葱と鴨。

文化系、ゲーム、映画、ジェンダー。https://twitter.com/cho_tsugai

ゲーミング腕組みについて1日考えたこと

 

岸さんのこのツイートからはじまった「ゲーミング腕組み」の話を朝から1日考えてました。

 

結論は「腕組みあたりで手を打っておくのもアリだと思う」という、我ながら意外なところに落ち着きました。そこまでの過程をまとめてみます。

 

eスポーツイベントの選手入場で片方のチームが入ってきた後に、もう片方のチームを待つ間とかによく発生するんですけど、壇上に1分くらい立ってる時間って選手にしてみれば相当そわそわする代物です。

そして運営がそれをごまかすために「腕組みで統一」ってなるのは、落とし所としてすごいよくわかるんですよね。

もちろん、岸さんの「腕組み強制はクールじゃない」っていうのも100%同意します。

だけどたぶん、別に誰かが腕組みを強制したがってるわけじゃなくて、ぶらっと立ってるのは絵的に厳しいし腕組みでもしてもらう? っていう消極的な理由がほとんどなんだと思います。

 

選択肢自体は実はいくつかある

で、「選手の全身をちゃんとお客さんに見せる時間≒立ってる時間」が必要だと仮定すると、選択肢はいくつかあります。

・ぶらぶらしてもいいから自由にする

・ポーズを統一する→ex.直立、前で手を重ねる、後ろ手に構える、ポケットイン、腕組み

・手持ちぶさたにならないように、持ち物を用意する。ex.コントローラー、チームの旗、ゲームキャラの人形、FIFAならサッカーボールとか

 

結構選択肢があるように見えて、ここで考えておく必要があるのが文化の話です。

これからeスポーツの「部活化・体育文化化」は確実に進んでいきます。たぶんもう避けられないでしょう。

その時に高校野球っぽい所作を求める声が出てくる可能性はあって、たとえば、直立不動、深いおじぎ、大声で挨拶、校歌斉唱、みたいなのが忍び込んでくることを私は結構本気で心配してます。

坊主頭って言い出す人はさすがにいなそうだけど、「派手な喜び方は相手に失礼だから自粛」とか「ユニフォームはシャツインで」とか、そのぐらいは全然ありそう。

 

LoLの話ですけど、この間までやってたMSIっていう国際大会の決勝直前に、ヨーロッパ代表チームの選手が「史上最速で終わらせてやるぜ(意訳)」っていうツイートをしました。ファンは大盛り上がりです。

これ、日本だったら多分かなり反発が出ます。というか、反発を心配してそもそもそういう発言はしません。「部活化・体育文化化」の圧は、日本のeスポーツシーンにすでにかなり強くかかってるんです。完全なプロですらそうなのに、高校生年代の大会とかになったらさらに圧は強まります。

 

つまり、「礼儀正しく高校生らしくちゃんとやろう」みたいな声が出てきた時に、「いや、eスポーツは自由な文化なので」っていうのは多分通用しないでしょう。

分厚いストリートカルチャーを持つスノーボードですら負けました。eスポーツが文化闘争に勝てる見込みは限りなく薄いです。

それは極端に言うと、高校生eスポーツの大会で、選手が小走りで入ってきて、大声で「よろしくお願いします!!」って叫んで深く礼をして、勝った方が校歌を歌うっていうことです。正直、私は拒否感がすごいです。

それならいっそ「ゲームは腕組みするのが文化なので」っていうあたりで手を打って、先回りして落とし所を作っておく作戦もアリなのでは、というのが1日かけてたどり着いた結論でした。

 

eスポーツにゴリゴリの体育会系になってほしくない

もちろん、持ち物を用意するのも有望な方法だと思います。

手もちぶさたも解消されるし、そのゲームならではの雰囲気になるし、人形やイラストの描かれた旗とかなら単純にかわいいし。サッカーみたいに、小さい子と手つないで出てくるのもアリでしょう。PCゲームやスマホゲームは難しいけど、格闘ゲームならアケコンやコントローラーでも良さそうです。

でもそれらはコストもかかるし、ゲームによって持ち物が違うので汎用性が低いです。人形は体育文化化の過程で却下される可能性もあります。

それなら、基本は腕組み+場合によって旗、ぐらいを先に定型化しておくのは案外悪い手じゃないと思うんです。

 

スポーツってもともと定型化・様式美と相性がいいジャンルで、現在の日本で最強の様式美は甲子園と箱根駅伝とサッカー代表戦です。つまり強い意志を持って意識的に文化を作らないと、そっちに引っ張られます。

 

私は個人的に、eスポーツはゴリゴリの体育会系になってほしくないんです。

そのために「日本のeスポーツはこの形なんだよ」っていう型を先に作っておきたい。別に腕組みである必要は全然ないけど、現時点でそこそこ普及してて、「ゲーミング腕組み」ってネタにして笑えるぐらいには受け入れられてるなら、もうそれでいいことにする手はあるよ、と思いました。

入場した選手がどういうポーズで立つか自体は小さな話ですが、これはeスポーツっていう文化を作る大きな話の一部なんです。

 

ともあれこれはゴール設定も方法論も人によって全く違う問題だと思うので、色んな人の考えを見ながらしばらく考えてみようと思ってます。

昔書いた関係ありそうな話も貼っておきますね。

 

 

 

『愛がなんだ』どころか「それはなんだ」と問いたくなる。

「お互いが納得してるならそれでいいでしょ」という薄っぺらい正論の奥の

「自分が納得すればそれでいい」という個人主義のさらに奥にある

「誰も納得していないのに、そのように立ち現れてしまった関係性」の話。

 

映画では、穂志もえかや片岡礼子が正論(≒社会)を担い、小さい頃の自分が個人主義(≒自分)を代表し、自分でも理解できない執着で突き進む大人の岸井ゆきのが最後の段階(≒??)にいる。

 

他の人物はその幅の中をふらふらしながら、時に薄い正論を吐きながら時に暴走しかけながら、理解可能な範疇のダメさ、あるいはまともさに収斂していく。

成田凌深川麻衣若葉竜也江口のりこも、ダメだけどまともな人だ。

岸井ゆきのだけが壊れている。

ドロドロとか情熱的とかではなく、ただ壊れている。

夢があって努力ができて「幸せになりたいっすね」と言う人は正気だ。「幸せってなんだよ」という人は遠い。

 

ただ、では本当に若葉竜也岸井ゆきのは違うのか。もっと言えば、穂志もえかは何があっても岸井ゆきのにならないのかh難しいところだ。

たぶんそれは、本当に好きな人に出会うとかそういうロマンチックな話ではなくて、もっとどうしようもなくありふれた、依存心とか生育環境とか、ただのタイミングだとかで変わるのではないか。それともやっぱり変わらないのか。

つまり、心の中に岸井ゆきの的な部分を「持つ」ことと、岸井ゆきの「である」ことの間にあるのは量的な差なのか、質的な差なのか。

岸井ゆきのに共感しそうになる時に、本当にそれは共感なのかを躊躇する。穂志もえかのように生きながら岸井ゆきのに憧れて見せるのは安全圏に身をおいたままの自意識遊びではないのか。

 

驚くほど何もわからない。

切り取られる場面の1つ1つはあるあるで、共感や思考の手がかりは多いはずなのに、映画は収束ではなく拡散へ向かって終わる。

若葉竜也深川麻衣はきっともう一度すれ違うのだろうし、岸井ゆきのが10年後に片岡礼子になっている可能性だってありそうだ。

だからどうしたという話でもなく、ただ世界はそうなっている。

『愛がなんだ』どころか『それはなんだ』と問いたくなるような、ただそこにある世界の話。言葉にすると「困ったな」とか「しょうがないね」ぐらいにしかできそうにない。

 

そして、こんなにも人は人のことをわからないんだという映画が「わかる、エモい、これは自分だ」という言葉に乗って広がっていくのも興味深い。

角田さんや今泉さんは、登場人物たちを「わかった」んだろうか。どのくらい「わかった」気で作ったんだろうか。

いとおしいと感じることとわかったと感じること、そして本当にわかることの間にある絶望的な距離を感じながら作ったんじゃないだろうか。

そしてそのわからなさを「わかられて」いくことについてどう思うのだろうか。

 

感想を書こうとするとポエムに引っ張られるのは、そういう力のある映画だったんだと思う。

ということで24時間後の感想ここまで。



メモ

・原作および映画の中で成田凌はどれぐらい顔がいい人な設定なのだろう。あの顔で「俺ってかっこいい人とかっこ悪い人に分けたらかっこ悪い方じゃん?」って言われてもさすがに説得力がない。『パンバス』の山下健二郎が、本当にかっこいい瞬間となんでもない人に見える瞬間の振れ幅の大きさが魅力的だったので、比較すると成田凌はまっすぐかっこ良すぎた気もする。主要キャストの美男美女度をもうひと回り落として撮ったらどうなるのかに興味がある

・小さい頃の自分が鏡に出てきて、その自分に「引っ込んでろ」とかぶせる大人げない演出は初めて見た。最高。

・台詞萌えには残る会話が多かった。「迷う」「じゃあやめとこ」

若葉竜也すごい。泣き笑いが切ない

片岡礼子が妙に印象的だった。『万引き家族』の高良健吾池脇千鶴もそうだけど、「正論で上滑る人」に興味があるのかもしれない。

岸井ゆきのの人物造形は個人的な感覚としては、角田光代的であるというよりは今泉力哉的に感じた。原作ではどういう人なんだろう、気になる。

・でも岸井ゆきのよりも、成田凌の方が気になる。

・今泉監督は「内在←→超越」「ざっくり←→丁寧」の4象限にすると内在×丁寧にはいりそうで、割と珍しいタイプな気がする。扱ってる感情はどこまでも世俗的だけど、手つきが繊細で丁寧。アイドルとの相性の良さもそのあたりにあるのかもしれないと思った。「ここではないどこか」についての作品も撮っているんだろうか

・『リップヴァンウィンクルの花嫁』や『寝てもさめても』とも通じるような、どこまでも受動的であることによって社会の外へ出てしまう人、しかも女性についての映画が続くのは時代の空気なんだろうか。主体性を要求されることに疲れた人の数が増えているのかもしれない。

・『スプリング・フィーバー』に感じた白々しさを、今作では感じなかった。その差はなにか、自分の変化か。

LJLのコールは「応援団問題」です

LJL会場でのコールがちょっと話題になってました。

これはプロ野球Jリーグで続いてきた「応援団問題」の一環で、得意分野なのでモデルケースを紹介しつつ私の考えをまとめます。

 

結論から書いておくと、私はLJLでの一体型コールについて現時点では慎重派です。その理由を説明します。

 

 

まず、「応援を統一した方が盛り上がって楽しい」という価値観と「一体感を強要されてる感じがして嫌だ」という価値観は、どちらも正当なものです。

どちらかが正しくてどちらかが間違ってるわけではないので、この話に悪役は登場しません。一体感を感じるのが好きか、そうでないかが違うだけです。

 

この問題を野球やサッカーではどうしてるかというと、外野席(野球)やゴール裏(サッカー)のような「一体感を求める応援団のための場所」を半ば公式で作って、住み分けをしています。

 

ポイントは「応援団の人を悪い席、競技が見にくい席に集めている」ことです。

応援団が周囲に与えるプレッシャーは大きいです。近くで相手チームのユニフォームを着ることはおろか、立たずに座って見ているだけでも居心地が悪いことが多いです。埼スタのゴール裏とか圧がやばいです。

しかもこの居心地の悪さは、応援団が周囲に一体感を強制する意志がなくても発生します。だからこそ、試合が見にくいかわりに派手に応援できる席を作って「カタギのお客さんには迷惑かけるなよ」という風にしているわけです。

 

そして、現在のLJL会場では住み分けができません。今の状況で応援団的なスタイルを進めれば、一体感を強要される感じがして嫌だというお客さんの居心地が悪くなるのは避けられません。今回出たネガティブな反応はその一部でしょう。

 

一体感はたしかに気持ちいいです。でも、その一体感が苦手な人は一定数います。

私自身がカラオケで歌ったりフェスで踊ったりするのが苦手なタイプなので、その人たちの気持ちはよく分かります。声出せ、って言われてる感じが苦手なんですよね。そしてそういう人の割合は、野球やサッカー以上に多いと思います。

 

なので現時点での私の立場は、LJLでの一体型コール慎重派になります。

 

もちろん、「コールがあった方が楽しいんじゃない?」と考えて実行に移した人たちに悪いところは1つもありません。落ち度もないし、悪意もないです。そこは誤解しないでください。個人への攻撃は全面的に反対します。

関係性としても、ファイナルでコールを担当されていた方の1人とは面識があり、決して「応援を仕切ってやろう」とか「こっちの思い通りやれ」というタイプじゃないことを知っています。良識的で、話していて楽しいチャーミングな人です。

もう1人の方もSNSではよく見かけていて、こちらも仕切りたがりというタイプではないと思ってます。

 

でも一体的な応援スタイルが周囲に与える圧は想像以上に強いです。なので、静かに見たい人に「それに乗らなくても大丈夫だ」という感情的安全を確保する責任は、運営または応援団側が負うのが望ましいと思います。そして今の環境では、その確保はかなり難しいでしょう。

 

応援ボードの配布や試合中に誰かが叫ぶ形で自然に起こるチームコールは私はとても好きです。でも全体を人為的に動員する形でのコールはぜひ慎重に進めてほしいと思ってます。

 

応援団という存在にはメリットとデメリットがあって、野球やサッカーは長いトラブルの歴史を経て「応援団側がかなり意識的に気をつかって住み分ける」今の形にたどり着いています。この考え方は、LJLでも有効だと考えます。

 

なんにせよ最終的に方向性を決めるのは運営です。

いつかコールをしたい人は思う存分コールができて、それが苦手な人は安心して静かに試合を見られるような環境ができることを願っています。plz riot!

『風立ちぬ』が描いた時間的近視

風立ちぬ』がテレビ初公開だったらしいので、公開当時に書いた感想を置いておきます。

「近視」の映画だ、というのが最初の感想だった。
実際の視力以上に、むしろ「時間的近視」とでもいうような人間観だ。

主人公は牛乳瓶の底のような、分厚い黒縁の眼鏡をかけている。
狭く、周辺が歪んだ視界。
1人の人間に見えている世界の範囲は驚くほど狭く、歪んでいる。遠いものはもちろん見えない。
自分の将来がどうなるか、自分が作ったものがどう使われどういう結果をもたらすかについて、主人公は出来るだけ考えないことにしている。
自分が置かれた状況を問い直すことはせず、目の前の状況や理不尽に「はい」と軽快な返事をしながらただ飛行機を作る。

主人公に「遠く」が見えるのは夢の中にいる時だけだ。
夢の中でだけ主人公は、子供の頃に描いた「あの空を美しい飛行機で飛びたい」という遠い憧れに向かって想像を飛ばすことができる。
夢の中こそが主人公にとって本当の世界で、戦争というファクターに絡め取られた現実は目に入らない。
だからこそ、疲れて眠ってしまった主人公の眼鏡を妻が取るシーンは切ない。
妻の自分がいる世界の主人公はいつも偽物で、眼鏡を外して妻のいない世界にいる主人公だけが本物なのだ。
主人公の夢の中に、妻は一度しか出てこない。

しかし眼鏡をかけて見る「近く」と、夢で見る「遠く」は繋がらなかった。
美しく空を飛ぶはずの飛行機は実際は人を殺すために使われ、多くの人を殺し、そして戻ってこなかった。
主人公の作った飛行機は「国を滅ぼした」とさえ言われた。

では主人公は悪い人間だろうか。おそらく、多くの人の目にそうは映らないだろう。
主人公は懸命であったし、真摯であったと思うだろう。少なくとも私はそう感じた。
主人公は格好のいい人だった。

格好いいのに、というよりも格好いいからこそ、『風立ちぬ』という映画は危うい。
「結果的に悪い方に転がったとしても頑張ったことは否定できない」という無反省は紙一重だし、
「先のことなんかわかりっこないから目の前のことだけやればいい」という開き直りも近い。
今で言えば「ミュージシャンは音楽を作ることしかできない」にも近い。「技術者は飛行機を作ることしかできない」みたいな。

でも72歳の宮崎駿は、人間ってのは先のことなんか本当に何にもわからなくて、目の前にあることを片付けるしかないじゃないか、というところにたどり着いたのだろう。
それでなければ、画面にあんなにも主人公への敬意が溢れている説明がつかない。

スポーツは「遊びに過剰な情熱を注ぐ変な人」の祭典

ゲームとスポーツ(eスポーツを含む)の関係が話題になっていたので、乗ります。

 

いまスポーツとして扱われているあらゆる種目も、かつてはただのゲーム、つまり遊びでした。

野球もサッカーもバスケットも、遊びや祭りとしてはじまりました。もちろんeスポーツもです。

 

ことの始まりは、多くの人にとって遊びでしかなかったゲームに対して、常軌を逸した情熱を傾け、人生をかけて勝負にこだわる人たちの登場です。

言ってみれば「空気を読めない人たち」です。

みんなが楽しくゲームをしているところへ「こうすれば勝てる」「こうすれば相手をだしぬける」と勝つ方法を次々に発明する、ちょっと変わった人たち。

彼らとゲームをするのは正直楽しくありません。彼らが絶対に勝つからです。なので彼らは、自分と似たような「そのゲームに異常な情熱を傾けてしまった人たち」同士でゲームをするようになります。

そうすると徐々に、「自分たちが遊んでいるゲームを異常にうまくプレーする人たち」が、見世物としての価値を持ちはじめます。商業スポーツの誕生です。

その見世物の人気が上がりゲームがお金や社会的名声になると分かれば、本気で取り組む人も増え、周りの人もその人を「変わった人」と見ないようになり、なんならリスペクトの対象になっていく。

 

……というのが、私の考えるゲームとスポーツの関係性です。この流れは、野球やサッカーでかつて起こり、今まさにeスポーツで起きていることです。

 

最近はカジュアルなゲームでも「勝敗がある以上、勝つために最善の方法を探して練習する」という考え方が広がりましたが、これはスポーツの考え方がゲームに逆輸入されたもので、元来のゲームの発想ではありません。

お正月に家族で遊ぶ大貧民のために、1年間それだけを練習しつづける人は普通いません。でもそれをやってしまう例外的な発想、異常な執着こそがスポーツの本質です。

あるゲームに魅入られてしまい、他のものを犠牲にしてでもオールインするような人間の偏りこそが、スポーツの魅力の根本なのです。極端に偏って、どこまでも不合理だからこそ美しく尊い。そして偏っているのは選手だけでなく、観客も同じです。巨大ビジネスになったとしても、その本質は変わりません。

 

だから、クラロワやブロスタを作っているスーパーセルが表明した「私たちはゲームを作る。それを競技的にプレーする人たちが現れるならば支援する」という順番は完全に正しいと思います。

eスポーツ用のゲームが存在するのではなくて、ゲームを異常な真剣さでプレーする人が登場した時に、遊びとしての性格はそのままに、「追加で」スポーツとしての性格がそのゲームに生まれるのです。

こんまりとはガレンである。

最近、ずっとこんまりのことを考えていた。こんまりというのはもちろんアメリカも人気の片づけのカリスマ、近藤麻理江さんのことだ。

彼女のキーワードは「ときめき」とか色々あるのだけど、大きく括れば持ち物は少ないほどいいという思想の人である。「片づけが終わると人生が始まる」なんて発言もある。

 

そして、こんまりの本質は「ガレン性」にある。説明しよう。

ガレンはとにかく操作が簡単だ。4つのスキルはそれぞれ、走る、固くなる、回る、大ダメージ、いたってシンプル。

操作がシンプルなので能力を引き出すのが簡単であり、逆に言えばできることが限られている。

この「世界≒ゲームに対して自分ができることをシンプルかつ単純にしたい、選択肢を減らしたい」という欲望が「ガレン性」の正体である。

 

話は一度こんまりに戻る。 

こんまりが片づけようとする持ち物とはつまり、「世界に対して自分が関与するための道具」である。

車があれば遠くまで移動でき、包丁があれば野菜や肉を切れる。本があれば物事を考えるきっかけになり、パソコンがあればゲームや文章作成ができる。

つまり私たちにとっての持ち物は、ガレンにとってのスキルである。筋肉や知識もスキルだが、持ち物も同様にスキルなのだ。

では、それを減らすことは何を意味するか。

 

持ち物がスキルだとすれば、こんまりの「物を片づけよう」という言葉は、「世界に対して取れるアクションを減らそう」という誘惑である。それが、多すぎる選択肢の前で立ちすくみ何も選べなくなりがちな現代人の心を捉えた。

 

しかしスキルを減らせば、できることも同様に減っていく。

選択のストレスを減らすことと引き換えに、自分が達成しうる可能性が減ることも同時に受け入れざるを得ないのだ。


世界を変えるか、自分を変えるか

 

ここに、自分と世界の間にズレがある時に自分が悪いと考えるか、世界が悪いと考えるか、という問題が関係してくる。

多くの例外があることを承知で言えば、アメリカ人が車と銃とマイホームをこよなく愛してきたのは、「自分のテリトリーは自分の手で守る。世界が相手でも戦ってやるぞ」という独立自尊の精神の現れだ。国も個人も根っこには孤立主義がある。

 

一方のこんまりは、自分が世界と戦うためのスキルを減らして、内面のときめき≒幸福感を増大することに注力する。

彼女の思想が禅だと言われる理由もここにある。摂取する情報量を減らして、世界を変えるのではなく自分の内面を変えることで世界とのズレを感じなくする。その内向的・自罰的なスタイルは確かに禅に通じる部分がある。

 

結論に入ろう。

こんまりは、多すぎる選択肢を減らす提案によって人気を得た。それは複雑すぎる世界に対応しようとする現代人の防衛策として有効だった。

この構図は、LoLという複雑すぎるゲームに立ち向かうために、せめてスキルの選択肢だけでもシンプルにしようというガレンの思想と同じものである。

 

しかし、話はここでもう一度反転する。

重要なのは、ガレンが世界≒LoLに立ち向かう意志を持っているのと同様に、こんまりもまた「ときめき」という形で世界に立ち向かう選択肢を残していることだ。

世界に有効に立ち向かうためにこそ、選択肢を減らそうとしているとも言える。

 

世界に対してあらゆる選択肢を駆使する全面闘争は断念しても、局地戦の可能性までは捨てていない。少なくともそう解釈する余地を含んだ思想であり、私は「ときめき」にファイティングポーズを読み込みたい。

 

こんまりにはよく可憐という形容詞が使われるが、とんでもない。こんまりはガレンなのだ。

 

最後に、私のチャンピオンマスタリーを貼っておく。見てわかるとおり、揃いも揃ってガレン性の高い=操作がシンプルなチャンピオンばかりである(イレリアのマスタリー6はリメイク前のもの)。

私もまた、LoLという複雑な世界に局地戦を挑む1人のガレンであり、こんまりであったのだ。

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