巣立って新しい道を歩き始めるレイ(女性)、伝統の価値とその限界を深く知るがゆえにその縛りから自由なヨーダ(無性)
他にも数え上げればキリがないくらいで、全体を通じて男性のヒロイズムが女性によって否定される場面が極めて多い。
特に冒頭の敵戦艦撃墜では、「これまでのスターウォーズの男性のヒロイズムが、そのコストを女性(弱い立場の人)に押し付けることで成立していた」ことが明示される。
それでも、『最後のジェダイ』には、女性の優遇ではなくあくまでも対等性、フェアネスを目指した痕跡も見られる。
男性からヒロイズムを取り上げて女性に配分すると同時に、ポーを撃つレイアや、 自爆特攻するホルド、ファルコンの銃座に嬉々として座るレイ、爆弾を落とす女性、敵勢力の女性オペレーターなど、手を汚す役目も女性に割り振っている。
これまでの男性のヒロイズムは女性から権力を取り上げる一方で、「最前線で戦うことの免除」という特権を与えて保護していた側面がある。
しかしディズニーは、女性を前線に引っ張り出して、権力と一緒にそれに伴う負担と責任も与えようとしている。
スターウォーズでやったからこそ
旧ファンの反論で大きいのは「フェミニズムは結構だが、勝手にやっててくれ。スターウォーズに触ってくれるな」というものだが、まさにそこにこそ、ディズニーがこのシリーズに山盛りのフェミニズムを投入した理由もある。
日本から想像する以上に、『スターウォーズ』はアメリカではいわば宗教であり、伝統芸能である。つまり多くのコード=お約束があり、熱狂的なファンコミュニティを持っている。
彼らはスターウォーズの最大の顧客であると同時に、エピソード4~6の「初期三部作至上主義」ゆえに最凶のクレーマー集団でもある。
第2次三部作で加えられたジャージャー・ビンクスや、1997年の特別編で加えられた変更に頑強に抵抗するファンの様子は、『ザ・ピープルvsジョージ・ルーカス』(ザ・ピープルVSジョージ・ルーカス - Wikipedia)というドキュメンタリー映画にまでなった。
たとえば、ハン・ソロが賞金稼ぎとテーブルを挟んで話し合いをしていたものの、決裂してソロが相手を撃ち殺すシーン。
元祖バージョンではソロが先制攻撃で銃を撃つが、特別編では賞金稼ぎが先に撃ち、それをかわしてソロが相手を撃ち抜く。つまりより正当防衛っぽい状況を作っている。
これに対して一部のファンが「ソロは必要とあらば目の前の相手を殺すことも厭わないアウトローであり、それこそが彼のアイデンティティであり魅力なので、この変更は認められない」と怒った、とかそういう話だ。
つまりスターウォーズは映画界の伝統主義の象徴みたいなところがあって、その本丸に直球で挑戦状を放り込んできたのだ。凄い。
【余談:もちろんこの作品に難癖をつけるのは実は簡単で、男性/女性という差別構造に焦点を絞った結果、史上もっとも宇宙人の存在感が薄いスターウォーズになっている。
本来ならホルドやローズ、またはコードブレーカーのあたりに宇宙人を当てるところだと思うけれど、たとえばホルドを宇宙人にすると「人類を守るために宇宙人が自爆特攻」というこれまたエグいことになるし、あてはめていったら宇宙人のポジションがなかったのかもしれない。
差別問題と戦う時は常に「どうして他の差別ではなくて、その差別に今フォーカスするのか」という、正解のない問い返しに直面するのは避けられないので(他の差別だって本当は同じくらい大切だから答えられない)、今回は人間/宇宙人という線引きには目をつぶることにした、というしかないのだ。】
差別主義の権化から、それと戦う存在に変わったディズニー
ディズニー社を作ったウォルト・ディズニーが強烈な人種差別主義者、女性差別主義者だったのは有名な話だ。
彼が作った作品の中で王子様とヒロインはいつだって美形の白人だったし、彼は死ぬまでディズニー社の幹部に黒人と女性を入れなかった。もちろん支持政党は共和党だ。
だから初期ディズニー作品では、『白雪姫』も『シンデレラ』も『眠れる森の美女』も、女性は能動的なアクションをほとんど起こさず、王子様に選ばれるのを待っている。
眠れる森の美女のオーロラ姫にいたっては、森で寝てるだけ。というかこの話の原作は、オーロラ姫が何をしても起きないのをいいことにレイプされて妊娠するという、悪質な大学サークルかと勘違いするような話だ。よくそんなの原作にして子供向けの映画作ったな……。
という時代もさすがに終わり、『アラジン』あたりから人種的にはだいぶ平等が近づいてきた。そして2010年以降、ディズニーは男女差別に本気だ。
それまでディズニー自身が広めてきた「女の幸せは王子様に見初められ、結ばれること」というテンプレに、今度は一転して戦いを挑みはじめた。
男性との恋愛よりも姉妹愛・自己実現を優先させた『アナと雪の女王』が有名だけど、他にも『塔の上のラプンツェル』や『ズートピア』、実写版でも『イントゥザウッズ』や『マレフィセント』のような、能動的な女性をかっこよく描く作品が目立って増えてくる。
フェミニズムのアイコン的存在であるアンジョリーナ・ジョリーやエマ・ワトソンを起用するのも当然だ。
トランプ大統領の影を見るのはやりすぎ?
『スターウォーズ/最後のジェダイ』も、もちろんその流れの中にある。
そしてこのタイミングで男女差別から一歩踏み込んで、血統主義、伝統主義に挑戦を仕掛けたのは、たぶん大きく言えばトランプ大統領の影響もあると思う。
「Make America Great Again」なんて、そのまんま過去にこそ栄光があったという話で、世界を見渡しても伝統回帰や他民族排除の空気は広がっていて、ディズニー的には戦いどころだったということかなぁと想像する。
「未来が明るいことを信じる」というのはベイマックスの時にも感じた彼らの身振りで、それを貫くのなら進歩主義の旗は降ろせない。
とはいえ「スターウォーズらしい」部分も随所に残っていて、現代にも通用するいいところは残したいと思っているのも伝わってくる。
監督のJJエイブラムスはエピソード4を人生のベスト何本かに選ぶほどの筋金入りのスターウォーズファンなのだから、当然といえば当然だけど。
ということで、第1作の公開からちょうど40年後にできた『スターウォーズ/最後のジェダイ』は、40年分のアップデートを一気に詰め込んだエポックメイキングな作品になった。
エピソード7の時点では「まぁ8も9も大体想像はつくよね。観るけど」という温度だったのだけど、これを見せられた後では、9がどうなるのか全く想像がつかなくなってしまった。
その意味でも、本当にスペシャルな一本だったと思う。
あと、ポーグかわいい。