葱と鴨。

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物を捨てるのが怖くなる体験。~カオスラウンジ『百五〇年の孤独』感想~

カオスラウンジというアート集団が、『百五〇年の孤独』という展示をやっている。

とても射程の長い印象的な作品で、日常レベルでも「物を捨てるのが怖くなる」という変化があったので、その話をしてみたい。

 

まずこの展示を簡単に説明しよう。

江戸時代が終わって明治時代がはじまった、今から150年前の話。明治政府は神道を国の真ん中に置くために、仏教との区別をハッキリさせる「神仏分離令」というのを出した。

つまり、「これからは神道で行きますよ」+「神道と仏教は別ですよ」という2つのメッセージを同時に発信したことになる。

仏教はダメだと明言したわけではないけれど、まぁそういう空気だったんだと思う。忖度なのか、もっと明らかな示唆・指示があったのかはわからないけれど、ともあれ当時の人々は強烈な行動に出た。

廃仏毀釈、つまりお寺を燃やし、仏像や墓石を打ち壊す運動が起こったのだ。るろうに剣心で安慈和尚のお寺が燃えたやつ、と言うと想像しやすい人もいるだろうか。

しばらく後にほとんどの地域ではお寺の再建が進んだが、福島県いわき市泉藩だった場所ではほとんど再建されず、仏教という文化自体がこの町から消えた。

死生観など、日本の価値観の一部を引き受けていた仏教文化が消えたことの影響は、150年たった今でも泉の町で見つけることができる。

この「復興の失敗」と、2011年に起きた東日本大震災からの「復興」をオーバーラップさせて実際に泉の町を歩いてみた時に、さて何が見えますか、という展示である。

公式の黒瀬陽平さんの導入文がとても良いのでオススメ(カオス*ラウンジ » Blog Archive » カオス*ラウンジ新芸術祭2017 市街劇「百五〇年の孤独」

 

私の決断は150年後から見てどうか、という視点

ざっくりまとめると、『百五〇年の孤独』は、1868年の廃仏毀釈について2018年の自分がどう思うかという経験と、2011年の震災について自分がどう思っているかという経験を、2つ一緒に歴史の年表の中に置きなおすアートだったと言える。

「なんでお寺壊しちゃったんだろうね」という2018年の素朴な感想と、「当時の人はお寺なんかもういらないと思ったんだろうな」という150年前への想像が合わさると、「じゃあ今自分たちが必要か不要かを決めてるものは、150年後からどう見えるんだろう」という疑問に自然につながる。

でも150年前の人の気持ちが正確に想像できないように、多分150年後の人も、2018年の人の気持ちは想像できないはずだ。同じ時代の人のこともわからないのに、時代が変わってしまったらなおさらだ。

 

こうやって「誰にも思い出してもらえないものがあることを覚えておく」と実生活にどんな影響があるかというと、一番は物を捨てるのがちょっと怖くなった。

『百五〇年の孤独』の中で、150年前に想像力を飛ばすための重要な手掛かりは、誰かが明確な意思を持って保存したわけではなく、たまたまとしか言いようがない形で残っていた資料だ。

この偶然は、自分が捨てようとしているものについて、本当に捨てていいのか、決して取り戻せないぞ、と1回立ち止まらせる力がある。同行者の1人も帰りがけに「ミニマリストってよくないのかなぁ」と呟いていた。

これはルールや慣習についても同じで、「このルール本当になくしていいんだっけ」という感覚が植え付けられた気がする。

私は年賀状とか冠婚葬祭とかあらゆる伝統儀礼・慣習について大体やめちまえと思っているタイプの人間なのだけど、それでも「現時点で考えると普通にいらないという結論になるけど、それは150年後から見てもそうか」と考えると、ちょっと躊躇する。だって、いくら考えても150年後の人の価値観は想像すらできないから。

まぁ最終的には150年後の人の気分より自分の感覚を優先することになるんだけど、この躊躇の積み重ねは色んなところにじわっと影響があると思う。

 

でも同時に、何を壊したって日常は続くんだ、というのも印象深い。

泉町の人たちがいま仏教の不在で困ってはいないのだろうし、何より150年間続いてきた日常について「それはあの時歪んでしまった日常なんですよ」と説明するのは傲慢というものだ。本来、なんて言葉で歴史にifを持ち込むのはご法度で、実際に起こったことこそが「本来」なのだから。

広江礼威の漫画『BLACKLAGOON』には、こんなセリフがある。

「でも、そうはならなかった。ならなかったんだよ、ロック。だから、この話はここでお終いなんだ」

 

昔の話をするのは嫌われがちだけど

『百五〇年の孤独』がやった、いま起きていること(=震災)について考えるために歴史(=廃仏毀釈)を呼び出すというのは、言ってしまえば良くある手だ。
この方法はたとえ話みたいなもので、物事の本質や隠れた意味を、連想によって伝えられるメリットがある。
でも実は、対象の出来事が大きければ大きいほど、歴史を呼び出す方法は嫌われる。
その理由は簡単で、歴史を参考にするとはつまり「今起きているのは、よくあることだ」という認識に立つことでもあるからだ。

 

この嫌われ方も、やっぱり震災で想像するとわかりやすい。
東日本大震災は○○のようなものだ」
この文章の○○に何をいれても、正直怒られそうな気がする。
東日本大震災東日本大震災であって、他の何とも全くちがう。それ以上でもそれ以下でもないんだ。わかったようなことを言うな」みたいな感じで。

ああ、書くのをためらうレベルで怒られそうな気配がするよ。

もちろん人は誰でも自分の人生という一度しかない体験を生きているわけで、その人生を揺るがした巨大な出来事を「よくあること」と言われるのは気分が悪いだろう。それはわかる。
でもやっぱり、ある角度で切り取った時に、過去の出来事と共通点があったり、参考になるケースは山ほどあるはずだ。

経験に学ぶのが愚者のすることだとまでは思わないけど、歴史に先行ケースを探すことの有効性は捨てがたい。

そして『百五〇年の孤独』は、その感覚を再現することに成功していると思う。

 

じゃあ、どうすればいいのさ

文化が滅びたというとつい廃墟みたいな風景を想像しがちだけど、文化というのはもっと静かに滅びるんだということが、泉町を歩くと感じられる。

そして文化はどこまでいっても文化でしかなくて、たとえ何かが滅びても、人の生活は全然普通に続いていくこともわかる。

だから『百五〇年の孤独』の感想は、言葉にすると浅ーいものになる。

「大きな決断をする時は、もう一回よく考えよう」ぐらいの感じにどうしてもなってしまう。これでは何も言っていない。

でも、「何も壊しちゃいけない、何も変えちゃいけない」という老害作戦とも、「未来がどうなるかなんてわからないんだから、今思ったことをやるしかないんじゃないの」という開き直りとも違う道は、結局その浅ーい感じの近くにしかないのかも、と今は思っている。