葱と鴨。

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プロとは注目と歓声を食べて生きる種族である

DFMのEviさんの「ゲーミングハウスだとLJLの試合に気持ちが入りづらい」という言葉を聞いて、LJLプレイヤーたちは本当にプロになったのだなぁとあらためて思った。

プロの定義みたいな難しい話をするつもりはなくて、要するに「LJLプレイヤーたちは人に注目され、関心を持たれることを日常として生きるようになったのだなぁ」ということ。

 

現代アートにこんな作品がある。

入場者が暗闇の階段を上っていくとステージに出る。スポットライトがあたり目の前には無人の観客席。そして中央に立つと、観客席に設置されたスピーカーから大音量で歓声があがる――。

これはつまり「自分がスターになった」という疑似体験をするアートだ。

このステージに上がった人の多くは、自分が一身に歓声を浴びることについて「鳥肌が立つほど快感」という感想を持つそうだ。そしてスポットライトを浴びたいという欲望を自分が持っていたことを自覚する。そういう作品だ。

 

SNSが普及した現代では、一般人でもふとしたきっかけでバズってものすごく大勢の人に注目されている気分になることがある。かつては芸能人とスポーツ選手と犯罪者くらいしか体験しなかった「注目されることの快感と不快感」を、誰もが意識するようになった時代だと言える。

注目される快感の虜になってバランスを崩す人や、逆に人から関心を持たれることに恐怖を感じてSNSから距離を取る人は20年前には決して存在しなかった。

 

そんな中でプロゲーマーやプロスポーツ選手というのは、「注目されることの快感と不快」を日常として生きる人々だ。

個人的な感覚として、アマチュアとプロの差で大きいのはお金をもらうかどうかよりも、注目と歓声を食べて生きる生物であるかどうか、じゃないかと思っている。

そして注目と歓声を浴びる日常をある程度以上すごした人にとって、歓声なしの人生に戻ることは想像以上に難しい。多くの場合その変化は不可逆で、元には戻らない。

引退した芸能人やプロスポーツ選手がトラブルに巻き込まれがちなのは有名だけど、生活レベルの変化以上に自分に集まる視線の量が乱高下することで精神のバランスが崩れるケースも多い。だからLJLから選手を引退した人がストリーマーのような形で見える場所にいてくれるのは嬉しい反面、実は少し心配していたりもする。

でも、プロになるっていうのはそういうことだ。試合の勝ち負けの評価と自分が集めた関心の量の評価を、いつだって二正面作戦で戦う険しい道なのだ。

 

で、話はEviさんの言葉に戻ってくる。この話は私の中では、4月に渋谷∞ホールで無観客試合が行われていた頃に始まっている。ガランとした∞ホールでRamuneさんが、無観客について「寂しい」と話してくれたのが妙に記憶に残っていた。

つい数年前まで、オフライン会場で観客の視線を感じながら試合をするのは緊張や慣れない環境でパフォーマンスが落ちるというのが一般的な見解だった。

Eviさんは割と早い時期から視線を力にするタイプだった気もするけど、Ramuneさんは確実に「緊張する側」だったと思う。というよりLJLプレイヤーを含めてゲーマーの多くは家でゲームをしているのが一番好きという人種で、最初から人に注目されるのが好きだったり得意だったりするのは少数派だろう。

それから数年で、選手たちの感覚はずいぶん変化したのだ。

 

そう考えてくれば、オンライン対戦の影響を口にしたのがDFMのEviさんだったのも納得がいく。DFMはLJLの中で、注目される機会がまちがいなく最も多いチームだからだ。

まだしばらく無感覚でのLJLは続くだろうが、ゲーミングハウスから一歩も出ずに公式戦があるという日常が彼らにどんな感覚を引き起こしたのか、自分の精神性が変化していくことについてどんな風に感じるのか、いつか話を聞いてみたい。